第四話 記憶を失った姉を前に、アキが下剋上を敢行した
アリスと別れろという、謎の許嫁からの要求を無視していたら、向こうは強硬手段に出てきた。俺とアリスの交際が気に食わないなら、俺を狙えばいいのに、よりによって、アリスに危害を加えてきたのだ。
無人の教室で倒れているアリスを発見した俺は、すぐに彼女に駆け寄って呼びかけた。だが、目覚めたアリスは記憶を失っていて、俺のことも覚えていない。いつもの自信たっぷりの態度は見る影もなく、呆然とする俺を、不思議そうに見つめている。
アリスの横に、紙が一枚落ちているのを見つけた。「あなたがなかなか彼女と別れてくれないから、強硬手段に出ちゃった。これであなたとの関係も解消されたわね」と書かれている。名前は書かれてなかったけど、許嫁が俺に向けて書いたメッセージで間違いないだろう。
紙の近くには錠剤の入ったカプセルが落ちていた。この薬、飲むと記憶喪失になってしまうと問題になっているものだ。この前、ニュース番組で取り上げていたのを覚えている。
ムラムラと怒りが沸いてきたので、許嫁からのメッセージカードはすぐにビリビリに破いてやった。
「なあ……。本当に俺のことを覚えていないのか?」
怒りのまだ醒めきらない頭で、荒い呼吸をしながら、アリスの話しかけてみる。だけど、アリスは俺を見て怯えるばかりで返答してくれない。気が強い、いつものアリスなら、あり得ない反応だ。
「俺は君の彼氏の晴島爽太っていうんだけど、本当に覚えていないのか?」
諦め悪く、もう一度語りかけるも、やはり駄目だった。本当に記憶を失ってしまっているらしい。
俺だけじゃ埒が明かないので、とりあえず増援を呼ぶことにした。今は授業中だけど、緊急事態だから構わないだろう。木下とアキに、ここへ来てくれるようにメールで頼んだ。
木下は来てくれなかったが、アキはすぐに飛んできた。何だかんだ言っても、姉のことが心配らしい。
「お姉ちゃん!」
慌ただしくドアを開けると、姉に向かって駆けだす。顔は真剣そのもので、心配しているのがこっちにも伝わってきた。
そのまま姉に話しかけるのかと思っていたら、意外なことに、素通りして、鞄をまさぐりだした。
「あ、良かった。弁当は無事か」
心配していたのは、そっちの方かよ。到着早々、姉よりも弁当の方を気にしたので、本気で睨んでやると、さすがにまずいと感じたらしく、アキは冷や汗をかいて申し訳なさそうにしていた。
改めてアキとアリスの目が合う。妹の顔を見ても、アリスは相変わらず他人を見るような目をしている。
「私を見ても、反応なしですか。マジで記憶喪失なんですね。でも、一体どうして……」
「こいつのせいだ」
俺は床に転がっていた記憶喪失剤をアキに見せた。
「テレビで取り上げていたやつですよね。一錠飲むだけで、記憶が飛んでしまう禁断の薬。癌の治療薬を作っている過程で、偶然出来てしまい、実験に投与した人の記憶をなくしてしまって、メーカーが訴えられている薬ですよね。あの番組、お姉ちゃんも観ていた筈なんだけどな~」
仮にその番組を観ていなかったにしても、人から差し出された薬を飲んでしまうほど、アリスはアホの子ではない筈だ。妹と違って。
二人して不思議に思っていると、錠剤の入ったカプセルの注意書きの部分に、手書きのメッセージが書かれているのを見つけた。「これを飲めば、たちどころに身長が最低でも三十センチはアップ! もう誰もあなたをチビとは呼ばない!」と書かれていた。成る程……。誘惑に負けてしまったのか。俺は構わないと言っているのに、本人はかなり気にしていたからなあ。アキの弱点を突いてくるとは、敵もなかなかこちらのことを調べている。
「あの……」
深刻な顔で話し合う俺とアキに、アリスが泣きそうな顔で聞いてきた。自分を放っておいて話されることに、不安が募ったのだろう。心配ないと励まそうとする俺を遮って、アキが話しかけた。
「私は何者なんですか? 爽太さんのカノジョということは分かったんですけど、他にも教えていただけませんか?」
俺のことをさん付けで呼んでいる。いつもは呼び捨てなので、よそよそしく感じてしまう。
とにかく不安になっているアリスを励ましてやらないといけないと思っていると、アキが自分に任せてと前に出た。
「大丈夫よ、アリス!」
「……?」
いきなり姉の名前を呼び捨てだ。美しい姉妹愛を期待していたら、何を言っているのか。アリスの記憶喪失にも驚いたけど、アキの変化にも肝を冷やされた。まさか、アキの身にも、何か起こったんじゃないだろうな。
「私はあなたのお姉さんよ!」
「……は?」
聞けば聞くほど意味不明だ。こんな時に何を言い出すんだろうか。変なものを食べて、頭が変になったんだろうか。……元からそんな兆候はあったけどね。
とりあえずアキを後ろに引っ張っていって、事情を聴取することにした。もし、とぼけるようなら、デコピンも辞さないつもりだ。
「ちょっと……。何の真似?」
本当におかしくなっていたらどうしようと思いつつ、聞いてみると、アキは目を輝かせて訳を話した。
「誰の仕業か知らないけど、これはチャンスです! 私とお姉ちゃんの立ち位置を逆転させる下剋上のチャンス!」
「……」
つまり、姉に記憶がないのを良いことに、自分が姉になり替わるつもりでいるのか。姉の心配より、自身の利益を優先するなんて、どこまで優位に立ちたがっているのだ、この子は。まあ、普段の姉からの扱いを見ていると、気持ちは分からなくもないけど。
「こいつは一年で、君は二年だ。年齢は君が上だよ。騙されちゃいけない」
アキの計画に加担している暇はないので、さっさとネタバレすることにした。アキは慌てていけたけど、知ったことではない。
「わ、私の学年が下なのはね。二回留年しちゃったからなんだよ」
まだ嘘をつき続けるつもりなのか、しょうもない言い訳まで始めた。そこまでして下剋上したいのかね、この子は。
だが、肝心のアリスは、気味悪そうにアキを見つめるだけで、嘘に騙されているようには見えない。その様子を見て、アキも遂に観念した。
「あ~あ、お姉ちゃんの不安を紛らわせてやろうとついた、優しいジョークだったのになあ……。不評だったみたいだね」
いやいや、お前、めっちゃ本気だったろう。目がマジだったから。
「馬鹿を言ってないで、アリスの記憶を戻す方法を考えないと。この薬って、治療薬はあるのかな」
さすがに保健室にはないだろうから、病院に行くことになるだろうな。事情を説明すれば、もらえるだろう。……そんなものがあればの話だけどね。
「ふっふっふ! 医者の手にかかる必要はありませんぜ」
またアキが含み笑いをしながら、怪しく目を輝かせている。今更ながら、アキを助っ人に呼んだのは過ちだったことに気付いてしまった。もう手遅れだけど。
「じゃじゃじゃ、じゃ~ん!」
もったいぶって、アキが取りだしたのはピコピコハンマーだった。
「まさかそれでアリスを叩くつもり?」
「そうですよ。記憶喪失を直すには、頭を強打するのが一番です」
その方法、医学的根拠ないよね? 漫画で読んだだけの知識を知ったかぶって披露するのは止めてほしいな。ほら! アリスなんて、怯えて、俺の後ろに隠れちゃっているし。
「お姉ちゃん。こんなことをするのは、私だって心が痛むけど、お姉ちゃんのためなの。だから、我慢して!」
全然辛そうに見えない。真剣な顔で話しかけていても、姉を叩けるのがよほど嬉しいのか、ついにやけてしまっている。「日頃の恨みを晴らさせてもらうわ!」という副音声が聞こえてきそうな勢いで、アリスの頭を、ハンマーで強打する。アリスは痛がっていたが、記憶が戻っているようには見えない。
「あれ? おかしいな。この方法で治る筈なんだけどなあ。こうなれば仕方がない。治るまで叩かないと……」
「ひいいっ……!」
効果がないのに、少しも残念そうでない。むしろ作戦通りの展開によだれをたらさんばかりにほくそ笑んでいる。やはり姉をハンマーで殴るのが目的のようだ。
「おい! 痛がっているじゃないか。止めろ!」
いくらアリスの記憶を戻すためとはいえ、これはやり過ぎだ。彼氏として止めなければ。
「駄目ですよ。ここで止めたら、記憶は戻りませんよ。それでもいいんですか?」
「他の方法を探す! アリスを痛めつけるのは嫌だ」
「……私は嫌じゃないけど」
やっぱり狙いはそれか。勘付いていたけど、はっきりと本音が漏れるのを、耳にした。
「という訳です。お姉ちゃん、覚悟!」
「覚悟って何だよ! 記憶をさらに吹き飛ばすつもりか!」
俺が厳しい言葉で、アキを制していると、後ろから冷たいけど、狂気をはらんだ空気が背後から吹いてきた。
「止めろ……」
怒気を含んだ獣のような目で、アリスはアキを睨んだ。その眼光は鋭く光り、今にも襲いかからんばかりの殺気を放ち、睨まれたアキは本能的に恐怖を感じ、壁まで反射的に後退した。
「あれ、記憶が戻ったのか?」
本当に記憶が戻ったのかと思ったが、アリスの顔はすぐに怯えた表情に戻った。
「わ、私に舐められた怒りで、意識の深いところにあるお姉ちゃんの記憶が呼びさまされた?」
よく分からんが、そのようだね。妹に舐められるくらいなら、死んでやるって、前に話されたこともあるし、ハンマーで叩かれたことが相当屈辱だったんだな。
「頭を強打する方法だけど、効果があるのは認める。でも、記憶が戻ると同時に、アキちゃんの記憶が飛ぶことになるかもしれないけど、それでもいいの?」
アキは恐怖で汗びっしょりになりながら、無言で首を横にブンブンと振って、否定する。
頭を強打する方法では、解決後に血を見ることになってしまうので却下。アリスのことは心配だけど、俺もアキも、まだ死にたくないので、素直にアリスを病院に連れて行くことにしたのだった。
4話目にして、やっと主人公の名前が明かされました。