第七十七話 糞ガキ、再び
驚いたことに、昨夜、俺の家の前で寝ていた女子は、アリスに言い寄ってきた糞ガキの元カノだった。
人の縁は奇妙なものと聞くが、まさか自分の家で起こるとは思っていなかった。個人的には、こういうハプニングは、人生を楽しくする上で重要だとも思っている。
しかも、その子から、詳しく話を聞くと、自分がけじめをつけるとまで宣言してくれた。さすがに、それは申し訳ないと思って断ろうとしていると、アキが勝手にお願いしてしまい、話がまとまってしまったのだった。
「そうと決まれば、腹ごしらえだな。酒があれば、尚良し……」
「繰り返し言うが、酒はない!」
さっきから、酒はないと連呼しているのに、ことあるごとに無心してくる。どこかに隠し持っていて、お願いを続ければ、出してもらえるとでも思っているのか? 甘いよ。
酒が飲めないことは、残念がっていたものの、代わりにかなりの様の肉を平らげて、柚子は帰っていった。食べる勢いが遅いので、少食かと思っていたが、あれで、かなりの大食漢だった。スローフードというやつなのだろうか。
「お義兄さん、やりましたな!」
柚子がドアから出ていくと、アキが俺の背中をバンバン叩いてきた。やけに上機嫌なのは、自分の考えた作戦が、思わぬことから実現したからだろう。一方で、俺とアリスの内心は、結構複雑だったりする。
向こうから言い出したこととはいえ、自分たちの問題を肩代わりしてもらっているようで、気が引けたのだ。
「柚子。あの調子だと、本当に殴り込みをかけかねないな」
「自分をひどくフッた元カレが、まだ悪さをしていると聞いて、我慢ならなくなったんでしょ。止めはしないけど、警察に通報されないレベルで抑えてほしいわね」
アリスも、今回の件では被害者だからな。いつにも増して、言動が荒くなっているのも、無理はない。
「ちなみに……。アリスはあいつがぶっ飛ばされて欲しいと思っているのか?」
「そんな訳ないでしょ」
口では否定していても、顔がニヤけているぞ、アリス。あの糞ガキの余裕に満ちた顔が、涙でぐしゃぐしゃになるのが楽しみで仕方ありませんっていうのが、禍々しいオーラとなって伝わってきている。これは血を見ないと、収まりそうにないな。
翌日、軽くなった財布の中身を見ながら、俺はため息をつきながら、とぼとぼと歩いていた。
虹塚先輩に、一昨日の夜、俺と別れた後は大丈夫だったか聞きに行ったら、高価な酒を買わされてしまったのだ。先輩が言うには、やはり相当きつく絞られたみたいで、まだ落ち込んでいるとのこと。だが、この酒を買ってくれたら、元気が出るかもしれないと付け加えられたのだ。その時点で、嵌められたと思ったが、時既に遅しで、もう買うしかない状況に追い込まれてしまった。
「アカリは気にしなくていいって、落ち込みながらも言ってくれたのに。虹塚先輩の商売上手め……」
恨み言を言っても、払った金は戻ってこない。ていうか、どうして学校にまで、酒を持参しているのだろうか。まさか、俺の代わりにも、校内に顧客がいるというのだろうか。
「はあ……、こんなことなら、昨日、アリスに食材の代金を払うなんて言うんじゃなかった……」
人間、鈍すると、とことん卑屈になるものだ。もちろん、今更後悔したところで、もう遅い。
軽くなってしまった財布をポケットに、学生が持っているのがばれると不味い酒は鞄に入れると、昨日のことを思い出した。
糞ガキをぶっ飛ばすと言って、柚子は帰っていったが、あれから何の音沙汰もないな。まあ、一日しか経っていないから、まだ実行に移していないだけかもしれないけど。
そういえば、柚子に、俺の連絡先を伝えていなかったな。
これだと、仮に柚子が、糞ガキを叩きのめしたところで、その報告を受けることが出来ない。
「約束通りぶっ飛ばしました!」と、顔面の腫れあがった糞ガキを連れて来られても、対処に困る。
一番現実的なのは、柚子が、俺の家の前に待ち構えていて、帰宅した俺に向かって、ガッツポーズをする展開か。……我ながら、アホなことを考えている。
それより、虹塚先輩に買わされた酒を、どう処理するかだよな。……ためしに飲んでみるか? 飲んだことはないが、柚子があそこまで飲みたがるんだから、もしかしたら、美味いのかもしれない。
自分の中で、悪魔が囁きだしているのを自覚しながら歩いていると、あまり会いたくない人物と遭遇してしまった。出来れば、知らんぷりをして通り過ぎたかったのだが、生憎向こうも、俺に気付いてしまっている。
「やあ、どうも」
「……」
俺の顔を見るなり、何がそんなに楽しいのか、問いただしてやりたくなるくらいの笑顔で、挨拶してきた。無駄に人をイラつかせる笑顔だ。
まだ柚子から襲撃を受けていないのか、それとも上手く躱したのか、顔は腫れあがっていなかった。
「てめえ……!」
俺の顔を見て、爽やかにほほ笑んできやがった。こっちが、自分の悪事を全て知っているのを承知の上で笑っている。その傲岸不遜ぶりを目の当たりにすると、柚子に再起不能なまでに、顔を殴ってほしいと、つい願ってしまう。
「この間、会った時は、他人の振りをしていましたからね。名乗らずに去りましたけど、その顔を見る限り、アリスさんから、事の顛末は既に聞いているんでしょ?」
「小学生が道端で泣いていたから、声をかけたら、「柚子ちゃん、僕を捨てないで~」と、いきなり泣きつかれた。その過程で、うっかりキスされたって聞いている」
「……どこで柚子のことを」
それまで俺を見下したように笑っていた糞ガキの顔が引き攣った。おいおい、そんなに露骨に表情に出すなよ。気分を悪くしているのが、丸分かりだぞ。責めるのは得意だが、責められるのは苦手と見たね。
「反撃のつもりですか……」
「当たり前だ。本当は殴ってやりたいが、そうすると、角が立つからなあ。あっ、でも、あまりいじめ過ぎて泣かれても困るよな。お前は、見た目が小学生だから、俺が悪いことになってしまう」
さりげなく、向こうが気にしている単語も交えて、挑発を続ける。糞ガキの表情が、さらに引き攣る。
「……雪城拓真」
「うん?」
「僕の名前は雪城拓真です。お前ではありません」
「ああ、こりゃ失礼した。じゃあ、次からはちゃんと名前で呼ばせてもらうよ、拓真君!」
正直、俺はお前の名前なんて、どうでもいいけどな。
「まさか柚子とコンタクトを取るとはね。爽太さんの女性を引き付ける力には、素直に尊敬しますよ」
「そんな意味不明な力は要らないけどな」
「でも、今回は美味く機能しているみたいじゃないですか」
負け惜しみのつもりなのか、どこか皮肉めいた口調で返してくる。
「……ちなみに、柚子の場合は、何をしたんだ? あまり穏やかじゃない別れ方をしたみたいだが」
「第三者に話すことじゃないです。そんなに気になるのなら、本人に直接聞いてみたらいい」
こっちの質問には答える気がないらしい。当然といえば、当然か。だが、質問と関係のないことは、どんどん話してくれるつもりのようだ。
「彼女とは、いろいろ楽しい日々を過ごしました。でも、それも、アリスさんと交わした、たった一回の口づけで霞んでしまいましたけどね」
「へえ……」
どう出るかと思って聞いていれば、そうきたか。話題を、少々強引に変更して、攻撃に打って出てきたか。
「彼女にフラれて、道端で泣いていたら、アリスさんが優しく声をかけてきてくれたので、つい甘えてしまったんです。……柔らかかったな、彼女の唇」
こいつ……。次から次へと、嘘ばかり並べやがって! こっちも人のことは言えないが、それでも、ムカつくものはムカつく。駄目だ。挑発だと見抜いていても、キスの件を出されると、精神が乱れてしまう。
俺の動揺を察した拓真が、不敵な笑みを漏らす。してやったりという顔が、これまたムカつきを倍増させる。
せっかくこっちのペースだったのに、これじゃまた拓真のペースになってしまう。
どうにかして、流れを引き戻さないといけないと思っていると、背後から大きな声が飛んできた。
「見つけた!」
その声が響いた途端、拓真の顔に、恐怖が浮かんだ。この声……、柚子か。
「あの程度で、私から逃げられたと思っていたの? 一発殴るまで、絶対に許さないからな!」
言うが早いか、こっちに向かって、駆けてきた。成る程、お取込み中だったのか。
「何だ。別れたって聞いていたのに、まだまだ熱々じゃないか。俺とアリスも見習いたいくらいだぜ」
「……あまりお勧めはしませんよ」
面倒くさそうにため息をつきながら、拓真は俺の皮肉に対して、迷惑そうに返事をした。