第七十六話 謎の女子の意外な素性と、復讐作戦の再開
アリスとアキを伴って、自宅に帰ってきたら、昨日うっかり連れ込んでしまった謎の女子がまだ滞在していて焦った。
鍵をかけないで俺が出ていったのを、不用心だと思って、気を利かせてくれていたらしいが、当の俺は心臓が止まりそうなほど狼狽した。こちらは彼女連れで帰ってきているのだ。どう見ても浮気ととられない状況なのだから、無理はない。
しかし、昨夜の内に、アリスと謎の女子に面識があったおかげで、危うく難を逃れることに成功した。
アリスは、俺の胸ぐらを掴んで糾弾するどころか、謎の女子まで夕餉に誘ったのだった。かなり懐の深いことだ。
「タダ飯を食わせてもらえるなんて、悪いな。私みたいなやつ、とっとと帰ってもらいたいだろうに」
「ははは……、そんなこと……」
笑って誤魔化したが、実はその通りだったりする。出来れば、いつものメンバーで、穏便に夕食を楽しみたかったのだ。
「え~と……」
名前を呼ぼうとしたところで、まだ聞いていなかったのを思い出した。さて、どう呼んだものか。謎の女子と呼ぶ訳にもいかないしな。俺が言いよどんでいるのを見て察したらしい。謎の女子は、自分の名前を明かしてくれた。
「あ、私の名前ね。そういえば、まだ名乗っていなかったっけな。朝霧柚子っていいます。よろしく……というほど長い関係になるかは分からないので、興味がなければ、忘れて良し」
興味がなければ、忘れて良しか。前にもこんな自己紹介をされたことがあったっけ。誰に言われたのかは覚えていないが。
「柚子ねえ。俺は……」
「私は雨宮アキっていうの。よろしくね!」
俺が名乗ろうとしたら、アキに先を越された……。というか、強引に割って入られた。
自己紹介を中途半端に強制中断させられて、呆然としていると、俺の気持ちを察した柚子が、ぶっきらぼうに慰めてくれた。
「ああ、あんたのことは、もう知っている。昨夜、アリスさんが泣きながら……」
「みんな、早く上がるわよ!」
柚子の言葉を遮って、アリスが大声を上げた。前を向いているため、表情は窺えないが、顔を赤らめているとみたね。俺の名前を泣きながら連呼していたとかかな。それを聞いちゃうと、アリスのことを避けて、アカリたちとカラオケに興じていたことが申し訳なくなってくるな。
「ああ、酒が欲しかったな」
まだ呟いているよ。どれだけ酒が欲しいんだ。見たところ、俺と同年代のようだけど、成人を迎える前に、アルコール依存症にかかっちゃいないだろうな。
一応、知り合いに、そういうことに飛びきり緩い先輩が、一人いる。頼めば、売ってくれそうだが、黙っておこう。
何回か、俺の家に来ているだけあって、アリスは勝手知ったるといった、無駄のない動きで、料理を完成させていった。その過程で、昨日、俺が冷蔵庫の横に置きっぱなしにしていた食材も、冷蔵庫に入れてくれた。至れり尽くせりだ。
アリスは、その後も動きを鈍らせることなく、料理を完成させて、テーブルへと運んでくれた。惚れ惚れするようなスマートさだ。
「はい、どうぞ」
「どうも」
アリスから料理を受け取ると、早速舌鼓を打った。うん、美味い。しかし、それ以上に、熱い。アリスが作ってくれたのは、豚キムチ鍋だった。栄養をたっぷり摂って、汗をたくさん流して、健康になろうというコンセプトらしい。
アリスの愛情が伝わってきて、たいへんありがたいが、汗が止まらない。滝のように流れてくる汗と格闘しながら、チラリと柚子を見た。
さっき麦茶を取り出す時に、冷蔵庫の中身を見たが、何かがなくなっているということはなかった。俺は、めったに料理を作らないため、冷蔵庫の中は、常時空に近い状態で、一目で確認することが可能なのだ。
この部屋に入れた時に、食べ物の類は持っていなかったみたいだし、ということは、今日一日何も食べない状態で、この部屋で待機していたのか?
その割には、食が進んでいないな。俺だったら、空腹のあまり、咳込んでしまうのも構わずに、食べ物を口にかきこむというのに。
ひょっとして、アリスの料理が口に合っていないとか……。頭を捻りつつも、熱々のキムチを口に入れる。うん、美味い。この料理が、口に合わないやつ等がいる訳ない。
「酒があったら、食が進みそうだなあ」
こんなことがあるくらいなので、ただ単に酒が飲みたいだけのようだ。アキは、流れる汗をものともせずに、豚肉を頬張っていた。
「あ、そうだ。この鍋の食材を買うのにかかった代金。忘れない内に支払うよ」
「え~? 払わなくていいって言っているのに」
「それじゃ申し訳ないよ。俺のために作ってくれたんだから、是非払わせてくれ」
バカップルっぽい会話をしながら、アリスの代金を意地でも受け取ってもらおうと、ポケットをまさぐった。財布はすぐに見つかったのだが、抜き取る際に、うっかり一緒に入れていた物まで外に出てしまった。
「うん? 何ですか、これ?」
「あ……!」
俺のポケットから、床へと零れ落ちたのは、アリスが他の男から強引に抱きしめられている写真だったのだ。
アリスとアキは、一瞬で俺が何をやらかしてしまったのかを察し、和やかだった場が、一気に静まり返った。それを不審に思ったんだろう。柚子は、首をかしげながらも、場が凍りついた原因の写真を見ようと、身を乗り出していた。
俺は、慌てて写真を引っ込めたのだが、もう柚子に見られてしまった後だった。
不味いものを見られてしまった。この写真から連想するのは、アリスの浮気だ。柚子は気を遣って何も追及して来ないだろうが、空気は重くなってしまう。だからといって、さすがに知り合ったばかりの人間に、自分たちの恥部を、洗いざらい説明するのは気が滅入る。
「見られちゃいましたね。関係のない第三者に。お義兄さんのドジのせいで」
「……」
料理を頬張りながら、アキに皮肉を言われてしまった。俺のミスであることは間違いないので、黙って縮こまるしかない。
そんな俺たちをよそに、柚子は、難しそうな顔をして考え込んでいた。
「ねえ、こいつ何かしたの? 写真から見た限りでは、無理やり誘っているように見えるけど」
これを見て、そういう風にとらえるとはさすがだな。彼氏の俺でさえ、アリスが浮気しているんじゃないかと邪推した程なのに。
「知り合いなの?」
「知り合いっていうか……」
柚子は言うべきかどうか、一瞬迷ったようだったが、元々言いたいことを包み隠さない性格らしい。すぐに口を開いた。
「元カレ」
「……」
「へえ~」と聞き流しそうになったところで、思わず固まる。今、柚子が『元カレ』という単語を発した。
「もう関係は清算しているけどね。向こうから一方的にフラれて、ジエンド」
相当嫌なフラれ方をしたのか、柚子の顔がにわかに険しくなってきた。勝手な想像だが、柚子はこっちが何を言っても適当に流して、決して怒らないというイメージがあったので、この反応は意外だ。
む? あの糞ガキと同年代ということは、こいつ、中学生か!? それで酒に走ってやがったのか?
「お前って……、ちなみにいくつなんだ?」
「ほえ? そりゃあ、未成年だよ」
上手く躱したつもりか。俺が聞いたのは年齢の方だ。未成年だということは、さっきアリスが話していたから知っているよ。生まれてから、今日まで、何年経っているかを聞いているんだ。ていうか、未成年って断言しちゃったら、はぐらかした意味がないじゃん!
どんな経緯で飲み始めたのかは聞かない。どうせ親が飲んでいるのを、水と間違えて飲んでしまったのがきっかけだろう。深刻な理由が潜んでいたところで、カミングアウトされても、俺が困るし。
「……お義兄さん」
アキが、他の二人に聞こえないように、小声で囁きつつ、肘でついてくる。何かを訴えかけるような目もしている。時折、握った拳で誰かを殴るジェスチャーまでしている。
まさか……。昼間にファーストフード店で話していた策を実行に移せというのか?
「む? どうした、落ち着きがなくなっているぞ」
俺とアキが小声で言い争うのが、さすがに不審に映ったのだろう。柚子が聞いてきたが、あんなことを話せる訳がない。
「ああ、そうか。嫌な写真を見られたから、虫の居所が悪くなっているんだな。興味をそそられたとはいえ、勝手に見てしまった私のミスだ。済まなかった」
違う。勝手に写真を床に落としてしまった俺のミスだ。済まないのは、むしろ俺の方だ。
互いに頭を下げ合うことになり、アリスとアキからは、変な目で見られてしまった。
「まあ、あいつは私がぶっ飛ばしておくから、心配するな」
「いや……、心配している訳では……」
「よろしくお願いします!!」
俺が言いあぐねていると、アキが威勢の良い声で立ち上がり、柚子に対して、深々と頭を下げた。
柚子があの糞ガキと知り合いだったことに驚いたが、それ以上に、アキが考案した途方もない作戦が、とんとん拍子で上手くいってしまったことに驚いた。ていうか、頼むまでもなく、向こうから行うと言われてしまった。アキが隣で親指を立てて、ウィンクしてきたが、無視してやった。
「ところで酒は……」
「いや、ないから。鎌をかけても無駄」
「ちえ!」
どさくさまぎれに酒を無心しても、ないものは出せないから。まあ、あったところで、未成年には出さないけどな。
お前はどれだけ酒に執心しているんだよ。だとしたら、自分の口で、はっきりと未成年と言ってしまったのは失敗だったな。