第四十九話 俺が記憶を最初に失った時、君は笑顔を失った
城に監禁された俺は、ドア一枚を隔てて、「X」と対峙していた。というより、会話をしていたといった方が正しいのか。
「教えて。爽太君が見たっていう夢の話を全部教えて!」
夢で昔のことを思い出したと伝えた途端、「X」の態度は一変した。
「え? だから、今言った通り、お前のことをゆうちゃんと呼んでいたということくらい……」
「それで全部じゃないでしょ! 真っ暗の中に、子供の頃に私が出てきて、それを見てゆうちゃんと呼んでいたことを思い出したら、目が覚めましたとでもいうの!?」
「う……」
「X」のあまりの迫力に、思わずたじろいでしまった。どうやら、当人である俺以上に、昔の記憶に強い思いを抱いているようだ。
聞いたところで仕方がないと思うが、俺は律儀にさっき見たばかりの夢を一から十まで、丁寧に説明してやった。話に聞き入っているのか、「X」は合いの手を入れることもなく、黙って耳を傾けていた。
「そっか……。一番楽しかった時期のことを思い出してくれたのね……」
話を聞くと、「X」は年ごろの少女特有のこそばゆいような声を出した。確かに夢の中で、登場人物はみんな楽しそうにしていたが、それが永遠に続いてくれなかったことは、現状を見ればあっさりと推測出来てしまった。
「爽太君ね。あの後、事故に遭ったの。それで、記憶を全部なくしちゃったのね。それでも私は側に寄り添うつもりだったんだけど、どういう運命のイタズラかしらね。ちょっとした事情があって、離れ離れにされちゃったのよ……」
ドアの向こうで、歯ぎしりする音が聞こえてくる。当時のことを思い出しながら、悔恨の念に駆られているのだろう。
それよりも、俺が事故に遭って、記憶を失っていたというのが初耳だった。俺は子供の頃から、そういう星の元で生きてきていたのか。
「ねえ、爽太君。私との思い出を思い出した後も、まだアリスのことが好き?」
「……ああ」
一瞬、言葉に詰まりかけたが、答えは一つしかないんだ。俺はしっかりとした口調になるように、努めてハッキリと言い切った。
「悔しいなあ……」
浜辺で首を締め上げてきた時のような狂気を含んでいない、正直な感想に聞こえた。
「でも、記憶が全部戻ってくれれば、また私のことを好きになるよ。アリスのことなんかよりもずっと……」
「さっき夢で幼い頃のことを見たといっていたよな。その後も、俺の気持ちは変わっていない。それに、全部思い出したら、想いが戻ってくるとしても、いつになるか分からない。次の恋に移った方がお前のためなんだ。分かってくれ!」
「X」と昔、結婚の約束をするほどの仲だったのは分かったが、だからといって俺の答えは変わらないのだ。夢の話をしたことで、変な期待を持たせてしまったみたいだが、結局のところ、何も変わりはしないのだ。
「んふ!」
突然、「X」が奇妙な笑いを漏らした。驚く俺をよそに、火がついたように笑い始めた。首を締め上げられた時のことが頭に浮かぶ。まずい。また襲ってきてくる気か。
「うふふふふ! あはははは! えへへへへ!」
しばらくの間、様々な笑い声で、「X」は延々と高笑いし続けた。俺はというと、いつドアを開けて襲い掛かってくるのか、ずっと警戒し続けていた。
だが、俺の懸念をよそに、「X」は徐々に落ち着いていった。
「爽太君が記憶を取り戻してくれるように、まだ思い出していないことを教えてあげるね……。かいつまんで話すね。爽太君が記憶を失っちゃった後、私の方にも災難があってね。パパが浮気しちゃったの」
「え?」
パパというと、夢の中で重度の親馬鹿を発揮していた、あの男性か。
「あんなに私のことを溺愛してくれていたのが、ある日を境に嘘みたいに避けるようになったのよ。私、自分が嫌われるようなことをしたのかなって思って、何が悪いのか分からないのに必死になって謝ったりして……」
「おい……」
告白の言葉に、どんどん悲痛なものがにじんでいった。俺が声をかけるのが聞こえないかのように、告白に熱が帯びていった。
「浮気していたのが発覚すると、ママはパパのことをすごく怒って、もう顔も見たくないって言っていたんだけどね。私は逆に燃え上がったの。どうしても、またパパに愛されたいって! おかしいよね。爽太君の夢では、パパが私に好かれようと躍起になっていたのに……」
一人の少女がどんどん歪んでいくのが、映像を見ていないのに、容易に想像出来てしまいそうだ。一緒に砂の城を作っていたゆうちゃんの笑顔が消えていく……。
「その時に気付いたのよ。本当に愛していたら、裏切られようとも、その愛が揺らぐことはないって。奪い返してでも、取り戻そうとするってね。浮気が発覚した程度で諦めるのなら、その愛はそれっぽっちの価値しかなかったってことよ!」
奪い返す。言葉の通りなら、アリスから俺を奪取するということか。
「結果だけ言うね。パパの愛は、結局取り戻せなかったのよ。だからこそ、私は爽太君の愛を何が何でも取り戻してやるって決めたの!」
「X」の告白には、空白の箇所が存在するが、そこを詳しく聞く気はしなかった。普通の女の子だったゆうちゃんが、「X」へと変貌していく過程が十分過ぎるほど、伝わってきて辛かった。
「俺のために……、そこまでしなくていいよ」
俺は正直な感想を口にした。彼女でいてくれるアリスに対しても申し訳ないが、俺はそこまで愛してもらえるほど、大した人間じゃないのだ。
「……」
「俺なんかよりも良い男は、世の中にたくさんいる。なんなら、探すのを手伝ってもいい。だから、俺のことを忘れてくれ」
これ以上不毛なことをするのは止めて、次の恋に移った方が良いということを、延々と説明した。だが、やつの心は動かなかった。
「分かっていないよ。私がどうしてここまで爽太君に執着するのかを……。爽太君はね、私にとって幸せの象徴なのよ。爽太君が私と結婚の約束をした時、まだ両親の仲は良好で、幸せだった。その後、いろいろあって崩れていったんだけどね。私は、それを取り戻そうと思っているのよ。その中で、思い出の中心だった爽太君の存在は非常に大きいものなのよ」
夢のことを思い出した。客観的に考えれば、ゆうちゃんからしてみれば、あの夢の中で一番大切なのは、結婚の約束をした俺なんだろう。俺は、失った幸せを取り戻すための核なのだ。彼女にしてみれば、他の男では、代用はきかない存在なのだろう。
「爽太君は私に出来た最初で最後の大切な人なんだから。アリスに目がいっちゃっても、仕方のないことだとも思っているのよ。人間は、基本的に「裏切る」生き物なんだから……」
「……それは」
最後の一文を語った時の「X」の声が凍りつくように、一方で執念で燃え上がっているような狂気を含んでいて、ゾッとしてしまった。今はもう失われた過去の幸せに尚も執着する暗い決意が浮かんでいる。
「それでも……、俺はアリスを選ぶよ……。記憶が全部戻ったとしても、それは変わらない」
ここまで苦労話を聞いたんなら、「X」に乗り換えるという選択肢もあるが、それじゃ駄目だ。それは同情であって、愛じゃない。「X」はそれでも喜んでくれるだろう。でも、駄目だ。また笑うようになった「X」を見て安心して、最終的にはアリスの元に走る。そんな気がする。中途半端な同情はよりひどい未来しか生まないという確信が何故か強まっていた。
「……やっぱりそう言うんだね。うん、やっぱりそう言っちゃったか」
声は静かだが、狂気がところどころで顔を覗かせている。
「爽太君ってさ。かなり思い切ったことを言うんだね。私がキレて、アリスのところに走っていったら、閉じ込められている爽太君は、何も出来ずに指を咥えて見ていることしか出来ないんだよ? 普通は私を怒らせないように、へりくだったり、嘘でご機嫌を窺ったりするものだけどね」
「あ……!」
しまった! 話に熱中するあまり、自分の状況を忘れていた。やつの言う通り、今の構図は不味すぎる! 携帯電話もないから、連絡をすることも出来ないじゃないか。
「今思い出したって声だね。嘘をつくのも忘れて、本音で私と会話していたんだ。……嬉しいよ。パパの件で、人の嘘に敏感になっているから、もし爽太君があからさまにその場しのぎなことを言ってきていたら、怒りで歯止めが効かなくなっていたな」
もし、もっと冷静だったら、誤魔化すという最悪の選択肢をとったかもしれない。そうしたら、血を見ることになっていたかもな。あり得なかった未来出ないだけに、身の毛がよだってしまう。
俺が恐怖で黙ってしまうと、重い沈黙が下りた。途切れてしまった会話を再開させようと、「X」はこう切り出してきた。
「ねえ、爽太君。私とゲームをしない?」
「ゲーム?」
「そう。私たちの関係に決着をつけるゲーム。このまま話し合っても、平行線を辿るばかりでしょ? だったら、ゲームで強制的に白黒つけちゃいましょうよ」
俺の額を冷たい汗が流れていく。それは決して暑いからかいた汗ではなかった。