第百八十二話 君の忘れている過去を、俺たちが思い出させてあげる
これまで俺たちに散々突っかかってきた優香に、もうまとわりつかないように断りを入れるために、記憶を取り戻す薬を、眠っている彼女に投与することにした。
今、優香には、俺たちに突っかかってきた時の記憶が、一切ない状況だ。本当なら、記憶を失っているので、このまま放っておけばいい話なのだが、厄介なことに彼女は自力て記憶を取り戻すことが出来るのだ。俺たちの知らないところで、記憶を取り戻して、不意打ちされるくらいなら、この場で記憶を戻してやって、しっかりと話し合ってしまおうということになったのだ。これは俺の意思で、ゆうちゃんには思い切り反対されたけどな。
動かれると怖いが、話はしたいので、縄はそのままで、猿ぐつわだけ外す。準備完了。後は優香を起こすだけだ。
言い出したのは俺なので、優香に注射針を刺す役も、当然俺ということになった。こういう作業は苦手なので、本当はしたくないんだが、そうも言っていられない。だが、気持ち良さそうに寝ている優香の顔を見ると、罪悪感を抱かずにはいられなくなってしまう。
「悪いな……。本当は、こんな事をしたくないんだが、記憶を取り戻してもらわないと話し合えないだろ。だから、……ごめんな」
意識のない優香に謝ったところで返事はないし、意味もあるとは思えない。ただ、自己満足の贖罪のために、形ばかりの謝罪をしているみたいで、あまりいい気はしないな。それでも、黙って注射針を刺すよりはマシな気がしたのだ。
注射器の針を近付けると、それを拒否するかのように、それまで死んだように眠っていた優香が、短く唸ったのだった。その声に驚いて、近付けていた注射針を、思わず離してしまう。
「あらあら。もう目覚めそうね」
焦る俺とは対照的に、ゆうちゃんは落ち着き払って言い切った。こういう場面では、彼女の方が、肝が据わっているな。
あの夜に意識を失ってから、ずっと眠りっぱなしなのだ。そろそろ自然に起きてもおかしくはない。
あんな声を聞くと、このまま眠らせたままで、注射しづらくなってしまうな。体験したから言えることだが、記憶が戻る時は、かなり頭痛を伴うのだ。
「まず起こしてみない? それで記憶が戻っていたら、無理に注射する必要はないわ」
俺の心境を察したのか、ゆうちゃんが妥協案を出してくれた。俺はすぐに、その案に飛びつく。
注射器を射す作業に比べて、ただ起こすのは非常に気が楽だった。
「お~い。起きろ~!」
俺が呼びかけると、優香は何回か唸った後で、瞳を開けた。起きないみたいなら、頬をペチペチと叩くことも検討していたので、手間が省けた。意識は完全に覚醒していないみたいで、目はトロンとしていて、表情はポワンとなっていた。
「優香……?」
お目覚めのところを申し訳ないが、覚醒を促そうと、そっと囁きかけた。優香は、俺の問いかけに引き付けられるかのように、俺の方を向いた。しばらくそのままぼんやりしていたが、意識が覚醒してくるにつれて、自分を取り巻いている状況の異常性に気付いて慌てだした。
「え? え? どうして私、縛られているの?」
目覚めた優香は、やはり記憶を失っているようで、無害な人格の優香だった。いきなり襲ってこられなかったことにホッとしたが、すぐにこの手で、危険な人格を呼び起こさなければいけないことを思うと、ため息が出そうになる。
「こっちの方は、無害で良い子ねんだけどねえ」
「そうだな。実際に良い子だし、言い寄られたら、グラッとくるかもしれない。……あっ、言い過ぎた。冗談だから、本気にしないで。マジでごめん!」
「ちょっと! 私を放っておいて、勝手に夫婦漫才を始めないでよ! どういうことなのか説明して!」
起きてみたら、意味不明の状況だったことに加えて、自分の存在を忘れられると危惧を抱いた優香が、声を荒げて叫んだ。俺は、ゆうちゃんから視線を外せないながらも、口頭で謝罪した。
「まず私はどうして縛られているの? あと、ここはどこなの? 爽太君たちが誘拐した訳じゃないよね」
無理もないことだが、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。これらの質問に、全て答えているだけで、陽が暮れてしまいそうだ。しかし、正直に説明したところで、この優香は信じてくれないんだろうな。ふざけるなと怒り出すのが、関の山と見たね。
「起こしておいてなんだけど、私たちが話したい方ではなかったわね。爽太君、心苦しいでしょうけど……」
「分かっていますよ」
優香の記憶が戻っていないようなので、当初の予定通りに無理やり戻すしかない。ただ、起こしてから打つというのは、さらに気が重いものだ。こんなことなら、寝ている内にやるんだったと後悔する。
「爽太君……。そろそろ……」
なかなか踏み切れないでいる俺に、ゆうちゃんが、急かす意味を込めて、耳打ちしてきた。俺だって、それは分かっている。だが、無害な方の優香と話していると、どうしても罪悪感が勝ってしまうんだよなあ。
こっちの優香に恨みはなく、心が痛むが、もう一人の優香と話がしたいのだ。ここは俺たちのために、涙を飲んでほしい。
断腸の思いで、再び注射器を取り出す俺を、真っ青になって凝視する優香。彼女の視線は、特に針の先に、一点集中していた。
「あ、あのう!? その注射器は何? 打つの? 私に? 待って。ちょっと待って」
やはり慌てだしたか。そりゃ、仕方がない。まともな人間だったら、怒声を浴びせられても、文句の言えない事態だからな。
「ごめん! 今はそれしか言えない! いや、後々になっても、同じように謝ることしか出来ないが、とにかくごめん!!」
「そんな……。それ、説明になってないよ!? どんな話でも信じるから、ひとまずお話しようよ。……って、私の話を聞いているの? キャアアアアア!!!!」
身動きできないながらも、身をよじって必死に後ずさろうとする優香に、無慈悲な針を突き刺した。すぐに薬の効果が出たのが、彼女の絶叫が室内に響き渡る。
痙攣する優香を見ながら、俺の心はどんよりと沈んだ。
「なんかすごくひどいことをしている気がするな。結局、質問には何一つ答えていないし……」
ここまで優香を連れてきたのは、俺たちではないが、嫌がる彼女に無理やり注射していると、こっちまで悪人になった気分だ。
「爽太君は優しいものね。心が痛むでしょうけど、ここは我慢よ。だって、あの女の性悪な本性が、もうじき顔を覗かせるんだからね」
気後れしそうになる俺を、ゆうちゃんが鼓舞する。薬の効果が現れれば、宿敵とも呼べるもう一人の優香が復活するのだ。しかも、さっき見た限り、優香は薬の効きが早い。俺の時よりも素早く、記憶を取り戻す可能性があったのだ。
予想通り、その瞬間は、もう訪れていた。
大人しくなったかと思うと、優香はおもむろに顔を上げて、値踏みするような目で、俺とゆうちゃんを交互に観察した。
……あの狩る獲物を物色するような目つき。間違いない。俺とゆうちゃんに危害を加えてくる方の優香だ。
宿敵のお出ましに、これからの緊迫した時間を思って、生唾をゴクリと飲み込んだ。