第九十五話 悪意も計算もないが、とことん鋭利なナイフ
監禁されている俺を、アカリが尋ねてきてくれたが、反応がないことで留守と思ったのか、結局帰って行ってしまった。
「ドアノブに鎖で動かないようにしていたとはな……。開かない訳だよ」
アカリが去ったことで、再び無人になったドアの前を見つめながら、優香の方を見ずに負け惜しみを呟いた。
「念のためよ。誰も、この部屋に入って来られないようにね」
ドアノブに鎖なんかしたら、中の様子を怪しんで、却って人が寄ってきそうなものだがね。今にして思えば、宅配便の業者が、首を捻っていたのはこういう訳か。それでも、誰も警察には通報してくれなかった。例え怪しくても、内部のことには干渉しない。都会の無関心か。それとも、面倒事に巻き込まれたくないというだけか。
「どっちにせよ、助けてくれる人はいない訳か」
「そこは喜ぶべきところよ。誰も私たちの世界に乱入してこないんだから」
優香は無邪気に笑っている。たしかに、こいつからすれば、願ってもない状況だな。俺にとっては、最悪そのものだが。
「ただ……。窓ガラスが開いたままになっているのが難点ね。鍵が壊れたままだから、ここからだと、あっさり侵入されちゃうもの」
そこの鍵は俺が勢いよく壊してやった。修理屋を呼ぶ訳にもいかないので、壊れたままになっていたのだ。
「まあ、いいわ。ほとんどの人間は、玄関の様子を見て、そそくさと立ち去っちゃうから。裏に回ってまで確認してくる剛毅な人間もいないでしょう」
優香の言う通りだ。仮にアキや柚子が来ても、そこまではしないだろう。玄関の時点で、まずギブアップだ。
「爽太君が旅から戻らなければ、何人かが尋ねてくるかもしれないけど、心配はないってことよ」
「お、おい……! 何をする」
おもむろに縄で俺の口を結び始めた。これじゃ、声も出せない。猿轡ってやつだ!
「これから買い物に出かけるから、その間に助けを呼ばれないように、ちょっと話せなくなってもらうわ。まだまだ爽太君のことを、信用する訳にはいかないの。心苦しいけど、我慢してね」
そう言って、猿轡の上から、キスをしてきた。そんなことをするくらいなら、自由にしてほしい。
こうして、動くことも、話すことも、ままならなくなった俺を満足げに見つめると、優香は出かける準備を始めた。
「そこから出るのかよ……」
どこから出るのかと思っていたら、玄関ではなく、窓ガラスから出るようだ。
「他に出るところがないもの。本当はね、この部屋に入る度に、入り口の鎖を外していたんだけど、今回は爽太君が窓ガラスを破壊してくれたから、そこから入ったの。だから、ドアノブの鎖はかかったまま。中から開けることは出来ないから、こっちから出るの」
俺が何もしなくても、優香はこの部屋に入れた訳だが、どうも潜入の手助けをしてしまったみたいで、良い気がしないな。
複雑な気分で黙り込んでしまう俺の頭を撫でると、優香は優しく頭にも、キスをしてきた。
「じゃあね、爽太君。大人しくしているんだよ!」
大人しくしていろか……。声色こそ明るいが、台詞は、俺を脅しにかかっているんだよな。まあ、俺を監禁している訳だから、間違いはないがね。
優香がいなくなった後、助けを呼ぼうと声を張り上げるも、猿轡がしっかり結ばれていて、まるで声にならない。身動きも、寝返りくらいしかまともに取れない状態では、どうしようもない。優香さえいなくなれば、部屋のどこかに隠したという鎖の鍵を探せると思っていたが、甘かった。
これでは、優香が戻ってくるのをただ待つことしか出来ないではないか。悔しくて、苛立ったが、今の俺には、地団駄さえ踏むことが許されない。
「お困りの様ね……」
絶望のあまり、俯いてしまいそうになった俺に、誰かが声をかけてきてくれた。
信じられないことに、さっき優香が出ていったばかりの窓ガラスから、虹塚先輩が顔を覗かせていた。
虹塚先輩……?
俺と目が合うと、虹塚先輩はにっこりとほほ笑んで、手を振ってくれた。
虹塚先輩は、部屋に上がってくると、俺の猿轡を外してくれた。良かった……。これで、声は出せるようになった。
「どうして、虹塚先輩がここに……?」
「お酒の配達で、偶然ここを通りがかったの。そうしたら、これまた偶然、爽太君の部屋の窓ガラスから女性が出てくるのが見えたのよ。今、爽太君は、旅に出ている筈なのに、おかしいなあって。それで様子を窺ったら、爽太君を見つけたのよ」
「そうだったんですか」
メールを怪しんで訪ねてきてくれた訳じゃなかったのか。ともあれ、偶然のイタズラで、虹塚先輩が尋ねてきてくれることになった訳だ。
「でも、爽太君……」
俺の姿をじろりと観察した虹塚先輩は、憐れむような視線を俺に向けた。無理もない。後輩がこんな痛ましい姿で監禁されていたら、誰だって、心を痛めるものだ。
「変わった趣味をお持ちなのね」
「違いますよ……。これが楽しんでやっているように見えますか?」
事実無根の濡れ衣に、ため息交じりに抗議した。というか、さっき憐れむような視線を向けていたのは、実は変わった趣味に目覚めた俺を見下していたってことか!? だが、虹塚先輩も負けていない。
「ええ! うちのお客さんの中にも、苛められると興奮するって人が何人かいるわ。あ、酔っ払うと話してくれるの。私が苛めている訳じゃないわよ」
「そんなことは聞いていないです……」
てっきり誤解して申し訳ないと、謝罪の言葉がくるかと思えば、大人のディープな世界を覗き見ることになってしまった。
「俺は今プレイ中ではありません。さっきここを出ていったやつに、監禁されているんですよ」
「? でも、ここって、あなたの家じゃないの?」
「ぐ……!」
そこは察して欲しかった。俺だって、自分の家に監禁されているなど、情けなくて話したくないのだ。
こうなっては仕方がない。恥も外聞も捨てて、俺はここまでの出来事を詳しく、誤解のしようがないほど丁寧に、虹塚先輩に説明した。
「そんなことがあったのね……。爽太君、怪我はない?」
ようやく話の通じた虹塚先輩は、俺の顔を心配そうに窺ってきた。さっきまでの憐れむような視線ではない。怪我はなかったが、涙ぐみそうになってしまった。
「確か、どこかに鎖の鍵が隠されているのよね」
「ええ……。隠した時に寝ていたので、どこかは分からないんですが……」
先に警察に通報した方がいいと、後々考えたが、この時は、俺も虹塚先輩も、鍵を探し出すことが先決だと思い込んでしまっていた。
「おそらく、俺が探せない場所が怪しいと思います。例えば、台所の食器を収めている戸棚とか……」
「あそこなら立ち上がって、手を伸ばさないと探せないものね」
虹塚先輩はおもむろに近付くと、積まれている食器に手を伸ばした。って、一番下から触らないでください。しかも、そんな強引に……。それじゃ、食器が……。
俺の願いも空しく、間もなく台所に、けたたましい音が響き渡った。喧騒が静まった後、次に聞こえてきたのは、虹塚先輩の申し訳なさそうな声だった。
「爽太君……」
「いいです。詳しく話してくれなくて、結構です。というか、詳しく聞きたくない!」
割れた食器代のことを考えると、頭が痛くなってくるが、今はそれどころではない。鍵の発見が先決なのだ。
落ち込む虹塚先輩を懸命に励まして、鍵探しを続けてもらう。しかし、一度乱れたペースは元通りになることはなく、その後も何度か喧騒に頭を痛めることになってしまった。
涙腺が緩みそうになるのを堪えて、それでも鍵が見つかってくれると信じて、我慢を重ねた。
しかし、無情にもその時は訪れてしまったのだ。優香が帰ってきたのだ。
ドアノブがガチャガチャと回された時、また宅配便の業者かと思ったが、次に優香の声がした時、全身が凍りついた。いや……、割れた破片で埋め尽くされて、部屋が廃墟と化した時点で、体温は下がりまくっていたが、それとは種類の違う寒気を感じた。
「よし! ドアの施錠は良し! あとは爽太君に、お帰りのキスをしてあげるだけね」
間違いなく優香だ。買い物を終えて戻ってきてしまったのだ。
「不味い……! 優香だ……」
「優香? ああ、さっき窓ガラスから外に出ていった子ね」
虹塚先輩は、まだおっとりとした態度を崩さない。ここまで危機感が薄いと、逆に尊敬に値するものがある。
だからといって、笑い話で片づけられるものではない。このままだと、虹塚先輩は、優香と遭遇することになってしまう。そうなれば、どういう凄惨なことになってしまうのかは、想像も出来ない。
「虹塚先輩! どこかに隠れてください。危険です!」
今からでは、部屋を脱出している隙はない。優香が戻ってくるまでに、虹塚先輩に隠れてもらわないと。