第五十一話 彼女と、許嫁の、あまり穏便とは言えない密会
小島の城に拉致監禁された俺は、一か月以内に「X」にキスを求めるかどうかで、勝負することになった。もし、キスをしたら俺の負けで、その時はアリスとの関係を清算して、「X」と交際しなければならない。逆に、キスをしないまま、一か月が経過した場合は俺の勝ちで、「X」は俺とアリスの関係を認めて、去っていくという。
この勝負に勝ったからといって、やつが大人しく退かないケースも考えられるが、今のままずぶずぶと続けていくのはしんどいものがあった。もし、退かなくても、勝負に勝ったことを理由に突っぱねてやればいい。
監禁されている俺の立場の方が圧倒的に悪いので、強引に関係を迫っても良さそうなものだが、そうしなかったのは、やつなりの心配りなのだろうか。それとも、俺が本心から「X」になびかないと気が済まないということなのか。
まあ、どっちでもいいことだ。この勝負。俺が勝ったようなものだから。だって、俺からキスをしなければいいんだろ? つまり、俺が我慢していればいいだけじゃないか。アリスとのキスを我慢するならともかく、彼女でもない女子とのキスを我慢するのは容易い。
俺に散々ちょっかいを加えてきた「X」にしては、拍子抜けするほど、簡単な内容じゃないか。俺は拉致監禁されたことへの怒りが和らぐほどの余裕を感じていた。
……さて。無人の城にいつまでも厄介になるのも何だし、もう帰るか。実は眠くて、今にも倒れ込みそうなのだ。
たいへんなことがあったばかりなのに、呑気に欠伸を漏らしながら、もう寝ることしか頭にない俺は、今アリスと「X」が対峙しているとは、夢にも思っていなかった。
ちょうどその頃、アリスが先導する形で、二人は落ち着いて話し合える場所を求めて、島の中を歩いていた。島といっても、そんなに大きくないので、十分も歩けば、反対側に出てしまうようなサイズだけどね。
「ここで良いんじゃない? もっとも、この島は人が基本的に立ち入ってこないから、どこでも良いんだけどね」
「城から出てきた爽太君に見られたくないの。余計な心配をかけたくないから」
「ああ、成る程ね」
俺に恋心を抱いているという点では共通していて、「X」も納得しているようだった。
場所が定まると、二人は改めて向かい合った。話し合いというが、アリスにとっては、自分から俺を奪おうとしているだけでなく、自分の記憶を奪ったこともある相手だ。決して、穏便には済みそうにない雰囲気がビリビリと周囲に伝わっていた。漫画だったら、激しい火花が散っているところだ。
「さて。じゃあ、質問させてもらうけど、あなた、爽太君と何を話していたの? わざわざ私が彼と遊んだ後に、こんなところに招待するなんて、なかなか面白い趣味をしているじゃない」
「あなたに教える気はないわ。どうしてもっていうんなら、爽太君に直接聞いてみればいいんじゃない? 動揺する覚悟があるのならね」
挑発に対して、アリスは眉間に皺を寄せたが、すぐに憐れむような表情に変わった。
「また懲りもしないで、爽太君に頭を下げに行ったのね。私と付き合ってくださいって。そして、いつも通り相手にもされなかったのに、何故かしてやったりの顔で城から出てきたということかしら?」
「……違うわよ」
今度は「X」がアリスを睨む番だった。こめかみには、ビキリと鋭い音を立てて、青筋が走る。
「そうやって余裕でいられるのも今の内よ。必ず吠え面をかかせてあげるから」
「吠え面をかくような事態になったら、さっき返した薬をまた頂戴ね。アレを飲めば、ムカつくことは忘れて、またヘラヘラとあなたを見下せるもの」
ビキリ、ビキリ!
青筋の数が増える。顔こそ笑っているが、「X」の怒りは、急上昇していた。殴り合いに移行しないのが不思議なくらいだ。
そうしないのは、手を出したら負けだということを理解しているからだろう。アリスに手を出そうものなら、俺は間違いなく激怒して、今後「X」の正体が判明しても、キスする可能性は絶対になくなる。いや、今だって、キスはしないが、それに怒りが加わるのだ。やつとしてはどうしても避けたい事態だ。
「どうしてそこまで爽太君に執着するのかは分からないけど、私が取るべき行動は一つよ。ここであなたを警察に突き出すのもいいけど、もっと効果的な方法があるわよね」
会話の主導権を握っているアリスは、すっかり勝利を確信したかのような笑みを漏らしている。
「それは、爽太君とイチャつくことよ。カップルらしくね。あなたにしてみれば、それが何よりもの苦痛でしょ?」
「……よく理解していること」
アリスの推測は当たっていた。俺に執着する「X」にとって、他の女と仲良くやられるのが、一番堪えるのだ。
「元々爽太君は私のものにするつもりだったけど、あなたと話して、より一層気持ちが強くなったわ。何が何でも、あなたから爽太君を奪ってあげたい」
「まあ、せいぜい無駄な努力に汗を流すことね。でも、笑う側にいるのは、常に私。爽太君は決して渡さない」
お互いの意思表示をしたところで、二人の会話は唐突に終わった。しばらく睨み合った末、アリスから先に動いたのだった。
自分の意志をハッキリ伝えきったアリスは悠然とその場を去っていくと、残された「X」は、それまで抑え込んでいた暴力衝動を、近くに生えていた樹木を思い切り殴りつけることで発散した。
「チビのくせに……。ペッタンコのくせに……。本当にかわいげのない子だわ」
まるで小さい子に馬鹿にされたようで、「X」のプライドは、ずいぶんと傷つけられたようだ。
「アリス……。爽太君とイチャついているだけでも気に入らなかったのに、より憎らしくなったわ」
結果的に言うと、アリスの行為は「X」の次なる一手を、さらに凶悪なものにすることになった。アリスからしてみたら、宣戦布告のつもりかもしれないが、俺にしてみれば、相談してほしかった。彼女に、危険な橋を渡ってほしくないのだ。
「ただ爽太君を奪ってあげるだけでも良いけど、気が変わった。もう一つイタズラを仕掛けてあげるわ」
鬼のような形相で「くっくっ……」と笑うさまは、恐怖を喚起させるに十分だった。心霊動画として投稿しても、それなりの評価をもらえそうだ。
誰もいない場所で一人悪そうな顔で笑みを漏らしながら、携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけるのだった。
「私を虚仮にした罰よ。思い知りなさい、チビ……」
こうして、彼女と許嫁の対立が鮮明になったのを最後に、波乱の一夜はようやく明けるのだった。
別荘に戻る頃には、すっかり足元がフラついていた。アリスと楽しい時間を過ごして、その後爆睡する予定だったのに、どうして俺はこんなに疲れているんだろうね。
原因はもちろん「X」だ。いきなり俺を拉致監禁しやがって。すぐに開放してくれたから良いものの……。
駄目だ。無事に解放されたことに安堵するよりも、早く寝たいという気持ちが勝ってしまう。ここまでたどり着けたのが奇跡。よく途中で倒れなかったと、自分を褒めてやりたい。
さあ寝るかと、ベッドに倒れ込むのとほぼ同時にドアが開いて、木下が入ってきた。
「おい……。朝飯を作るぞ」
「今、五時だろ? いくら何でも早過ぎるって……」
寝入りばなを叩かれた俺は不機嫌な声を上げたが、やつはお構いなしだ。
「昨日の夜、何も食べていないから、腹ペコで死にそうなんだよ」
そういえば、こいつはみんながバーベキューで肉にありついている時に、鼻血でバタンキューしていたんだっけ。一度は肉の残りを持っていったんだが、こいつが遊里と不埒なことを言っていたので、処分してやったのだ。だから、今のこいつは餓死寸前という訳か。成る程、成る程。
「おい。人を除け者にして、勝手に納得しているんじゃねえよ。とりあえず起きろ」
空腹を抑えきれない木下が俺を揺するが、こっちだって眠たくて仕方がないのだ。
「たった今戻って来たばかりなんだよ……」
「あ? 戻って来たばかりって、こんな辺鄙な場所で深夜にすることなんてないだろ。該当だって、きちんと整備されているのか怪しいのに」
「懐中電灯があったんだよ。これでアリスと……」
「アリスと?」
……しまった。眠過ぎて、うっかり口が滑ってしまった。
「……あ」
俺の昨夜の行動を思い出した木下の顔が見る見るニヤけてくる。こいつ、絶対にいかがわしい想像を巡らせている。
「そう言うことなら仕方がない。悪かったな、気が効かなくて。朝食は俺一人で作って来るから、お前は疲れた体を存分に癒すといい」
さっきまであんなにしつこくキッチンに引っ張っていこうとしていたのが嘘のように優しくなりやがった。こんなに嘘くさくて、人を小馬鹿にしたような笑顔は、久しぶりに見たよ。
「おい、待て……」
「無理にベッドから起き上がらなくていいって。言っただろ。後は俺がするから」
とことん裏を感じる優しさだ。肉を持ってきてくれなかった腹いせに、俺を笑いものにしてやろうとか考えていそうだ。
「ああ~。遊里とお話しするのが楽しみだ~」
その言葉を聞いて、思わずゾクリとしてしまう。確か遊里に、俺とアリスのデートの様子をデジカメに収めるように勧めていたんだっけ。映像はきれいに削除してやったが、遊里のことだ。絶対に、面白おかしく脚色して話すに決まっている。
こうなると、おちおちベッドで寝ている訳にもいかない。遊里が、木下に妙なことを離さないように目を光らせておかなくてはならない。まだ睡眠に対して未練の残っている俺は、眼を閉じて深呼吸することで、覚悟を固めた。
「分かったよ。俺も朝食を一緒に作る。作ればいいんだろ!」
ああ……。結局一睡も出来なかった。一応、「X」に意識を奪われている時に、ベッドには寝かされたが、あれは睡眠とはカウントしない。