第九十一話 都会の孤島と、突き付けられた孤独
優香が家まで肉じゃがを持ってきてくれた。そこまでは良かったのだが、彼女、ヤンデレの気があるみたいで、散々振り回されることになってしまった。ずっと自分の言いたいことをまくし立てた後で、ようやく彼女が帰ると言い出した時には、精も根も尽き果てるところだったね。
だが、帰ろうとした優香は玄関で、靴を履こうとした姿勢のままで固まってしまった。どうかしたのかと思っていると、おもむろに振り返って、自分はここで何をしているのかと、涙目で聞いてきたのだ。
「記憶がないのか……?」
優香は、俺の顔をじっと見つめている。頭が混乱して、どう返答すれば良いのかも分からないようだ。
「お前がたびたび記憶を失うことは、拓真から聞いている。変なやつだと思わないから心配しなくていいぞ」
自分の症状について知っていると伝えると、優香の顔がだいぶ和らいだ。過去に、何回か変人扱いされたことがあるようだな。たしかに、何も知らないで、目の当たりにしていれば、悪霊に憑りつかれているのではないかと思って距離を置いてしまう。そいつらの気持ちも、分からないでもなかった。
「ここは……、俺の家なんだが、それは覚えているか」
優香は、首を横に振った。あ、そう……。
「肉じゃがを作り過ぎたから、持ってきてくれたんだよ。覚えているか?」
「肉じゃが……?」
肉じゃがのことを話題にしても、まだきょとんとしている。おいおい……、それすら覚えていないのか? 一体いつから記憶を失っているって言うんだよ!?
「家で料理をしようとしていたことまでは覚えているわ。でも、そこから先のことは……」
ずいぶん前から記憶を失っているんだな。優香の話を整理すると、家で料理を作ろうとしていたら、気が付くと、俺の家の玄関で靴を履こうとしていたのか。それは、混乱するのも無理はないな。
とりあえず、俺が知っている限りのことを優香に話した。彼女が混乱しているのは、自分が何をしているのかを知らないからであって、空白の部分が判明すれば、だいぶ落ちつく筈なのだ。
「もし、まだ落ち着かないというのであれば、俺の家で休んでいくか? とはいっても、今まで寛いでいたところなんだけど……」
さっきまで、あんなに帰ってほしいと思っていたのに、その相手を今度は家にあげようとしている。何とも皮肉なものだな。
だが、優香は、俺の誘いを丁重に断った。彼女からすれば、早く自分の家に戻りたかったのだろう。仕方がないよ。自分の家以上に、落ち着くところなんて、ないんだから。
「送っていこうか?」
「あ、ご心配なく。足取りもしっかりしているし、ちゃんと自分の足で帰ることが出来るから」
いや、俺が心配しているのは、家に帰るまでに、またヤンデレ状態にならないかということだ。その様子だと、拓真の言う通り、コントロール出来ていないみたいだからな。
優香は、何度も俺に謝りながら、帰っていった。ドアが閉まってからも、俺はしばらく呆けたまま、誰もいなくなった玄関を見つめていた。
あれが拓真のいう、優香のヤンデレか……。まだ何かをされた訳ではないが、やばい雰囲気だけはビンビンに伝わって来たよ。特に、目がすごかった……。
何となく、拓真に、「お前の話は本当だった。お姉ちゃん、すごいな!」と言おうかとも思ったが、元からあまり話したくない相手なので、結局止めた。
翌朝、目覚めてからしばらくぼんやりした後、身支度を整えて、学校に行こうと、靴を履いて外に出ようとした。
だが、出来なかった。ドアノブが回らず、外に出ることが出来ないのだ。
ドアが……、開かない?
サムターンは開けてある。それなのに、いくらドアノブに力を入れても、ピクリとも動かない。まるで強力な接着剤で、ガチガチに固められているのかと思ったくらいだ。
回らないドアノブにイライラして、ドアを何回か乱暴に叩いてみたが、それで何かが変わる訳でもなかった。
「一体どうしたんだよ……」
不可解な事態に、ため息をついたが、すぐに窓ガラスの方に向かった。
通行人からは変な目で見られてしまうが、ドアから出られない以上、窓ガラスから出てしまおう。幸い、ここは一階だ。上の階と違って、飛び降りる必要もない。
しかし、それすらも出来なかった。窓ガラスも開かないのだ。鍵はかかっていない筈なのに……。いや、違う。知らない内に鍵がかかっていた。そして、二度と開けられないようにサムターンがペンチか何かで変形させられていた。これはもう修理しないと、回すことは不可能だろう。
「嘘だろ……」
自分の家に閉じ込められたっていうのか? 信じられねえけど……。だが、実際に出ることが出来ない以上、そういうことになる。
最悪、窓ガラスをたたき割れば、外に出られないこともないが、それは最後の手段に取っておきたかった。幸い、部屋にはまだ備蓄がある。実力行使に出るほど、追い詰められてはいない。
冷蔵庫をちら見すると、前に置いた覚えのない段ボールが二つ置かれていた。中には、缶詰めとミネラルウォーターが、ぎっしりと詰まっていた。さすがに気味が悪くなってきた。
背筋が寒くなってきたので、一連の変事のことは頭から除外して、努めて能天気に状況を整理することにした。
「ドアが開かないとなると、また学校に行けないな。今月だけで、俺は何日休んでいるんだ?」
むしろ、出席不足による留年の方が脅威だった。まだ欠席日数は一週間にも満たない筈だが、油断は禁物だ。叔父さんに金の管理をしてもらっている身としては、余計に金を使わせる真似だけは避けたいのだ。
その理論でいうと、ドアや窓ガラスの破壊も、余計な金を使わせることになるのか? いや……、それよりも部屋を追い出されるな。
「はっはっは! ていうか、登校を諦めるのが早過ぎる! やっぱり休み癖がついているな、こりゃ!」
学生としては、あまり良い兆候ではない。だが、おかげで、幾分かは落ち着くことが出来た。
とにかく、何も破壊しないで、部屋から出る方法を探らなくては。このままだと、登校出来ないなどという可愛い話では済まないような気がする。
「……応援を頼むか」
自分の部屋に閉じ込められて出られないなどとは、話したくないのだが、緊急事態のようなので、早めに木下あたりを呼ぶことにした。
だが、それすらも叶わないことを思い知らされた。
どうしてこのことに早く気付かなかったのだろうか。
携帯電話がなくなっていたのだ。
どこかに置いたまま、うっかりとその場所を忘れてしまったとかいう類の問題ではない。
俺は寝る前に、必ず充電器に刺して寝るようにしているのだ。昨夜だって、例外じゃない。携帯電話を充電させたのを確認してから、布団に入っている。だから、今も、昨夜と同じ場所になければいけないのだ。
「俺が寝た後に、誰かが部屋に忍び込んだ……?」
変形させられたサムターンや、見覚えのない段ボールを考えると、そう思わざるを得なかった。そう考えると不気味だが、ざっと見まわした限り、盗まれているものはないし、荒らされた形跡もない。泥棒だって、リスクを覚悟で盗みに入るなら、もっと金がありそうな家に入るだろう。
ピンポーン……。
チャイムがした。ドアが誰かにノックされている。いきなりだったので、全身がビクッとしてしまったが、そこは流そう。
「お届け物で~す! 晴島さん、いらっしゃいますか~?」
声の感じからして、宅配便の業者だ。助かった……! 信じてもらえるかどうか分からないが、事情を説明して、ドアを開けるのを手伝ってもらおう。
そう思い、胸を撫で下ろしながら、ドアへと近付く。だが、それを拒否するかのように、業者さんのくぐもった声が聞こえてきた。
「ん……、何だ、これ?」
ドア一枚向こうから、首をかしげる声が聞こえてきた。業者が何かを見つけて、首を捻っているようだ。
何だ? ドアの向こうに、何かがあるのか? そう思って、近付く足を一旦止めた。これがいけなかった。余裕ぶらずに、すぐに自分の存在を知らせるべきだったのだ。
次に聞こえてきたのは、足音が遠ざかっていく音だった。業者さんが、ここを離れていっていると判断するのに、時間はかからなかった。
「おい! 立ち去るな! 中に人がいるんだ! 戻ってきてくれ!」
血液が逆流しそうになり、力いっぱい連打して、声を張り上げるが、業者さんの声が再びすることはなかった。もうどこかへと立ち去ってしまっているらしい。
「くそ……。帰るの、早いよ……。もう少し、粘れって……」
ドアにもたれながら毒づくが、いない相手に不満を言っても仕方がなかった。