第九十四話 二人だけの世界と、そこに開いた小さなひずみ
鎖で全身の動きを封じられて、自宅のフローリングの床に寝転がっているしかない状況が続いていた。隣りの部屋まで行くことも困難な状況は、こう着したままで動く気配がない。
このまま死ぬまで、ミノムシみたいな体勢を強いられることはないと思うが、状況の変化のタイミングは、俺を縛り上げた犯人である優香が握っていた。俺は、ほとんど彼女の気まぐれに、身を任せるしかなかった。
当の優香は、上機嫌で、特製カレー作りに汗を流している。既に野菜は切り終えて、鍋に入れてコトコトと煮込み始めている。ルーまで自分で作るつもりみたいで、この分だと、本当に十時間かかってしまいそうな勢いだ。さっき腹ごなしに、缶詰めを食べさせてもらったのは正解だったな。
寝返りだけは自由に出来たので、優香が視界に入ってこないように、体勢を反転させた。真っ黒なままのテレビ画面を見つめながら、俺自身の未来も、先行き不透明だなと考えようとしたが、あまり面白くなかったので却下した。
そういえば、風呂はどうするんだろ? 念のために言っておくが、優香の入浴の心配をしているんじゃない。俺自身の入浴のことを言っているのだ。鎖が巻かれている状態では、服を脱いだり、入浴後にまた着ることなど出来そうにない。もっと他にするべき心配がありそうなものだが、頭に上ってくるのは、意外とどうでもいいことが多いのだ。
トイレに関した質問をした時に、優香が一瞬たりとも、鎖を外す気がないということは分かっているので、風呂も期待出来そうにない。服をハサミで切断すればいいとか、とんでもない打開策を提示されても困ってしまうので、質問することすら憚られた。
トイレも入浴もままならない。日本国憲法が保障している最低限度の生活が送れないことに、ため息が出てしまう。話し相手も、今料理中のヤンデレ少女くらいしかいないし。こんな出来ないことだらけの状態で横になっていると、もうすることは一つしかないようで、いつの間にか、俺は寝てしまっていた。
夢の世界なら、自由に動き回ることが出来ると、無意識の内に願っていたのかもしれない。もっとも、俺の深層心理とは別に、夢の世界でも、あまり動き回ることは出来なかった。悲しいことに、夢の中でも、牢屋みたいな場所に閉じ込められていたのだった。
翌朝、小鳥のさえずる音で目覚めた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。昨日は、部屋の中でドタバタしていた上に拘束される羽目になってしまい、身体的にはたいして疲労していないと筈なのに、いざとなったら、眠れるものだな。俺って、結構神経が図太いのかもしれない。
まだ頭がぼんやりしているが、拘束されている現状では、思考だけスッキリしていても仕方がないので、しっかり覚醒する必要などないのかもしれない。むしろ、頭の回転が速いと、マイナス思考に傾いた未来をせっせと想像してしまう可能性もあるので、考えようによっては、頭に霞のかかった状態のままがベストなのかもしれない。
どうせ現実では身動きがまともに取れないのだから、夢の世界で、野原を駆け回ろうと、二度寝も視野に入れていると、食欲を誘う匂いが鼻を突いた。
この匂いは、間違いなくカレーだ。十時間かけて作られた、優香自慢のカレーが完成したようだな。
「おはよう。ぐっすり眠っていたね」
俺のすぐ真横から優香が話しかけてきた。視線を向けるまでもなく分かる。超至近距離というか、密着している状態で、俺と添い寝していたのだ。
「眠れないから、爽太君の寝顔をずっと眺めていたの」
一晩中見ていたのか突っ込みそうになったが、喉から出そうになったところを、懸命にこらえた。質問の内容通りだった場合が怖いので、回答を聞きたくなかったのだ。
「お腹……。空いているでしょ……」
「昨日は缶詰めしか食べていないからな」
実際、腹はかなり減っていた。今なら、毒入りの料理でも、完食出来てしまいそうなくらいだ。
俺が二つ返事で、手作りのカレーを欲しがったことに、優香は気を良くして台所へと走っていった。口惜しいことに、後ろ姿は、歳相応の女子なんだよなあ。
皿から零れんばかりに、並々と具とルーを注いだカレーを、慎重な足つきで戻ってくると、俺の前に優しく置いてくれた。スプーンと牛乳も一緒だ。
「はい❤ お肉もたっぷり盛ってあるよ。た~んと召し上がれ!」
召し上がれと言われても、この体勢では、スプーンを持つことが出来ない。犬みたいに、顔から行けとでも言うのだろうか。
「悪いが、この体勢だと、カレーを食べられない。鎖を外すか、食べさせてくれないか?」
「え? 私に食べさせてほしいの? もう、爽太君ったら、甘えん坊なんだから!」
鎖を外すという要求は、きれいに無視してくれたな。本心では突っ込んでやりたいのを、グッと堪えて口にカレーを運んでもらう。
「どう?」
「ああ、美味しいよ。リクエスト通り、じゃがいもは噛まなくても、口の中で勝手にとろけてしまうくらいに柔らかくなっているし、玉ねぎも甘みが出るまで炒めたのがよく分かる。ご飯も、肉も美味しいし、店で出しても問題ないレベルだね」
「そんな……。褒め過ぎだよ」
優香は興奮を隠すように、はにかんだ顔を背けた。今言ったことはお世辞ではない。変な色眼鏡は使わずに、率直な感想を、ストレートに口にした。実際、優香の料理の腕は確かだった。
「そういえばさ……。優香は、学校に行かなくていいのか?」
カレーを食べさせてもらいながら、質問を投げかけてみる。
「うん、爽太君と一緒にいられるのなら、もう何もいらない。学校に行きたいとも思わない」
どうせこんなことを言われるんだろうなと思って聞いてみたのだが、やはり言われてしまったか。俺さえあればいいと言っているが、嬉しい以上に、そんなことをして大丈夫なのかという心配の方が先立ってしまう。実際、この生活を続けていたら、愛情の維持も最終的に困難になるほどの、ろくでもない結末を迎えることになってしまうだろう。
だが、優香本人の顔には、そんな杞憂は一切見られない。行けるところまで言ってしまおうという根拠のない狂気を感じたね。早くヤンデレ状態を引っ込めないと、雪城優香の人生は、結構不味いことになる。
もっとも、俺が今の質問をしたのは、優香が付きっきりの状態だと、脱出もままならないので、さっさとどこかに消えてくれないかなあという意味で聞いたんだけどね。
この後も居続けるという優香に、内心で舌打ちをしながら、カレーだけは三杯食べた。あと、喉も乾いていたので、牛乳の他に、五百ミリリットル入りのミネラルウォーターも飲ませてもらった。
「ねえ、爽太君。空腹も満たしたことだし、面白いことを教えてあげる」
「面白いこと?」
どうせろくでもないことだろうと高を括っていたが、試しに聞いてみると、俺が寝ている間に、この体を拘束する鎖の鍵を、この部屋のどこかに隠したのだと言ってきた。
そろそろ縛られているところが痛くなって、全身を伸ばしたくなってきていた頃なので、この情報には表情がにやけそうになってしまう。
「どうして、わざわざ隠したりなんかしたんだ?」
浮ついている胸の内を見透かされないように、全神経を顔面に集中させつつ、優香に尋ねた。
「実はね。もうすぐ私の意識が切り替わりそうなの」
それはつまり、ヤンデレじゃない方の雪城優香が戻ってくるということか。表情がまたもにやけてしまう。どうしよう、表情がかなり不自然になっているのが、自分でも手に取るように分かる。そろそろ、優香に睨まれる頃じゃないかな。
「性格が切り替わったら、うっかり爽太君を自由にしちゃうかもしれないでしょ? そうならないように、爽太君が寝ている間に、この部屋のどこかに隠しておいたの。これで安心という訳よ」
「! 隠す……? 勘弁してくれよ」
口ではそう言って叫んだが、内心ではラッキーだと思った。優香がいない隙を狙って、探し出せば、体の自由を取り戻すことが可能だ。どうせたいして広くもない部屋だ。草の根分けてでも探し出してやるよ。
寝入っている時に隠されたので、現時点でどこにあるのかは不明とはいえ、入手出来る範囲内にあるというのは朗報だった。しかも、もうすぐヤンデレ状態も終わってくれるという。
無表情を装いながらも、来たるべき脱出のチャンスに、頭はフル回転を始めていた。
「何、これ……!?」
ドアの向こうから、声がしてきた。俺と優香は、反射的に玄関の方を向く。
「ドアノブのところに、鎖が巻きつけられているわ! これじゃ、ドアを開けることが出来ないじゃない」
この声はアカリか……? どうやら、優香が、俺に成りすまして送信したメールを怪しんで、訪ねてきてくれたようだな。しかし、ドアノブに鎖だと……? 開錠しても、開かない訳だ。優香を見ると、わざとらしく視線を反らしているし……!
「ねえ、爽太君! 家にいるんなら、返事をして! 何かあったんだよね!」
中には、くたばれとか抜かす薄情なやつまでいる中で、俺のことを本気で心配してくれているアカリの優しさに、涙ぐみそうになってしまう。だが、アカリの呼びかけに対して、返事をすることは許されていなかった。優香が、俺の顔を、超至近距離で覗きこんでいたからだ。もう瞳孔が開ききっていて、感情が全く感じられない。ちょっとでも不都合なことを口にしようものなら、俺であろうとも、ただじゃおかないという殺気が伝わってきていた。
「返事がないってことは、どこかに連れて行かれちゃったのかしら……。爽太君、よくお金に困っているみたいだったから、悪質なサラ金に付け込まれちゃって、金利が払えなくなって……」
すごい勢いで、物騒な想像を掻き立てているな。心配しなくても俺はここにいるし、サラ金とは関わり合いを持っていない。代わりに、同年代の熱烈な女子から悪い意味で猛アタックを受けているがね。
「どうしよう……。爽太君、事件に巻き込まれたのかもしれない……」
悲痛な呟きと共に、アカリは去っていったのが、足音から判断出来た。
俺の存在に、勘付いてはくれなかったのは残念だが、異変が発生していることは察してくれたようだ。あの調子だと、次は、何人か人を連れてきて、本格的に調べてくれるだろう。
「ドブネズミが……」
思い切り舌打ちして、心底忌々しそうに吐き捨てる。目には狂気が宿っていた。自分の計画をぶち壊しにしようとしているアカリに対して、あまり穏やかなことは考えてなさそうだ。物騒なことに発展する前に、俺も手を尽くさないとな。