第六十話 電話の向こうには、誰がいるんですか?
私の名前は雨宮アリス。昨日、彼氏以外の男子とキスをしました。……ちょっと違うかな? 私の場合、向こうの方からキスをしてきたから、浮気には入らないと思うんだけど、もし爽太君が知ったら、絶対に怒るよね。私が悪いとかそういうことじゃないもの。ああ、心がざわざわするわ。こういうのを混乱しているっていうのかしら。
一日経てば、少しは落ち着くかと思ったけど、もやもやした気分で、虫の居所がよくない。少しでも憂さを晴らそうと、授業の合間に廊下を散歩していたら、床に仰向けになって寝そべっている爽太君に、アカリちゃんが覆いかぶさっているところに出くわしてしまった。しかも、故意か偶然か、彼女の胸が、爽太君の顔を包み込んでいるじゃないですか。
私の視線に気付くと、すぐに爽太君は平身低頭の態度で謝ってきた。察するところ、故意ではないみたいね。だからといって、何も感じないという訳にはいかないけど。
その場は笑って取り繕ったものの、最悪な気分だな。爽太君、私には興味ないって言っているけど、大きな胸が大好きだからな。絶対に興奮しているよ。アレを機に、アカリちゃんと変な関係にならなきゃいいんだけど……。
自分がキスしておいて、爽太君の浮気を心配するなんて、私って最悪だな。もう嫌になっちゃうよ。
重い気持ちで懲りもせずに、校内を歩いていると、本来ならここにいない筈の人間から、声をかけられた。その相手とは、昨日私にキスをしてきた、拓真君だったのだ。彼と認識した時、驚く以上に、教室で大人しくしていなかった自分を罵倒したくなったわ。
「た、拓真君!?」
どうして中学生の拓真君がここにいるの!? もしかして飛び級? いやいや、そんな訳ないでしょ。ていうか、私に話しかけないでよ。変な噂が立っちゃうじゃない!
「アリスさんに会いたくて、ここまで来ちゃいました。てへっ♪」
「てへっ♪」じゃないわよ。そんな軽い気持ちで、私の立場を危うくしないで。
「私に会いたくてって……。だからって、本当に来られても困るわ。帰ってよ!」
「そんなことを言わないでください……。僕、抑えきれないんです」
真剣な顔で私に近付いてくる拓真君。ど、どうしよう。年下とはいえ、相手は男よ。力で来られたら、対抗出来ないわ。
一歩一歩にじり寄ってくる拓真君。堂々と構えようとするも、徐々に後ろへと下がっていく私。でも、拓真君が距離を詰めてくる方が速い。あと少しで、互いの距離がゼロになるというところで、拓真君は歩み寄るのを止めて、笑い出した。
「あははっ! 冗談ですよ、冗談。本気で怯えないでください」
「えっ、冗談?」
冗談と言われたものの、まだ緊張の取れない私は、強張った顔のままで聞き返した。
「本当は知り合いの恐い先輩に、忘れ物を届けさせられたんですよ」
そう言って、何かが入っている袋を見せられた。
「ひどいですよね。自分のミスなのに、高校まで持ってこさせるんだから。中学生にとって、高校がどれだけ怖いところなのか分かってないんですかね」
唇を尖らせながら不満を言う拓真君は、歳相応の中学生で、さっきまでの不敵な笑みは跡形もなく消えていた。
「あれ? まだ硬い表情をしていますね。本気にしちゃいました?」
「なっ……!」
本気になんかしていないと、大見栄を張ってやりたかったけど、さっき慌てふためいた表情を見られてしまったのだ。今更強がったところで、もう遅い。痛いところを突かれた私は、赤面しながら、横を向くしかなかった。
「でも、アリスさんと会えて嬉しかったのは本当ですよ」
「そう言って、媚を売っても無駄よ。もう知らないんだから!」
年下にまたおちょくられてしまったことで、私は不機嫌になり、返事も存外なものになっていた。
「あははっ! そんなムキになって怒るアリスさんも可愛いですよ」
「年上をからかうんじゃありません!」
年上を可愛いなんて! そう言いつつも、また赤面している自分が情けない!
駄目だ。お姉さんキャラを保てていない。完全に遊ばれてしまっている。声をかけられた時は、私が上だった筈なのに、キスの瞬間から、上下関係が入れ替わったようだわ。
「さて……。アリスさんともっとお話ししていたいですけど、恐い先輩をあまり待たせるのも怖い。さっさと用件を済ませてしまいますか」
拓真君は携帯電話を取り出すと、いじりだした。先輩とやらと、連絡を取る気らしい。私を挑発するだけして、落ち着き払っているところがまた気に食わないわ!
階段でのハプニングがあったにも関わらず、俺たちはどうにかプリントを目的地まで運ぶことに成功した。
「ありがとう……。おかげで、どうにか運びきることが出来ました……」
俺と、途中から手伝いだした木下に、アカリは頭を下げているが、疲労のせいか足元が覚束ない。見ていられないので、その場で休ませることにした。
「何かお礼をしなくちゃいけないかな……?」
胸元が心なしかはだけている状態で言われると、何かエロく感じるな。お礼なんて良いよと断ろうとすると、木下が先に突っぱねてくれた。
「こいつにお礼なんかいらねえよ。さっき十分すぎるほどの天国を見せたじゃねえか!」
「……まだ根に持っているのかよ」
階段でのラッキースケベの件。アリスはぎこちないながらも、笑顔で許してくれたのに、こいつはいつまで経っても腹に据えかねているようなのだ。
「むしろ、お釣りを請求してもいいくらいだ。という訳で、爽太は放っておいて、俺と……」
「結局、てめえも同じ天国に行きたいだけかい!」
最後は不謹慎なエロトークに流れ着いてしまったので、お詫びも込めて、木下の後頭部に強烈な蹴りを見舞ってやった。
「せめてジュースくらい奢らせてください。夏の間にバイトをしたので、お金には余裕があるんです」
バイトというと、海の家のことか。正直言うと、あの場所には、あまり良い思い出がないんだよな。この暑い中、冷たいジュースで体を冷やす前に、気分がブルーになってしまう。
「あ……」
財布から小銭を出しているアカリの携帯電話が鳴った。わざわざ注目することでもないが、誰かから電話がかかってきたのだ。俺たちに少しの間待ってほしいと言うと、アカリは電話で話し出した。
すると、さっきまであんなにつらそうだったのが嘘のように、態度が一変した。
「遅い! 忘れ物を持ってくるのに、どれだけかかっているのよ。本当に遅いんだから!」
俺たちと話す時の丁寧な口調はなりを潜めて、乱暴な言葉使いだ。以前、ナンパ男を相手にこの言葉使いになったのを見たことがあるが、あれは気のせいじゃなかったんだな。
「つべこべ言わずに、とっとと持ってきて!」
久々に見たな。アカリが凶暴になっているところ。たぶん何度見ても、慣れることはないだろう。
「あれがなければ、理想の嫁なんだけどな……」
「ああ」
木下も、アカリの唯一と断言してもいい欠点に、残念そうにため息をついている。
「だ~か~ら~、ここまで持ってきてよ。大丈夫よ、ちょっとくらいなら、部外者が入り込んだってばれないから」
「ん?」
向こうで、遊里も電話をしながら歩いている。機嫌が悪いのか、アカリと同じように電話に向かって、怒りを吐露している。
「みんな、機嫌が悪いのかな」
「……暑いから、イライラしているんだろ」
木下はこともなげに言っている。結局、遊里はそのままどこかに歩き去り、アカリも用事が出来たと、小銭だけ俺たちに渡して、これまたどこかに行ってしまうのだった。
しばらく怖い先輩とやらと電話した後、疲れた顔で、拓真君は私に笑いかけた。
「ふう……。電話越しに散々怒鳴られましたよ。持ってくるのが遅いって」
「ええ。電話越しに聞こえてきたわ」
少しくらいなら、校内に入っても大丈夫とも言われていたようだし、人使いが荒い人なのはよく分かったわ。
恐いというより、ヒステリックで扱いにくいという印象を受けたわね。私も思うところがあるから自重しないと。
「これ以上遅れたら何をされるか分からないので、もう行きますね。もっとアリスさんと話したかったです」
「それなら一線をちゃんと守ってね」
昨日のことを皮肉ってやったけど、拓真君は何食わぬ顔で、一号館までの近道を聞いてきた。どうやらそこで待ち合わせているみたい。教えてあげると、拓真君はにっこり笑ってお礼を言ってきた。この辺の礼儀はしっかりしている。
「お礼に、今度アリスさんに似合うアクセサリーを持ってきますから。期待していてくださいよ!」
「そういうの良いから!」
ツッコミを入れながらも、何事も起きなかったことに、実はホッとしていたりもした。何を本気で怯えているのよ、情けない……。
そんな私と拓真君の掛け合いを、カメラ片手に屋上から覗いている趣味の悪いやつがいた。
「届け物の途中で、なあに、道草を食ってんのよ、あいつは……」
カメラ越しに拓真君を睨みながら、悪態をついているのは「X」だった。拓真君が言う、恐い先輩とは、こいつのことだったのだ。呼び出しをかけたのに、拓真君がなかなか来ないので、業を煮やして屋上から見ていたらしい。
「まあ、いいわ。追加の面白動画を撮ることが出来たから。キスしている場面の後にこれを観たら、仲睦まじく話しているようにも見えなくはないわね。女たらしも使い様かしら」
知らず知らずの内に、さらに弱みを握られてしまった私。これが、爽太君との関係にひびを入れるのは二日後のことになる。