第五十八話 嫌がらせ転じて、ラッキースケベと化す。さらに……
アリスがナンパされた中学生から、別れ際にキスをされてしまった事件の翌日、そんなことがあったとはまだ知らない俺は、学校の階段を階下へと下りていた。
階段を半分くらい降りたところで、下でプリントの山に押しつぶされるように倒れている女子を見つけた。
「あらら……。プリントが周りに散乱しているよ。運んでいる途中に、重さに耐えられなかったらしいな」
周りには誰もいないのか、駆け寄る生徒の姿は見えない。彼女の姿を見かけているのは、現状では俺一人か。
「……派手に転んだみたいだな。意識を失っていたら、保健室まで運ばないといけない」
それはそれで面倒なので、出来れば意識はあってほしいなと思いつつ、近付いてみる。すると、突然、女子の手が動いて、足首をがっちりと掴まれてしまった。置いて行かないでほしいという意思表示か?
とりあえず意識があるようだ。プリントの山をどかすので、手を離してほしいと告げると、あっさりと拘束は解かれた。
「何だ。誰かと思えば、アカリか」
「あ、ありがとう、爽太君……」
力のない声でお礼を言われた。意識はしっかりしているようだったが、足元はおぼつかないようだ。立ち上がったはいいが、フラついている。
「このプリント、一人で運んでいたのか?」
床に散らばったプリントを代わりに拾い集めながら、聞いてみると、コクリと頷かれた。
「うん。数学の小山先生から、次の授業で使うプリントを教室まで運んでほしいって言われたの」
「ドSなことをするな」
アカリの細腕で、この量のプリントを運ぶのは無理があるだろうに。噂では自分がペチャパイだからって、巨乳の女子生徒を一方的に逆恨みしているらしい。この仕打ちから察するに、案外、本当のことかもしれないな。
「手伝うよ。というか、大部分を運んでやる。アカリはこれだけでいいから」
拾い上げたプリント類から、数十枚抜き取ると、アカリに手渡した。出来れば、全部運んでやると言ってやりたいが、俺にも全部はきつい。少しだけ我慢してくれ。
「ありがとう。助かるよ」
アカリはにっこりと笑って、プリントの束を受け取った。
「大丈夫か? 何なら、少し休んでいくか?」
「えへへ、大丈夫だよ。たかが学校内の移動だよ? 休んでなんかいられないって。でも、気を遣ってくれてありがとうね」
大丈夫と言っているが、未だに足元がフラついているんだよな。もしかしたら、階段を上っている途中で、バランスを崩すかもしれない。注意しておかないと。
しかし……、このプリント、見かけより重いな。だんだんきつくなってきた。今更、アカリにもうちょっと持ってなんて頼めないし、急ごうにもアカリを置いていけないし、どうしたものかね。
俺の方が、休憩が必要かなと思っていると、木下が向こうから歩いてくる。下手な鼻歌をご機嫌に歌いやがって。でも、グッドタイミングだ。
「よお、木下!」
「ん? 爽太か。お前、何をしているんだ?」
「見ての通り、いたいけな女子高生の手助けをしているんだ……。お前もどうだ?」
つくづく、ちょうどいいところにやってきてくれたよ。いつもは、いてもいなくてもいい存在だが、今は救いの神に見えるぜ。……木下をそんな風に思うなんて、俺もやきが回ったなあ。
女好きの木下のことだ。アカリの気を引くために、もしかしたら、プリントを全部持つという展開もありうるなと、取らぬ狸の皮算用をしていると、全く予想外の行動に出たのだった。
「せいっ!」
「いっ!? 何をするんだ、お前!」
こともあろうに、いきなり足を引っかけて、俺を転倒させようとしてきやがった。何の真似だと声を荒げたら、「え? これをしてほしかったんじゃないの?」とか抜かしやがる。この確信犯が……。
「そんな訳ねえだろ……。プリントを持つのを手伝えって言っているんだよ!」
「ああ、そうか。悪かったな。誤解しちまったよ。でもな。そうやって、山のようなプリントを担いでフラフラになっているやつを見ると、無性にちょっかいを出したくならねえか?」
そう言いながら、今度は俺の足を軽く蹴りやがった。
「てめえ……。後で覚えていろよ……」
思い切り睨んでやったが、木下は愉しそうにニヤついているばかりで、全く堪えていない。こんなやつを一瞬でも期待してしまった自分を罵倒してやりたい。
「木下君……。私たち、たいへんな状態なんですから、邪魔しないで……」
相変わらずフラついた足取りでアカリも、止めるように促す。するとどうだ。俺の時はさらにイタズラを仕掛けてきたのに、アカリが頼むと、「ああ、済まなかったな」と素直に止めてしまった。本当に調子の良いやつめ。
しかし、ここで危惧していた事態が起こってしまう。アカリがまたも足を踏み外してしまったのだ。警戒はしていたのだが、木下の馬鹿と話し込んでいたせいで、反応が遅れてしまった。
「キャアッ!」
「アカリ!」
プリントを投げ捨てて、アカリの手を引こうとするが、間に合わない。このままじゃ、また階下へと転がってしまう。仕方がない。俺が痛い目に遭ってしまうが、かくなる上は……!
「俺がクッションになるか……」
転倒するアカリと床の間に、自分の体を潜り込ませて、彼女を抱きかかえるように、一緒に転倒していった。
「いてええ……」
俺がアカリを抱きかかえる形で、床に転がる。とりあえず、アカリは怪我を追っていないようなので、俺の救助は間に合ったことになる。
一つ、問題だったのは受け止め方だ。俺がアカリの胸に顔をうずめる形で、重なってしまっているのだ。
こ、これは……、俗に言うラッキースケベ……。
よくハーレム物の主人公が、ヒロイン相手にやらかしているアレか。もし、彼女がいない状態で起これば、己の幸運に涙を流して喜ぶところだろうが、その相手が彼女以外だった場合、事情が激変してくる。すごく気持ち良くて、天国に上る心持ちだが、早くどいてもらわないと、変な噂が発生してしまう。
「……助けてくれてありがとう」
「……どういたしまして。怪我がないようで、何より」
いや、今俺が急ぎすべきことはそれじゃない。変な噂を立てられないように、目撃者がいない内に、この状態から脱しなくてはならない。木下には見られてしまったが、やつにはさっきの恨みの分も含めて、まとめて口封じするつもりだ。
「でも……、私はこのままでもいいかも」
「いやいや! 良くないから!」
俺はまんざらでもない様子のアカリを急かして、豊満な胸を顔からどかすと、至近距離で立ち尽くしているだろう木下を探した。案の定、やつは俺のことを嫉妬と羨望の混じった目で見ていた。
「木下……」
俺をいたぶっていた時の余裕は消え失せ、親の仇でも見るような目で睨んでいる。
「ざまあ!」
とりあえず勝利宣言をしてやった。木下の顔はさらに鬼の形相と化していったのが笑えた。困っている人間を攻撃なんぞするからだ。しっかり反省しろ、馬鹿が!
負け犬面の木下をあざ笑って愉快になっていると、誰かが持っていた本を床に落とした、乾いた音が響いた。誰かがこの光景を見て、驚きのあまり、持っていた本を床に落としてしまったのだろう。
しまったと思ったが、そんなものはまだまだ序の口だった。さらに最悪な事態が俺を襲った。
「何を……、しているの……?」
まだ俺に乗っかっているアカリが死角になって姿は見えないが、この声は……、アリスだ。
全身の体温が、波が引くように消失していくのが分かった。このままゼロになって、低体温症でこの世を去ることが出来たら、どれだけ楽だろうか。だが、体温が減ったような気がしただけであって、実際には減ってなどいないのだ。当然、死ぬこともないし、保健室に現実逃避することだって出来やしない。
……何ということた。問題のシーンを、アリスに見られてしまった。
いや、見られなかったら、問題ないという訳ではないが、修羅場のレベルは確実に上がった。もう一つとか、二つとか、済まないレベルの急上昇。RPGでいきなりやられたら、全滅確実の非常事態だ。
「爽太……」
顔面蒼白の俺に向かって、木下が一言だけ、しかし、悪意をたっぷり込めて、呟いた。
「ざまあ!!」
「ぐっ……!」
たった今、自分で言ったばかりの台詞を、得意満面の顔で言われてしまい、俺は屈辱で言葉に詰まってしまった。だが、今はそれどころではない。
申し訳なさと、気まずさから、直視出来ないが、アリスに対して申し開きをしなくては。……どっちにせよ、血祭りにあげられるだろうけどね。
ドヤ顔で「ざまあ!!」と言ったら、気持ちがいいんだろうなあと思いつつ、
そういう機会には恵まれない、平凡な日常を生きています。