第七十話 真夜中の闖入者と、それへの対処
ふとしたことから、アリスとぎくしゃくすることになってしまった。普段だったら、すぐに返事をするアリスからのメールにも、申し訳ないと思いながらも、無視を決め込んでしまった。
アリスからのメールでは、話がしたいから、家で待っていると書かれていた。今、家に帰れば、アリスと会うことになる。そう思うと、足がすくんで、結局、帰宅することなく、外で時間を潰すことに終始するのだった。
その日の夜、自己嫌悪に陥りながら、帰宅してみたら、部屋のドアの前ですやすやと寝ているやつがいるではないか。
もしかして、アリスかとも思ったのだが、残念ながら、全くの別人だった。
そいつに近付いていくと、横に空の酒瓶が転がっている。成る程……、ここで一人飲み会を催していた訳か。本当に迷惑なことをしてくれるな。
「お~い! 起きているか~?」
呼びかけてみるも、反応はなし。次は肩をゆすってみるが、やはり同じ。
「人の家の前だっていうのに、気持ちよさそうに寝ちゃってくれて……」
ここ数日、ずっと悩みっぱなしの俺からすると、羨ましい以上に、腹立たしさを感じてしまうくらいに、気持ち良さそうに寝息を立ててやがる。
こうなったら仕方がない。乱雑に引っ張って、ドアの前から、強制的に移動させてやる。もし、目を覚まして怒鳴ってきても、相手は酔っ払いだ。頭をガツンと叩いて、もう一度意識を飛ばせば、明日の朝には、全て忘れているさ。
……そんな感じで、手荒な真似が出来たら、どれほど良かったかね。
寝ているのは、俺と同年代の女子だったのだ。ていうか、俺と年齢が近いってことは、未成年かもしれないってことだろ。木下といい、最近の若いやつは、どうしてこう、酒に溺れるのかね。……本音を言えば、俺も溺れたいんだけどね。飲み過ぎると、時々記憶がなくなるっていうし。
扱いには注意しないと。目が覚めた時に騒がれでもしたら、俺が悪いことにされてしまうからな。
「やれやれ。相手が木下やアキだったら、今頃力づくで起こしているところなんだけどな」
文句を言ってみたが、それで事態が好転する訳でもない。諦めて、もう一度肩をゆすってみた。結果は同じ。うんともすんとも言わない。
「え? これ、家に入れない展開か?」
半分冗談で言ってみたが、このまま起きてくれないと、現実にそうなってしまう。そうなったら、どうしよう。部屋を出る時に、そんなに金を持っていなかったせいで、夕食の買い出しとカラオケで、ほぼスッカラカンだ。漫画喫茶に行くことも出来ず、今晩は野宿する羽目になってしまう。家の前で、鍵もあるというのにだ……。
アリスの来訪を突っぱねて、その間にアカリたちと遊んでいたことへの罰かな? そんな気がしないでもないが、俺の心境を思いやって、少しは大目に見てほしいな。心と財布は寒いことになってしまっているが、せめて布団にくるまって、身くらいは温めたいのだ。
さて、どうやって起こすかな? こういう場合でも、警察に通報しても良いんだっけ? 通報というと、物騒に聞こえるが、相談くらいなら良いんじゃないかな。
携帯電話を取り出して悩んでいたら、向こうの方から若者たちの嬌声が聞こえてきた。きっと酒をしたたかに飲んで酔っ払っているのだろう。
あいつらがこの子を見つけたら、家の前で騒ぐ危険がある。それは嫌だ。
せめて連中が、ここに来るまでには、家の中に入ってしまいたい。
そう思って焦ったのが、運のつきだった。若者たちが通り過ぎてから、女子を起こす作業を再開すれば良かったのに。
「おい、起きろ! 早く起きろってば!」
さっきより女子の肩を乱暴に揺する。よく考えたら、こいつが勝手にここで寝ているのが悪いのだ。俺が遠慮する必要など全くないではないか。
「む……」
俺の強引な処置が功を奏したのか、女子が薄目を開けた。おっ、ようやく起きるのか?
もう一息かと思っていたら、俺の腕をがしっと掴んできやがった。そして、そのまま女子は、また眠ってしまったのだった。その後は、いくら揺すろうが、引っ張ろうが、反応なし。
何ということだ。これじゃ、状況が悪化しただけじゃないか。
そんなことをしている間に、若者たちの声が、さらに近付いてくる。もうほとんど距離はない。今にも、この場所に、声の主たちがなだれ込んできそうだ。もちろん、そんなことになれば、俺はかなり不利な状況に追い込まれてしまう。
「くそ……!」
このままでは、俺は……。追い込まれた俺は、眠ったままの女子を抱きかかえて、急いで鍵を開けると、部屋へとなだれ込むように入った。
俺が部屋に入ると同時に、若者たちが、俺の部屋の前を通過していく声が聞こえてきた。危ないところだった……。
……って、まだ終わっていないだろ。何を安堵の息を漏らしているんだ。俺は自らの腕の中で、すやすやと気持ちよさそうにしている女子に目をやった。
俺の家に引きずり込んだ途端に、それまで硬く掴んでいた手を、あっさりと離しやがって。もっと早く離せっていうんだよ。
どうせ眠っているんだから、一発くらい強めに引っぱたいても分からないんじゃないのか? 沸々と沸いてくる怒りを懸命に抑えて、事態の解決を優先させる。
こいつを外に出さないと……。
ちょうどいい機会だから、ドアの前じゃなく、適当なところまで運んでやろう。それで、こいつとの縁はぷっつりと切れて終了だ。
「くそ……。上手くドアノブが回らない」
冷静に考えれば、女子を一回床に置いてから、ドアを開けて、また抱きかかえればいいだけのこと。だが、一刻も早く危ない事態を回避したい俺は、焦って女子を抱きかかえたまま、無理にドアを開けようとしていた。
そのせいで、落としてしまったのだ。何を落としたって? もちろん、女子をだ。
「やっちまった……」
かなり無理のある体勢で落としてしまった。ていうか、顔から落ちなかったか? 自分の失態に、しばし固まっていたが、起きる気配がない。どれだけ起きないんだよ。一瞬足りとはいえ、さっき起きたのは奇跡のように思える。
「もしも~し」
念のために呼びかけてみるが、返事はなし。やはり寝ている。簡単に怪我の具合を確認したが、血は出ていないし、明らかな外傷は負っていないようだ。
「はあ……、良かった……」
脱力して、その場にへたり込んだ。万が一怪我でもしていたら、言い訳が出来ない。俺がどんなに無実を訴えても、誰も信じてくれないだろう。俺が、嫌がる女子を部屋に引っ張り込んで乱暴したと受け取られるのがオチだ。
「駄目だ……。ドアの前に、女子が寝ている程度で、騒ぎ過ぎだ」
俺が悪いことをしている訳じゃないので、焦る必要はないのだ。それなのに、勝手に動揺して、事態を悪化させてしまっている。駄目な流れだ。
「水でも飲んで落ち着くか……」
ひとまず女子を放っておいて、洗い場まで移動して、コップに水道水を並々と注いで、一気に飲み干す。はあ……、生き返る。
水を一杯飲んだだけで、だいぶ正常な思考が戻ってきたような気がする。これで、さっきの女子の件も、冷静に対処出来そうだ。
「あれ?」
しかし、玄関に戻ると、さっきの女子の姿がなかった。首をかしげながら、近付いてみると、ドアが開いていた。出ていったのか……。
誘拐と勘違いされて、警察に通報されたらどうしようかと、しばらく怯えていたが、いつまで経ってもサイレンが聞こえてこないので、ひとまず安心することにした。
きっと目を覚ました女子が、寝ぼけ眼で部屋を見回したら、見知らぬ場所にいることを知ったが、酔った自分が迷い込んだと思って、赤面しながら出ていったんだろう。朝になって、酔いが醒めれば、全部忘れているに違いない。そんな自分にとって、何とも都合の良いことを考えながら、もう寝ることにした。
布団に入ると、すぐ隣から寝息が聞こえてきた気がしたが、この部屋はすごく家賃が安いので、きっと幽霊でも出たんだろうと片づけた。他に考えることが、いくらでもあるだろうに、後になって思い返すと、この時の俺は、本当にどうにかしていた。
明日も依然たいへんなことになるというのに、この時だけは安心を貪るように、俺は深い眠りへと落ちていくのだった。