第九十七話 噛み合わない約束と、浮き彫りになってきた勘違い
部屋に戻ってきた優香は、様変わりした室内に、呆気にとられていたようだが、予定していた行動を変更するつもりもないようだ。
「今夜も美味しい物を食べさせてあげるから、期待していてね」
「ああ……」
返事はしたが、その声には力はなかった。今はとてもそんな気になれない。どんな美味しい物も、俺の喉を通らないんじゃないだろうか。
大体自分の手で食べることも出来ない状態じゃ、食事を楽しむどころじゃない。ため息交じりに、視線をずらすと、物欲しそうな顔で、満面の笑みになっている虹塚先輩が目に入ってきた。
いやいや! 虹塚先輩が手料理を美味しくいただくことはあり得ませんから。笑顔で、俺におねだりしても効果はないですよ。俺が目で否定しても、虹塚先輩の表情は曇ることはない。まぎれもなく、通じていないんだろう。自分が危険な状況に立たされているというのに、そのおめでたい思考は、心底尊敬に値します。
「でも、食器類が全部駄目になっているわね。これじゃ、せっかく美味しい料理を作っても、装えないじゃない」
嫌なことを思い出させてくれるな。そうだよ。食器類は、全部虹塚先輩が、うっかり破壊してしまったのだ。うっかりな。
ベッドの下で息を潜めている破壊犯兼愉快犯から顔を背けて、密かに舌打ちした。だが、その瞬間、俺の脳内を閃きが走った。
「そうだよ! 食器が壊れたままじゃ、優香の美味しい料理が食べられないじゃないか。金は俺が出すから、新しいのを買ってきてくれないか!」
駄目元で提案してみる。だが、優香も食器が全滅していることを面白く思っていないし、もし再び出かけてくれればチャンス到来だ。
「何なら、俺が買ってきてやるよ。でも、このままじゃ……」
「決めた。今夜はおにぎりにしましょう」
やっぱり駄目か。俺の駄目元のアタックは、ツッコミすら返してもらえなかった。おにぎりか……。炊飯器は破壊を免れているし、皿も必要ない。この状況下では、ベストな選択といえた。
「自分の部屋で騒ぐのは自由だけど、程度を考えないと駄目よ。そうしないと、今日みたいに美味しい料理を食べる機会が失われちゃうんだからね?」
「否定はしないよ」
損害額だけを見ても、その補填のせいで、しばらく温かい飯は食べられそうにないな。
「結局、鍵はどこにあったんだ?」
どうせ俺が鍵を探していたことは、とっくにばれているんだろう。優香は遊びとぼかしてはいるがね。だったら、開き直って、正解の場所を聞いてやる。大胆な行動かもしれないが、こうなりゃ自棄だ。
「駄~目。教えてあげない」
あっさりと拒否されてしまった。しかも、俺が寝たら、また隠し場所を変えるという。留守中に、ここまで全力で探されたのなら、警戒するのも無理はないが、甘かったな。俺が見ていなくても、ベッド下の虹塚先輩が、お前が鍵を隠すところを見ているんだよ。そして、またお前が買い出しに出た時に、鎖の鍵を無事に入手して、俺は晴れて脱出って訳だ。
勝ちを確信して、ベッド下の虹塚先輩を見ると、また微笑み返してくれると思っていたら、眠ってやがった。
先輩の呑気過ぎる行動に、怒鳴り声を上げたくなる。隠れてから、そんなに時間が経っていないじゃないか! ていうか、こんな状況で、どうすれば寝息を立てられるんだよ!! 神経が太過ぎるでしょう!
「爽太君。鍵が見つからなくて苛立っているのは分かるけど、落ち着かなきゃ駄目。無闇に喚き散らす男は、女の子に嫌われちゃうわよ」
終いには、この状況の元凶ともいえる優香にまで諭されてしまう始末だ。喚き散らすことはないが、ところ構わず泣きたい気分だ。
幸い、優香が買い物の際に、梅干しや昆布など、おにぎりの具を買い揃えていたおかげで、バリエーションは豊富だった。塩加減も丁度良く、料理としては完成の域に達していた。しかし、俺の空虚な心を満たしてくれることはなかった。
「まだ食べる? それとも、焼きおにぎりを作ってあげようか?」
おにぎり三個で、もう食べなくなってしまった俺に、優香が優しく語りかけてくる。彼女は、どこか調子が悪いのか気にしているようだが、体を動かしていない分、単に腹が減らないだけだ。俺と違って、食事を摂れないから空腹に違いない虹塚先輩は、ずっと寝たままだ。呑気なものだが、起きて何かしらをやらかされるのを考えたら、こっちの方がいいのかもしれない。
ベッド下がよほど寝心地が良いのか、時々気持ちよさそうに「う~ん」と唸る度に、猫の真似をして誤魔化さなければいけないことを除けば、時間は平穏に流れていた。ただ、俺の気が晴れないことを除けばだが。
「もう! いつまでもそんな顔をしないの。食器や家具が壊れたのは自業自得だし、鍵が見つからなかったからって、落ち込んだままでいるのは似合わないわよ」
お前にだけは言われたくないと思っていると、優香は俺の横に添い寝してきた。穏やかな顔をそっと近づけて、俺の頭を優しく撫でる。
「ほら……。これで落ち着いてきたでしょう?」
赤ん坊をあやす慈母のような表情で、俺を覗き込んできたが、心が落ち着くことはなかった。ついでに言うと、虹塚先輩が寝ていてくれて助かった。さすがに第三者に、こんな姿は見られたくない。
「あら……。これじゃ駄目なの? 困ったさんね。それなら、これはどう?」
諭すような口調で、俺と唇を重ねてきた。でも、やはり俺の心は落ち着かない。むしろ、強引にされたせいで、より気分が悪くなったくらいだ。
「こんなことをしても無駄だぞ……」
「無駄とは思わないわ。こうして、触れ合いを続けていれば、私たちの心はきっと近くなっていくわ」
「俺が無駄だと言っているのは、そういうことじゃない。何度キスを繰り返そうが、お前の方からやっている限り、無駄だと言っているんだ」
約束では、俺の方からキスをしない限り、アリスと別れて、代わりに優香を付き合うというルールは発動しない。キスを繰り返している内に、俺が欲情して、優香を押し倒すと考えているのなら、甘いとだけ言っておこうか。
そんなことは、わざわざ言うまでもなく、俺の冷めた目を見ていれば分かると思うのだが、優香は気落ちした兆候すら見せない。
「怒っているの? それともキスだけじゃ足りない? もう、爽太君ったら、Hね」
優香が俺に抱きついてくる力を強めた。伝わってくる感触も増したが、鎖で身動きが取れなくなっている状況で欲情するほど、俺は呑気な性格ではない。
「こんなことをしても、俺はお前にキスはしない。無駄なことだ。まさか約束を忘れた訳じゃないよな」
「約束……?」
冗談のつもりで指摘してやったら、思いのほかきょとんとしやがった。縁起とかではなく、マジで、俺が何を言っているのか理解不明って顔だ。この野郎……、この条件を提示してきたのは、お前の方だろう。それで、勝手に忘れるって、どれだけふざけているんだよ……。いや、こいつがふざけているのは、最初からだから、今更ツッコミはしないけどよ。
あ、でも、気分は悪いから、やっぱり文句を言うことにしよう。
「とぼけるな。俺の方からキスをしたら、お前と付き合うって約束だよ。海で拉致監禁した時に、お前から提案してきただろうが……!」
「……」
何を言っているのか分からないという顔をされた。こいつ、白を切る気か。成る程、分が悪くなったから作戦を変更して、強引に言い寄ることにしたんだな。とにかく惚れさせれば、こっちの勝ち。そうすれば、作戦もへったくれもない。
「言っておくが、俺の彼女の方が、お前よりも百倍魅力的なんだからな! だから、お前がいくら頑張ったところで……」
俺の叫びは、強制的に中断させられた。優香に女とは思えないくらいの強烈な拳を食らったのだ。当たりどころが悪かったのか、殴られただけなのに、結構な量の血が飛び散ってしまった。
「爽太君が悪いんだから……。私の前で、他の女のことを褒めた爽太君が悪いんだからね……」
さっきまでの語りかけるような口調は消え失せて、代わりに低い声で独り言のようにぶつぶつと呟いている。
「爽太君は、疲れているんだよ。キスとか、約束とか、訳の分からないことまで、喚いちゃっているしね」
訳が分からないのはこっちだ。どうして約束のことを覚えていないんだよ。一体、何だって言うんだ!? 話が噛み合わないぞ。お前から言い出したことだろ……!
腑に落ちないことだらけだが、雰囲気が険悪になったのは確かだ。だが、俺としても、退く気はない。無理やり監禁されていたことで、たまりにたまっていたストレスが、今の殴打で一気に爆発してしまったのだ。
「爽太く~ん!」
その空気に割って入るかのように、ドアの向こうから、声が聞こえてきた。
声の主は、ドアを何回かノックした後、再び大きな声で呼びかけてきた。ドアノブの鎖を気にしているような素振りはない。
この声……、間違いない。アリスだ……。