第八十話 「諦めたら、そこで試合終了」と自分に言い聞かせているが、実行するのは意外にきつい
拓真に鉄拳制裁を加えてやるという柚子に同行して、待ち伏せに付き合っていると、やつが姿を現した。
しかし、向こうに焦りの色は全くなく、むしろこっちをあざ笑っているようにすら見えた。「とりあえず始めましょうか」なんて、こっちを挑発までしてくる始末だ。
追われる側とは思えないほど、余裕でいやがる。無理はないから、腹を立てることはないがね。
始めると言われても、向こうは自転車だろ。これ、明らかに負けているじゃないか。待ち伏せまでしたのに、早くも負ける空気が充満していた。
だが、そんな俺をよそに、アキと柚子は、臨戦態勢に入っていた。自転車を前にしても、本気で勝つつもりでいるのだから、この二人は怖い。
「ここで会ったが、百年目! 覚悟!!」
「……意味を分かった上で話しています? まあ、覚悟なんてしていませんけどね」
覚悟はしていないとさ。そりゃそうだ。殴られる覚悟をするくらいだったら、最初から声をかけてこないだろ。そのまま通り過ぎて、難を逃れて、平和に一日を終わらせる筈だ。
拓真が余裕なのも無理はない。こっちが駆け足で追走するのを、自転車で振り切ればいいんだから。走り出しさえ捕まらなければ、後は差を広げるだけの追いかけっこだ。誰でも余裕になるだろう。
「じゃあ、始めましょうか。……とはいっても、もう走り出しているんですけどね」
「ああ~! フライング! きったねえ!」
アキが文句を言っている間も、拓真は走り去る。舌打ちした後、かなり出遅れたが、アキたちも走り出した。
また無駄なことをしているなと思ったが、自転車相手に、意外に良い勝負をしていた。それどころか……、自転車に追いつこうとしている?
「ははは! アキも柚子も、やるな」
完全に勝ったつもりでいた拓真が、目を白黒させている姿が目に浮かぶ。出来れば動画に収めてもらって、毎日でも鑑賞したいところだが、生憎カメラマンは渋い顔をしていた。
「え? 何々? 面白いことって、小学生相手の鬼ごっこ? こんなの動画に撮っても、全然面白くないよ。他のにしない?」
異論はない。大人が子供を本気で追っかけまわしているようで、見様によっては、苛めているように見えなくもない。
「ちなみにな。あいつ、中学生だから」
正直、拓真の名誉など、どうでもいい。ただ、小学生と鬼ごっこするようなやつと思われるのは心外なので、説明させてもらった。
「え? 中学生!? ギャハハハ! そのジョークはなかなかイケてるよ!」
本当のことなのに、ジョーク扱いされてしまった。しかも、かなりウケている。拓真が、まだここにいたら、きっと顔をしかめていただろうね。
「ちなみに爽太君は追わないの? 急がないと、どんどん離されていくよ」
「今からスタートしても、間に合わないだろ」
アキたちの奮闘を見て、意外にいけるんじゃないかとも思うが、既にかなり距離が開いている。これでは、もう追いつくことは出来ない。最初から勝負を投げたのがいけなかったな。こうなると、早めに飛び出したアキたちに期待するしかなかった。
そういえば、拓真のやつ。走り出す前に、こっちをちら見していたが、何かを言いたそうな顔だったな。「やっぱり勘弁してください」だったら笑えるが、一体何を言いたかったのかね。
結局、遊里はそのまま面白くなさそうな顔で立ち去ってしまったが、俺はどうするかね?
そんな俺を少し離れたところから観察している女がいた。気付かれないように、細心の注意を払いながら観察しているのは、俺の許嫁「X」だった。
「逃げる前に、私を一瞥するなんて、余裕ね。もしもの場合は、助けてあげようとしたけど、いらない心配だったかしら」
拓真が去り際に見ていたのは、俺ではなく、彼女の方だったのだ。自分が関わっていることがばれると不味いので、展開次第では、拓真を助けるつもりで、俺たちをずっとつけていたのだ。だが、拓真の様子から、その心配がないことを確信したのだった。
「さて、心配がないとなると、することもなくなったし、爽太君を視姦することにしましょうか」
内心で呟く「X」に、何も知らないにも関わらず、思わず全身が総毛だってしまったのは言うまでもない。
俺が思っていた以上に、アキたちは善戦していた。拓真が、坂道を疾走しようとも、話されることなく、しっかりと食いついていた。
「……自転車で逃げれば余裕だと思ったんですけどね」
ついには、真っ先に飛び出したアキが、自転車で疾走する拓真と並走するまでになっていた。これには、拓真も、誤算を認めざるを得ない。
「ショックですね。一応、全速力なんですよ」
「ふふん! 悔やむことはないよ。相手が悪かっただけだから!」
アキが手を伸ばして、拓真を掴もうとする。それは、事実上の敗北を意味するので、アキと反対方向に自転車を反らせようとするが、アキが距離を詰める方が早い。
「不味い……」
追い詰められた拓真の顔から、ついに余裕が消えた。対照的に、アキは、勝利を確信して、ニヤついた。と、そこでいきなりつまずいてしまった。何でもないところで、つまずくというドジッ子ぶり。何も、この場面で発揮しなくても……。
しかも、間の悪いことに、その先は壁になっていた。
「ごっ!?」
バランスを崩していたアキは避けることが出来ず、かなりの勢いで、壁に正面衝突してしまった。
「壁と激突する人、初めて見ましたよ……」
あまりにも気持ちの良い音を立てて激突したので、拓真も心配そうに振り返る。ただし、自転車を止めることはない。
「う、ううう……。もう少しで捕まえられたのに……」
よろめきながらも立ち上がったアキは、奇跡的にどこも怪我していなかった。というより、激突した部分の壁の方が、派手に崩れていた。石造りの壁より頑丈とは、毎日、俺と姉の厳しいツッコミで鍛え上げられているだけのことはある。
「拓真め。女性が倒れているのに、放って逃げるとは……」
仕方がなかったとはいえ、走り去った拓真に悪態をつく。当の拓真の姿は、かなり小さくなってしまっていた。
「ずいぶん離されちゃいましたね……」
相手が自転車にも関わらず、果敢に飛び出した柚子も、追いつく気力を失いかけていた。
「こうなったら、その辺の自転車でもパくる?」
鞄からトンカチを取り出して、冗談半分に言う。鍵を破壊してでも、パクるつもりか? 笑えないのは、その目がマジだということだ。
「仕方ありませんね」
仕方ないと言いつつも、満更でない表情の柚子。この二人、根底では似た者同士なのかもしれない。
「ドラマなんかでよく見る、人を追う際に、他人の自転車をやむなく奪って、追撃を続けるシーンみたいでワクワクするかも」
「先輩もですか?」
今、気付いたことだが、二人の暴走機関車を諌める人間がいない。おそらく、必要とあらば、本当に自転車を盗みかねない怖さがある。というか、本当に実行に移そうとしている。しかも、視線の先には、手頃な感じの自転車が一台停まっていた。
「……」
二人共無言だが、目がやばい。まさか、本当にやる気じゃないだろうな。
一方で、アキたちの追及を躱した拓真だったが、だからといって、ホッと安堵することは出来なかった。
「……奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
とりあえず挨拶をした拓真の額からは、冷や汗が流れていた。逃げている内に、偶然迷い込んでしまった、いつも自分が通らない道。そこで、知り合いに会った上に、待ち伏せしていたような感さえある。動揺するのも無理はない。
「まさか……、先回りしていた訳じゃないですよね、アリスさん……」
拓真が遭遇していたのは、俺の愛しい彼女、アリスだった。だが、今の彼女の顔には、チャームポイントともいえる笑顔はなかった。
今日も19時台の更新になってしまった……。
これは……、夏バテ!?
あと、登場人物紹介をリニューアルしました。
どの辺りが変わっているかは、見てのお楽しみ!