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短編集<そこから物語は生まれる>文学編

空が青いと知った日

作者: papiko

 僕は心を病んでいた。働かなければ、生活するのは大変で、折角逃げ出したはずの実家に舞い戻ってしまった。最初は、貯金を食いつぶすまでに自分を立て直す自信はあった。けれど、心と体は薬を使っても、働くことをなかなか是としなかった。

 そうこうしているうちに、僕の貯金は底をつき、結果、車や携帯を手放すことになった。どちらも対して愛着のあったものではない。けれど、ないということが異様な喪失感を生み出したのは事実だった。

 ただ僕は、雨露しのげて、ひもじい思いもせず、生きているだけなら十分な状態であることはわかっていた。


(わかっていたのに……)


 それは突然起こった。刺殺さなければならない。自分を……。たった一言、母が「生まなければよかった」とつぶやいた瞬間に。


 両親が寝静まった真夜中。月の光が差し込む台所に立って、包丁を握る。手は勝手に一番刺さりやすそうな切っ先の鋭利なものを選ぶ。


 さあ、これで終わる。

 刺殺せ。


 両手で握りしめた包丁が、僕に向かってくる。


『それでどうなるの?』


 不意に聞こえた声に手が止まる。驚いて振り返れば、猫がいた。僕のベッドで気持ちよさそうに眠っていたはずの丸が足元にすり寄ってきた。


(僕は何をしようとした?)


 手から力が抜けていく。包丁はなぜかきちんと元の場所に収まり、僕は丸にねだられるまま猫缶を一つあける。丸は適当に食い散らかして、僕といっしょに部屋へ戻った。

 僕はベッドに胡坐をかき、丸はその上に乗って寝息を立てる。一睡もできないまま、予定どおり病院へ行き、いつものように昨日までのできごとを話した。


 結果、即日入院となった。僕はその日から病院内の閉鎖病棟の保護室で一か月生活した。白い壁、白いマットレス、むき出しの水洗トイレ、センサーでしか水のでない壁に埋め込まれた小さな手荒い、はめ殺しの窓、外からカギのかかる扉……そこは衛生的に管理された白い監獄だった。


 僕がそこでの生活で覚えていることといったら、何を食べても不快な味で、夜中に起きていると看護師が睡眠薬を飲ませることだった。


 ようやく、自分の担当看護師の名前と医者の名前を覚えたころ、同じ病棟内の一般病室に移った。普通にベッドがあって、机があって小さな木製のロッカーがあった。はめ殺しの窓以外、普通の病室。


 僕の感覚は少しずつ通常業務を始めた。決まった時間に食事をし、薬を飲む。共同スペースでぼんやりと新聞を眺める。文字が頭に入ってくるようになると、自分がここにいることに違和感を感じ始めた。


(煙草がすいたい……)


 喫煙室が目に入る。明日は、監視付きで売店にいけるから煙草とライターを買おうと思った。結局、ライターは買わなかった。付き添いの看護師が、ライターは喫煙室に常備されているからと言ったから。


「タバコずっとがまんしてたんだね」

「ええ、まあ……」

「そういえば、倉橋先生と言い合いしてたっけ」

「言い合い?」

「覚えてないかな。煙草が吸いたいと言った君に、先生がこの機会にやめればいいとね。でも、頑なにやめる気はない。煙草が吸いたい。そればかり言ってたんだよ。先生もさすがに折れたようだね。一般病室にうつったら、喫煙室の使用を許可するって」

 記憶にない。倉橋先生は飄々ひょうひょうとした年齢不詳の医者だった。この病院のエースだという噂の精神科医だ。

 僕は淡々と院内での日常をこなす。作業療法に参加して、軽い運動をしたり、決まった時間に食事と薬を飲んで九時の消灯後、おとなしくベッドに入る。ただ、僕の睡眠はなかなか安定しなかった。


 早くここを出なければいけない。母は一日おきに、着替えを持ってきて汚れ物を持って帰る。入院してから、ずっとそうしていたらしい。

 おびえたような母の顔をみるたびに、うんざりする。洗濯はできるから、そんなに頻繁にこなくていいよと言ったら、お願いだからそんなこといわないでと泣きそうな顔をされてしまった。


 入院してから三か月後、退院の日がきまり、担当の看護師がおめでとうと言った。

「いろいろご迷惑をかけてしまってすみません」

「いやいや、そんなことないよ。ただ、はじめはどう接していいのか結構悩んだんだ」

「そう……ですか?」

「そうなんだよ。ほかのスタッフたちもどう接するかというより、声をかけるのを躊躇するほどだったからね。若い連中は、ときどきドアの窓から部屋をのぞいて話しかけるタイミングを計ってたな」

「えっと……よく覚えてないです」

「倉橋先生がね、言ってたんだけど君が病人であることは一目瞭然なのに、今までの患者さんとは何かが違うようだって。君がここに三か月入院になったのは、保護入院だからだったんだけど、覚えてる?」

「いえ、全然」

「そっか。君は淡々と話を聞いてたよ。保護入院という言葉を聞いても、別段、驚くこともそれが何を意味なのかも問い返すことなく、まるですべてわかってるという感じだったんだ。それに、君ほど僕らの手をわずらわせない患者も珍しかったんだ」

「そうでしょうか。外に出るときは、付き添ってもらわなければならなかったし、みなさんにはよく声をかけていただいて、気遣っていただいていたような気もしますが?」

「それはね。君が僕らを頼らなかったからだよ。君、井澤君ともめたことあったでしょ?」

「井澤君?」

「ほら、急に君に声をかけてきた少年だよ。覚えていない?」

「ああ、彼ですか。覚えています。丁度、僕が喫煙室に入ろうとしたときに腕をつかんで話しかけてきた子ですね」

「そう、僕はその日夜勤じゃなかったから、朝のミーティングで知ったんだけど。みんな驚いてた。僕も話を聞いてびっくりしたよ」

 何に驚いたのだろうか。僕にはわからない。

「君が井澤君をいさめたって。僕らだって彼を落ち着かせるのは容易じゃないし、場合によっては鎮静剤を飲んでもらうこともあったんだ。他の患者さんからもさんざん苦情が来ててね。いきなり話しかけてきて怖いって。君は怖くなかったの?」

「別に、怖いというより、何か必死で訴えてるみたいだけど言葉がはっきりしないので、落ち着いてといっただけですよ」

 あの時のことを思い出す。彼は僕に何かを必死に訴えていたけれど、言葉がまとまっていなくて、僕はとにかくゆっくりと低い声で落ち着いてと繰り返した。そして、マシンガンのような彼の言葉がとまったとき、僕は煙草を吸いたいから、話があるなら少し待っててくれるように言ったのだ。


 喫煙室を出ると、彼の姿はなかったから別に気にもしていなかったのだけど。

「そういえば、彼はあの後どうしたんですか?」

「自分の部屋にもどって、おとなしくしていたよ。いつもなら、手当たり次第に声をかけて夜勤のスタッフを悩ませるんだけど。その日だけは、就寝前の薬を無言で飲んで、朝まで起きなかったって」

「そうですか」

 その後の彼がどうなったかは、僕は知らない。ときどき共同スペースで見かけたけど、それもほんのしばらくで、いつの間にかいなくなっていた。

「僕はあの日から、あまり彼を見かけなかったし、いつの間にか共同スペースに来ることがなくなったみたいですけど」

「実はね。数日、落ち着いていたけど。他の患者さんとトラブルを起こして、怪我をさせてしまったんだ。だから、完全隔離室に入ってもらってるよ」

 完全隔離室。僕が保護室にいたとき、洗面と歯磨きで使っていた場所にあったいくつかの部屋。たぶん、あの場所だと思う。何人かの患者さんたちが噂していた。拘束服を着せられる部屋があるらしいと。

「彼は拘束されてるんですか?」

「暴れたときに二日ほどね。今は拘束具は必要ないけど、対応には悩まされているよ。君はあの日、どうやって彼をいさめたんだい?」

「いさめるとかそういうつもりはなかっただすよ。あまりに必死に訴えてくるから言葉がうまく出ていないし、興奮しているようだったので、落ち着いてという言葉をゆっくり低く繰り返したんです。そしたら、彼がしゃべるのをやめてくれたので、僕は煙草を吸うことを話して、何かあるのなら座って待っててといったんです」

「本当に?それだけ?」

「そうですよ。僕は別に何もしていませんよ」

 彼は僕らはまだまだ患者さんのことを理解できていないのかもしれないとつぶやいた。


 退院の日、倉橋先生と話をした。

「そういえば、お父さんは一度も来なかったな」

「ああ、それは……怖がりだからですよ」

「怖がり?」

「父は自分が理解できないものが怖いんです。神様は信じているようですが、いつも災害や事件がおきると禊だというのです。その人の魂がけがれているせいだと。僕は小さい時からその言葉を聞くたびに、不愉快だったんですけどね。昔、カツアゲにあってお金がなくてなぐられたことがあると酔ったときに話してくれたことがあって。ああ、この人は怖がりなんだなと思ったので。死や病の跋扈する病院は特に怖いんですよ」

「なるほど、君のお父さんは病院はお化け屋敷だとでも思ってるってことか」

「たぶん、そういう感じです」

 僕が笑うと先生は、うん、その方がいいと言った。何がその方がいいのだろうか。

「もうここには来ないと約束してくれるかい」

「そうですね。僕も入院はこりました。絶対という自信はありませんが、できるだけそうするつもりです」

「タバコもやめた方がいいんだけどなぁ」

「すみません、これだけは死ぬまで無理です」

「そうかい。じゃあ、まあ、焦らずに生きてください」

「はい、お世話になりました」

 僕は一礼して診察室をでた。


「いい天気だな」

「梅雨の晴れ間ってやつですよ。って……そのわりには暗いですよ。芳川さん」

「あー……今日、雪村さん退院したんだろ」

「ええ、午前中に。俺たちにも挨拶してくれましたよ。お世話になりましたって」

「俺、あやまりたかったなぁ」

「何をですか?」

「怒鳴ったこと」

「えー、そんなことしたんですか。芳川さん最低」

 女性陣からのブーイング。当然だけど。

「いや、あの日はもうなんか厄介な患者さんと渡り合った次の日の夜勤でさ。夜中に雪村さん起きてたからつい、寝ないと薬のませるぞって怒鳴っちゃって……すぐにやばいと思ったよ。暴れられたらまずいって思ってさ。でも、雪村さんは何にもいわないで寝てくれて。次の日、苦情来るかと思ったけどそれもなくて……」

「大丈夫ですよ。芳川君。彼は保護室にいたときのことをほとんど覚えていないそうですから」

「え、あ、そうなんですか」

「うん、覚えているのはご飯が変な味だったのと、眠れない時に薬をだしてもらえたことだそうです」

「じゃあ、あの晩のことは覚えてなかったてことですか……」

「たぶんね」

「うーん……でもやっぱり、あやまっておきたかったです。俺」

「芳川さん、きもいよぉ」

 またもや女性陣はブーイング。そりゃね。仕方ないけどな。俺はわりと暴れる患者を怒鳴りつけておとなしくさせてきたから。

「なら、芳川君には特別な呪文を教えてあげるよ」

「なんですか?」

「落ち着いてくださいとゆっくり低い声で相手が落ち着くまで唱えるんだって」

「そんなんで落ち着きますかね」

「雪村君は井澤君をそれで落ち着かせたんだよ。だから、きっと効果あると思うんだがね」

「そうっすか……おし、その呪文ありがたく使わせていただきます!」

 みんなが笑う。珍しく愚痴ばかりのナースステーションが明るくなった。

 ああ、空が青い。本当に久しぶりの青空だ。



【終わり】



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