第二十話 やつを始末した後、静かになった部屋で電話が鳴る
彼女の家で風呂に入ろうとしていた時、リビングから悲鳴が上がった。ゴキブリが発生したらしいのだ。散々探し回っても見つからなかったのに、よりにもよって、このタイミングで出てくるなんて……。
早くアリスの元に駆けつけたいが、まだ不味い。何故なら、今の俺は何も身に付けていない状態。早い話が全裸だ。この姿で駆け付けようものなら、ゴキブリを見た時と同じボリュームの絶叫で迎えられてしまう危険がある。
だから、早くトランクスだけでも履きたかったのだが、アキがドアを開けようとしてきていて、俺はそれを止めるためにドアを抑えねばならず、着替えるのがままならない状態なのだ。
「お姉ちゃんがパニックになっていますよ。早く駆けつけないと!」
「早く駆けつけてほしいのなら、ドアを開けようとする力を緩めろ。お前のせいで、俺はアリスの元に行けないんだからな」
さっきから何度かドアの向こうのアキに言い聞かせていることだ。しかし、力が緩まることはない。このドアはそんなに防音性に優れていないので(アキの声がハッキリと聞こえるくらい)、俺の声が聞こえていない筈がないんだが。
俺がもたついている間にも、ゴキブリが発生したと思われるリビングからは、アリスの悲鳴と助けを呼ぶ声が聞こえてくる。
気持ちばかりが焦る中、俺はある疑念が頭に浮かんだ。
「お前、わざとやっているだろ」
「ばれたか……」
俺が問い詰めると、一瞬の間を置いて、アキはあっさりと白状した。やはりそういうことか。
「だって、お姉ちゃんが泣きわめいている姿、見ていて面白いじゃないですか……」
「お前……」
日頃の恨みを、この機に晴らすってか!? ずいぶんと殊勝な心がけだな、おい。実の妹とは思えん。だが、俺を巻き込むな。俺はアリスを助けに行くのだから。
「それとも、今の姿のままで駆け付けちゃいます? 私が開けるのを防いでいるくらいなんですから、お義兄さん、今すっぽんぽんですよね?」
「ぐっ……!」
全て計算づくで嫌がらせをしてきている訳か。学校の成績はさほど良くないくせに、こういうことにはとことん頭が回るんだな。
「お姉ちゃんから、物を投げつけられるでしょうけど、どうせあと五年もすれば見せることになるんですから、練習と思えば……」
「俺にそうして欲しそうだな?」
ドアの向こうから「てへっ」という笑いが漏れてきた。図星か。
俺は意を決して、開こうとするドアを抑える力を緩めた。いきなり力を緩められたので、アキがよろけながら脱衣所に入ってきた。
「え? え?」
「お前、少し黙れ」
アキの頭を強めにはたいて、バスタオルを巻きつけてやった。ここまで数秒の早業。俺の裸も見られていないよな。
「ちょっと! 周りが見えない!」
アキが両手を突きだして、目の見えない人のようにふらふらとした足取りで動いていたが、助ける気はない。アリスを貶めようとしたことをしっかりと反省するんだな。
ドアは開きっぱなしだったが、人の目が気にならなくなったので、床に転がっていたトランクスを掴むと、急いで履いた。次いで、トランクスだけでは心もとないので、ジーパンも履いた後で、アリスの元に駆けつけることにした。
リビングに行くと、アリスがソファの上で、半狂乱になって怯えていた。その下を黒いあいつが元気よく走り回っている。床には、アリスが投げたと思われる物が散乱していた。その中には、俺が書斎から借りてきた本も含まれている。
「よお……。また会ったな」
もしかしたら、アキの部屋で見かけたやつとは別のやつかもしれないが、一応再会の挨拶をした。どうせ向こうには聞こえてないだろうけどな。
「爽太君!」
アリスは特撮ヒーローを見る子供のような羨望の目を向けてきたが、すぐに顔を赤らめて顔を背けてしまった。俺の裸の上半身を見て、恥ずかしくなってしまったらしい。今時、上半身が裸なだけで、赤面するなんて……と思う人もいるかもしれないが、そんなうぶなところがアリスの長所だと思っている。
とりあえず今はゴキブリを駆除するのが先だと、落ちていた新聞紙を掴むと、さっと丸めて、迎撃準備完了。ここにいるとまずいと察したのか、やつめ。素早く廊下に逃げて行った。でも、残念、逃がす気は全くない。
「お、お義兄さ~ん!」
ゴキブリを追っている途中で、浴室から走ってきたアキと合流した。俺が丹念に撒いてやったバスタオルは、まだ完全にほどけていなかった。よって、彼女の視界は、まだ中途半端に塞がってしまっていたのが、何か笑えた。
「お、俺……。先に行っているから。後からゆっくり追いかけてこいよ……。ププ……!」
「お、お義兄さん!?」
アキが信じられないという声を上げるが、俺にはどうしても込み上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。
結局、最期には爆笑してしまい、アキに怒鳴られながら走っていると、前を逃げるゴキブリは、アキの部屋へと逃げ込んだ。
昼間だったら、物が散乱していて、隠れ場所には困らなかった筈なのにな。掃除をしていたのが功を奏した形だ。
実際、片づいた部屋には隠れる場所が激減していて、物陰に身を隠される前に、持参した新聞紙で叩くことに成功した。
自分的にクリーンヒットしたつもりだったが、生命力だけはずば抜けているみたいで、まだ死んでおらず、弱々しいながらも物陰に向かって動いていた。
害虫だって死ぬのは嫌だしな。まだ息があるのなら、そして、生きたいという欲求があるのなら、俺という脅威から逃げようとする気持ちは分かる。でも、同情はしてあげない。アリスが怖がるから。こっちの勝手な都合だけど、さようなら。
止めとなった一撃は、丸めた新聞紙の角を使って行った。死骸をティッシュで包んで、ごみ箱に捨てる時、自分は残酷なやつだと思った。
ゴキブリの始末が終わったので、リビングで未だに震えているアリスのところに戻り、恐怖が去ったことを告げた。
「ゴキブリ……は、もう倒したよ。だから、もう下りてきて大丈夫」
「本当に?」
俺は黙って頷いた。アリスを落ち着かせるために、笑顔でいることも忘れない。
アリスは伏せていた顔をそっと上げると、恐る恐る聞いてきた。
「ゾンビみたいに復活しない?」
「しない!」
したら手に負えない。というか、そうなったら、アリスみたいに、俺も怯えることにするよ。
「でも、一匹見たら、三十匹はいるっていうし……」
まだアリスを不安に陥れたいアキが余計なことを言ってきたので、強めに叱ってやった。
ソファの上で、体を小さくしているアリスは、どことなく”箱入り娘”という言葉を連想させた。俺が手を引いてやって、アリスは恐る恐る、ゴキブリの居なくなった床に、また足を踏み出したのだった。
こうして、ゴキブリ探しは幕を閉じた訳だが、室内はアリスの投げた物で散乱していた。アリスが恥ずかしそうにしながらも、自分で片付けようとしていたが、もう疲れただろうと、俺が引き受けることにした。アリスはしばらく遠慮していたが、やがて大人しく自分の部屋へと歩いていったのだった。
「私には厳しいのに、お姉ちゃんには優しいんですね」
「可愛げがあるからな」
さっき頭にタオルを巻いたことを根に持っているのか、アキが舌を出して、風呂へと去っていく。そう言えば、結局風呂には入れずじまいだな。……仕方ないか。
どうせ今夜はこの家に泊まるんだし、明日の朝、早起きして貸してもらえればいいかなと、床に散乱している物の片づけを始めると、電話が鳴った。
見ると、電話も床に落ちていた。投げた時の衝撃で、よく壊れなかったなと、変なところに感心しつつも、着信音が鳴り止むのを待った。他人の家の電話に勝手に出るほど、俺は無粋な人間ではない。
着信音が何回か鳴った後、留守電に切り替わった。しばらくすると、電話はうんともすんとも言わなくなる。
そのまま床の掃除を続けて、電話も元の場所に戻そうと手を伸ばした際に、どんな内容の留守電が、この機会の中に記憶されているのか気になったが、勝手に再生するのは憚られたので、そのまま素直に戻した。
同時刻、アリスの家から離れたところで、携帯電話の画面を見ている少女がいた。さっき俺の前に落ちている電話に連絡してきた人物だったりする。
「おかしいな……。いつもはこの時間にパパが出てくれるのに、留守電になっちゃった。勝手にメッセージを残して、他の家族に聞かれるのも嫌だから、切っちゃったけど。晴島爽太の件でお話がしたかったんだけどな~。日を改めて、またかけてみようっと!」
こいつがパパという人物と、どんな関係かは知らないが、俺にちょっかいを出そうとしているのは確かだ。実際、Xやアカリの件で、頭を悩ませている俺の前に乱入してくることになるのだが、それはまた次回に話そう。
思ったより、ゴキブリ退治に手間取ってしまいました。