第百八十五話 どこにでもある街の、ある一つの愛憎劇の終末 前編
自分が、優香のことをどんなに意識していないかを分からせるために、恋人と接している時の心臓がどうなっているかを教えてやることにした。
「ゆうちゃんの場合は、どうなるのかを聞かせてやる。そうすれば全く興味のない相手と接する時との違いに愕然とすることになるだろうな」
俺は視線をゆうちゃんに移すと、彼女は微笑む中にも、複雑そうな顔をしていた。
「爽太君に抱きしめられるのは嬉しいんだけど……」
優香の方をちらちら見ながら、何か言いたそうな視線を送ってくる。ゆうちゃんが言いたいことは、よく分かっている。優香と一緒に抱きしめられるのは嫌なのだろう。気持ちは分かるよ。俺も嫌いなやつと一緒に、ゆうちゃんから抱きしめられると考えた場合、微妙な気持ちになるから。
だが、ここで優香を離すと、俺の心臓が本当に動きを速めたのか、向こうから認識することが出来ない。少しの間で良いから耐えてほしいと懇願すると、ゆうちゃんはしばらく怒りと笑みが微妙にミックスされた顔で、俺を見つめていたが、どうにかOKしてくれた。後で報復じみたことをされそうなのが怖いところ。
「あらあら。いつもは広い爽太君の懐が、今日は狭く感じるわねえ」
文句を言いながらも、ゆうちゃんが開いているスペースに体を入れてきてくれた。
ゆうちゃんと優香。彼女と、ストーカーまがいにつきとってくる女。そんな二人の女子を一斉に抱いている。しかも、俺の心臓の音が聞こえやすいように、
画的にかなりすごいことになっているな。何も知らない人から見れば、俺はかなりのナンパ野郎に見えてしまうに違いない。
ゆうちゃんは、俺の腕が回ると、そっと首筋に吐息をかけてきた。艶めかしい息に、思わずドキリとしてしまう。それまで一定のリズムで鳴っていた心臓の動きが速まっていったのは否定のしようがない。
「……!」
ゆうちゃんの小技に気付いていない優香は、ゆうちゃんが加わっただけで、心臓が活発になっていることに、ただただ驚いていた。こんなものは反則じゃないかと言う人も良そうだが、こういうテクニックも含めて、魅力というものが形成されると、俺は思うのだ。優香のアタックには、こういうところが欠けているのだ。
俺の頬が紅くなりだしたのを確認したゆうちゃんは、体の体制をずらして、自身の髪で、俺の鼻をくすぐった。思わず視線を下に向けると、ちょうど俺の視線の先に、胸の谷間が見えるようになっていた。狙って、これをやれるところが、ゆうちゃんのすごいところ。
「ど、どうだ? もう分かったか? お前にゆうちゃんの代わりは務まらないんだ。ゲームなんかまどろっこしいことをする前から、勝敗は決していたんだよ」
これ以上やられると、興奮しすぎて、どうにかなってしまいそうなので、優香のギブアップを促した。だが、彼女はまだ引き下がろうとしない。
「ふ、ふふふ……。そうかな……?」
動揺を笑いで誤魔化しながら、優香が俺に囁きかけてきた。そう思ったら、顔を近付けてきた。
「このままキスしてあげようか。なんなら、胸を揉んでもいいよ。爽太君だから、特別にOKしてあげる。盛り上がってきたら、最後までいっちゃっても良いよ」
唇が今にも重なりそうなくらいの距離まで詰めてのアピールか。これをもっと早くやっていれば、うっかり鼓動を速めていたかもしれないな。だが、タイミングが遅かったな。
「構わないよ。だが、結果は同じだ。お前は、今以上に惨めなことになるが、それでもいいのか?」
誤解のないように断っておくが、本当に触る気なんかサラサラない。説明なしで優香に抱きついただけでも、ゆうちゃんにかなりの心労を与えているのに、そんなことをしようものなら、卒倒してしまう。
さらに言うなら、色仕掛けで迫ってくるのなら、顔に光る冷や汗をどうにかしないと、雰囲気が出ないぞ。あんなに俺やゆうちゃんを手玉に取っていた優香が、もう見る影もない。
棒読みに近い声で、素っ気なく突っぱねられたせいか、優香の精神は、完全に打ち砕かれてしまった。勝負を諦めたからか、焦りも冷や汗も消えていったが、瞳からも生気が抜けていったように感じた。
「勝負あったな」
まだ続けるか、確認するまでもなかった。うなだれたままで、動かなくなった優香に、そこまでの仕打ちは必要あるまい。
何とか説得が成功すると、俺は大きなため息を漏らしてしまった。女子二人を抱きしめておきながら、ため息というのも、彼女たちに失礼な話ではある。
後から考えてみれば、結構危ない橋を渡っていたんだよな。都合よく心臓の動きが速まってくれたからいいものを、ここでまだ規則正しく鳴っていたら、優香が勢いを盛り返して、ゆうちゃんとの仲にひびが入っていた訳だから。
「……もういいかしら?」
これ以上優香と密着しているのが限界だったらしく、ゆうちゃんが催促してきた。頑張って笑顔で取り繕うとしているが、目が笑っていないところが怖かった。これも後から考えたことだが、彼女の無言の圧力でドキドキした可能性もあった。だが、そんなことを口にしようものなら、何をされるか分からないので、愛の力でドキドキしたということで通している。
俺が抱きしめる力を緩めると、ゆうちゃんは俺から……、というより、優香から離れていった。その際に、「続きは後でね……」と誘われたので、またドキリとしてしまった。この動揺も、優香には聞かれているんだろうな。もう反応してこないけどね。
もう意味がないのに、彼女の前で他の女性を抱きしめているというのもおかしいので、そっと優香を離した。彼女は、まだ俯いている。
「優香を、これからどうしようか……」
激情して襲ってくるようなことはしないと思うが、だからといって、拘束を解くというのもな。このまま放置して帰るのも気が引けるし……。
それでゆうちゃんに意見を求めたんだが、彼女からは、「爽太君の思うようにやればいいわ」というつれないお言葉が。……やはり予告なしで、優香に抱きついたことを怒っているのだろうか。
「心配はしていないわ。抱きしめるほど情を注いだ相手に、冷たく接するような人間じゃないって、お姉さんはよ~く分かっているもの」
あ……。やはり怒っていた。しかも、怒っている筈なのに、顔は満面の笑顔。これは、相当お冠の様子だ。機嫌を直すのに苦労するぞ、これは……。
まさかの延長戦が発生してしまい、嫌な汗が背中を伝ったが、それには目を背けて、改めて優香を見た。
だいぶ精神的に持ち直したのか、ちょっと目をそらしている内に、だいぶ顔色が良くなったように見える。
「俺たち、もう帰るが、お前はどうする?」
「……帰るわよ、もちろん。ここは他人の家だから」
そういえばそうだったな。持ち主が、ずっと玄関で、大の字になって眠りこけていたから、忘れていたよ。
「ただし……。帰るのは、もう一人の私。主人格の方だけどね」
「?」
何を言っているんだ? お前と、もう一人のお前は、一心同体。別々に行動することなんて出来ないじゃないか。などと思ってしまったが、すぐに優香が言わんとしていることが呑み込めた。
「ねえ……、記憶喪失剤はまだ持っている?」
優香は、ここで記憶を消すつもりらしい。多重人格の彼女が、既往を忘れるということは、自身の存在を消すことに他ならない。
「ええ。ここにあるわ」
まるで手品師がバラを出すように滑らかな動きで、ゆうちゃんの右手から、記憶喪失剤が顔を出した。
「これをどうしたいのかしら。あなたに射せばいいの?」
ゆうちゃんだって、優香の意図には気付いているくせに、意地悪な質問をするね。
「そうね。あなたにも負けちゃったし、もう一人の私にも迷惑をかけているようだから、潔く消えることにするわ」
これまで散々しぶとく食い下がってきた割には、あっさりとしていた。また何か企んでいるのではないかとも思ったが、優香の魂が抜けたような顔を見ていると、今回は本気のような気がした。
「反対はしないわ。最後だから、私が直接射してあげるわ。痛みを感じないように、優しく打ってあげる。何か言い残すことがあれば、聞いてあげるわよ」
遺言を聞いてやるとは、ゆうちゃんにしては珍しいな。てっきりすぐに射すかと思ったんだけどね。優香も驚いていたようだが、素直に受け入れた。
「それなら、お言葉に甘えることにしようかしら。言い残すことじゃなくて、お願いなんだけどね……」
俯いていた顔を上げて、優香がまっすぐな目で答えた。言い残すことではなく、お願い……。話がちょっと違うが、ゆうちゃんは、そのまま優香に話させた。
「最後に……、一つだけ、私のわがままを聞いて……」
その視線は、俺を見つめていた。一体、どんなことを要求してくるのだろうか。
残り2回ほどで完結します……。