第四十五話 甘い時間と、その都度ぶち壊されるムード
アリスと会うために、みんなを起こさないようにこっそりと別荘を抜け出して、夜の海を歩いていた。
街灯がないだけで、こんなに暗くなるんだなと思いながら歩いていると、前方に人影が見えてきた。人影の正体は、俺の彼女、アリスに決まっている。
向こうも俺に気付いて、手を振りながら駆けてきた。何て可愛らしい動作なんだ。思わず顔がはにかんでしまうよ。
「よっ……!」
「えへへへ!」
日中にあった時と同じような感じで挨拶を交わす。でも、あの時と決定的に違っていることがある。人の量だ。
日中は前にも後ろにも、右にも左にも、どこを向いても人が過剰にいたが、今は誰もいない。アリスと甘い時間を楽しむには絶好のコンディションだ。誰の目を気にすることもなく、イチャイチャ出来るのだ。これって、最高にテンションが上がる瞬間じゃないだろうか。
再会の挨拶が済むと、待ちかねたように互いの唇を重ねようとした。待ちに待ったキスだ。
急速に縮まっていくアリスとの距離、呼応するように上がっていく心拍数。それがピークに達しようという時、無情な着信音がポケットからした。
「メール。鳴っているね……」
「ああ。何というか、ごめんな」
絶頂に達しかけていたムードが、風船が割れるように、一気に台無しになってしまった。こんなタイミングでメールを出してきたやつにも憤りを隠せないが、携帯の電源を切っていなかった自分にも腹が立った。ちゃんと切っておけよ、俺……。
メールを確認すると、さらに脱力してしまった。
『腹減った……』
送信してきたのは木下だった。あいつは夕食を食べていないから、時間的にもう空腹が限界に達しているんだろう。血だって結構流しているしな。
本来だったら、残り物の肉にはありつけていたんだぜ。俺の前で遊里と不謹慎なことを口走っていたから、俺が処分してやったけど。
木下の緊迫した空気は伝わってきたけど、返信するようなことはせずに、携帯の電源はしっかりと切らせてもらった。これでメールで邪魔されることもあるまい。
それから改めてアリスと向き合う。あんなことがあった後では、もうムードは壊滅状態だと思っていたが、そこは若い二人。見つめ合うだけで、甘い空気が戻ってきた。
そのままアリスと唇を重ねた。重ねた後は、しばらくそのままの態勢で、時間が止まったかのように、長い間静止していた。
呼吸のために一旦唇を離したが、また重ねる。何度繰り返しただろうか、その先まで行ってしまいそうな雰囲気の中、アリスの顔が急に強張った。
一瞬、幽霊でも見たのかと思ったが、すぐに別の可能性を示唆した。この段階で怖いのは、幽霊よりも、生きた人間が盗撮していることだ。自分たちの愛の行為が、薄汚いカメラに知らぬ間に収められてしまう。
俺には、そういうことをする輩に、心当たりがあったのだった。振り返ってみると、予想通り遊里がカメラを構えて立っていた。
しかも、かなり大胆にすぐ近くまで接近していた。こんなに接近されるまで気付かないほど夢中になっていたのかよ。それはそれで、驚きだが、遊里の対処が先決だ。
「よお。こんな時間に盗撮か? ご苦労なことだな」
「違うの! 私は心霊動画を撮っていただけ。そうしたら、たまたま爽太君たちの熱愛シーンがカメラに入り込んできただけ……」
こめかみに青筋を浮き上がらせながら、怒りのために震える声で語りかけると、みっともない言い訳が返ってきた。そんな言葉が、今の俺に通用するとでも思っているのかね。
「どこから撮っていた? 見せろ」
遊里の言葉を信用するほどお人よしではない。いや、信用したとしても、俺とアリスのキスシーンが収められているのなら、削除せねばなるまい。
「え? いや~ね。動画で投稿したら、ネットから確認できるから、今見なくても良いじゃん」
「そんなことをさせないために、確認させろと言っているんだよ!」
「……させない」
次の瞬間、俺と遊里の、夜の浜辺での追いかけっこが始まった。よくカップルが軽いノリで追いかけっこをしている光景を漫画で見るが、あんな可愛いものではなかった。というか、アリスとやりたかった。
大逃亡劇の末、遊里からデジカメを奪取すると、早速映像の確認をした。俺とアリスの恥ずかしい行為が出るわ、出るわ。これがもう少しで世間の知るところになっていたかと思うと、背筋に悪寒が走る。
「……じゃあ、爽太君。お願い」
「ああ」
この映像の扱いに関しては、アリスと意見が完全に一致した。
「や~め~て~!!」
断末魔の叫びを上げながら、寛大な処置をお願いする遊里。だが、それは叶わなかった。映像はもちろん、跡形もなくきれいに消去させてもらったよ。
「さて。動画も消去したし、場所を移動しようか」
「ええ」
動画を消去されて、その場に崩れ落ちている遊里を置いて、そそくさと移動した。
「この辺でいいかな?」
「五十嵐さんもしっかり撒けたみたいね」
後ろを念入りに確認したが、遊里は追ってこないようだった。邪魔な盗撮マニアがいなくなったことで、改めてアリスとイチャつこうとした。
だが、唇を近付けようとしたところで、またもアリスの表情が強張る。
「ちょっと待って……。誰かに見られているわ……」
……またかよ。遊里はしっかり撒いている筈だから、あいつ以外の人間ということになるのか。どうしてこう他人の愛を盗み見ようとするのかね。
重い気持ちで辺りを見渡すと、そいつはすぐに見つかった。というか、隠れる気がないだろ。
頭隠して尻隠さずというが、こいつは体がかなりはみ出ている。どこも隠しきれていなかった。そんな状態でデジカメをしっかりとこちらに向けている。
隠れているやつに接近。姿をしっかりと確認すると、深いため息をついた。
匍匐前進の態勢で、草むらに潜んでいるのはアキだった。ここに何をしに来ているのかは、聞くまでもない。というか、面倒くさいので、聞いてやらない。
仁王立ちしている俺と目が合ったアキは笑顔を作ろうとしているようだったが、いきなり睨まれたことですくんでしまったのか、表情が凍り付いてしまっていた。
「潜伏の真似事なら、段ボールも必需品なんじゃないのか?」
「あははは……。某有名ゲームじゃないんですから」
冷や汗を流しながら、こびへつらっているが、俺の行動は変わらない。
「とりあえずカメラは没収な❤」
「え? い、いや。それは……勘弁」
「心配するな。海から帰ったら、ちゃんと返してやるよ。カメラに収めた映像はきれいに消去してやるけどな」
「……お義兄さんの鬼」
アキが恨みがましい視線を送ってきたが、睨んだところで勘弁してやらない。
「ほらほら! もう夜も遅いんだから、さっさと帰る!」
「え~! お義兄さんたちも夜更かしするくせに~? 私だけ帰るなんて嫌~」
アキが騒いでいる中、カメラに収められている映像を確認。げっ……、さっきアリスとキスしたのが丸々あるじゃないか。あの場に、遊里どころか、こいつまでいたのかよ……。
「せっかくホテルを抜け出してきたのに、このまま帰れなんて、そりゃないよ。ひどいよ~!」
俺と姉のつれない態度に、ついに嘘泣きまで始めた。泣き落としをかけてきたのか。というか、縁起が下手過ぎて、ため息しか出てこない。盗撮犯のくせに、つくづく厚かましいやつ。
しかも、泣き真似をしつつも、右手には花火セットがしっかりと下げられていた。これで遊びましょうということか? 見え透いたアピールをしやがって……。
「ねえ、爽太君。このままアキを強引に返しても良いけど、もう二人きりの時間を楽しむって感じでもないよね」
「ぐ……」
確かに、妨害が多かったせいで、甘いムードは霧消してしまっていた。アリスの言いたいことは分かっている。面白くなかったが、こうなっては仕方あるまい。
「……分かったよ。花火でもするか」
「オッケー!」
それまで嘘泣きの真似事をしていたアキが輝くばかりの笑顔を見せた。わざとらし過ぎて、本当、イラッとした。
「ふっふっふ! 実は嘘泣きだったのです!」
「うん、知っていたよ。最初から見抜いていたから、胸を張らなくていいぞ」
嘘泣きに同情して譲歩したと思われるのも癪なので、きっぱりと断定してやった。
その後、三人で線香花火を楽しんで、全部使い切ったのを機に、この夜は別れることにした。本来なら、アリスとの別れを惜しむ筈が、アキによって、ムードがぶち壊しになったため、さして辛い思いもせずに別れることになった。
「お義兄さ~ん。また私と離れ離れになっちゃいますけど、落ち込んじゃ駄目ですぜ~」
「アホなことを言ってないで、とっとと寝ろ!」
「でも、楽しかったわよ。また明日ね、爽太君」
最後までこんな調子だった分、一人になると、途端に静かになった。寂しくはないが、辺りが妙にしんと感じる。
「……俺も帰って寝るかな」
欠伸をしながら、体を伸ばしていると、後ろから足音が近付いてくるのが聞こえた。
この足音。聞き覚えがある。別荘を出てから、しばらくつけてきたやつか。鳴りを潜めていたから、尾行を諦めたと思っていたんだけどなあ。
足音の主に警戒しつつ、振り返ろうとしたが、向こうの方が先手を取った。いきなり首に腕を回されて、締め上げられたのだ。
「ぐっ……!?」
慌てて拘束を解こうとしたが、相手は俺を締める力をどんどん強めていったのだった。こ、こいつ。誰だ……?