第百七十九話 ブラックジョークで、クリーンヒットを決めてやろう
大男に連れ去られた自分の彼女を救出するために、とあるマンションの一室の前へと足を運んだ。さっき中から、彼女の声がしたので、ここにいることは間違いない。
彼女がここにいることがハッキリすると、自分の彼女を連れ去られたことへの怒りが沸々と湧いてきて、抑えるのが、一時大変になってしまった。
さて、問題はここからだ。
本当なら、窓ガラスかなんかをぶっ壊して、室内へ派手に殴りこんで、盛大に暴れてやりたいところなんだけどな……。だが、騒ぎを起こそうものなら、警察を呼ばれてしまうからなあ。
自分の過激な発想に苦笑いしていると、不意に、ある考えが思い浮かんだ。
ん? 騒ぎを起こすと困る?
それは俺だけではなく、むしろ大男に対しても当てはまるのではなかろうか。というか、ここがやつの家だとしたら、騒ぎを起こされると困るのは、断然やつの方ということになるではないか。
しばらくへの字に結んでいた口が、思わずにやけてしまう。
……深く考えるまでもなかったな。そう思うと、途端に強気になってきた。
どうしてやろうかな……。いかにも悪いことを考えていますよという顔で、大男の根城とも言うべき部屋に目をやった。
「そういえば、アレがあったっけな」
俺は携帯電話を取り出すと、早速いじりだした。
ここまで来られたのは、携帯電話のアプリの力によるところが大きい。それなら、状況の打破にも、携帯電話のアプリに、続けて役立ってもらうのも一興かもしれない。
使おうと思っているのは、ゆうちゃんに強引にダウンロードさせられたアプリの一つだ。ここを突き止めるのに使ったのが、互いの携帯電話の位置を把握するというアプリだったのに対して、これは相手の携帯電話の警告音を勝手に鳴らすことが出来るというものだ。
ハッキリ言って、互いの現在位置を把握するアプリ以上にいらないと思っていた記憶しかない。恋人の身が危険に晒されている時に役立つと言うが、人と話している時にイタズラ目的で使われるだけのブラックジョーク専門のアプリだと思っていた。まさか本当に危険な目に遭っている恋人を救うのに使用する日が来るとは……。世の中、何が起こるのか、全く予測がつかない。
「火事が起きた時の警告音でいいかな。火災報知機が、煙を感知した時に発する警告メッセージだ。あれ、いきなり鳴ると焦るんだよな……」
思わず悪い笑みがこぼれてしまう。不謹慎ながら、心を躍らせながら、アプリを起動させると、間もなく室内から、火事が発生したという虚偽のアナウンスが流れてきた。同時に、大男の甲高い声が聞こえてきた。声には一切の余裕がなく、予想通り、小心者として大いに驚いてくれている。
慌てている。慌てている。中で、半狂乱になって、慌てているぞ。それ……、さらに焦らせてやる……。
俺の携帯電話の方でも、火災報知機の音声を再生してやった。大男が室内で、さらに焦りの色を濃くしているのが、よく聞き取れる。
部屋に女子を連れ込んでいる状態で、救急車なんぞ来た日には、目も当てられないだろう。ゆうちゃんは助かるから、俺はそれでも構わないけどな。
さあ……、この音を止めるために、ドアを開けるんだ。そこを渾身の力で、叩いてやるから。
今頃になって、隣人の方が先に出てきたらどうしようという考えが頭に浮かんだが、ここまで来てしまった以上、後は成り行きに任せるのみだ。さあ、でくの坊。とっととドアを開けやがれ……。
その瞬間はすぐにやってきた。飛び出るような勢いで、大男は、その大きな体を、ドアを開けて覗かせたのだ。
「よお……」
「! お前……!! どうしてここに!?」
そりゃ、驚くだろうね。ドアを開けたら、そこに人がいるんだから。驚愕で目を見開いている大男の顔面に向かって、思い切り鉄拳を食らわしてやった。
不意打ちが、これ以上ないタイミングで決まってくれたおかげで、顔面にクリーンヒットをお見舞いすることに成功した。あまり威力があるとは言えない、俺の一撃に、大男の大きい図体がよろける。
だが、まだノックアウトというには程遠かった。よろけながらも踏み止まり、口元を抑えながら、俺をキッと睨んできた。
「て、てめえ……!」
俺を威嚇してこようとしているのは伝わってくるが、記憶を失っている筈の俺が、突如襲来したことへの狼狽は隠しきれていない。本当なら、すごまれた時に、多少なりとも後ずさるものなのに、ほとんど恐怖心を感じない。これなら俺一人でも押し切れるという自信が湧いてくる。
大男を見ると、一人だった。いくら焦っていたとはいえ、ゆうちゃんを置いて、自分一人だけ助かろうとしていた訳だ。やっぱりお前に、ゆうちゃんは任せられないな。
「お、大人しくチビと付き合えと忠告したのに、のこのこやって来るとはな。そんなに俺に殴られたいのか……?」
怒りの形相で、俺に鋭い視線を向けてくるが、ひとこと言わせてもらえるのなら、殴られる立場にいるのは、お前だろ?
「悪いが、お前には用がないんだ。俺は、自分の彼女を迎えに来ただけだ。いるんだろ? 勝手に連れて帰るから、そこを退けよ」
「……まぐれで一発殴っただけで、ずいぶん態度がでかくなったじゃねえか」
まぐれだろうと、クリーンヒットには違いない。そして、その効果は、お前の震えている足元を見れば明らかだ。俺に、その程度の強がりは通用しない。
「退かないなら、強制的に道を開けてもらう! お前には、こっちの方がお似合いだ!!」
咆哮と共に、再び大男の顔面に一撃をお見舞いしてやった。今度の一発も、クリーンヒットで、しかも会心の一撃だった。
「ぐ……。う……」
情けない声と共に、大男は玄関に倒れこんだ。しばらく様子を見るが、起き上がってくる気配はない。口から泡を出して気絶してしまったのだ。当たり所が、俺にとって、最高のポイントだったらしいね。
「今の顔の方が、よっぽどイケメンに見えるぜ?」
返答する見込みのない大男に向かって、一言浴びせる。さて、勝利の余韻に浸りそうになるが、あまりモタモタしていられない。
倒れた拍子に、廊下に少しはみ出てしまった大男の巨体を乱雑に室内へと引っ張り込むと、すぐにドアを閉めて、鍵をかけた。他人の家だというのに、鍵のかかる音が心地よく聞こえた。
ドアを閉める時にも確認したが、近隣の住人が出てくる気配はなかった。全員が出払ってしまっているのか、それとも、不穏な空気を察して、息を潜めているのか。どちらにせよ、都会の無関心というものを、今ほどありがたく思ったことはないね。
室内に入ってしまえば、もうこっちのものだ。大男が目覚めても、逆襲出来ないように、きつく体を縛ってやった。これなら、指一本くらいしか、まともには動かせまい。男の体をまさぐるというのは、思っていた以上に気持ち悪いものだが、ここは我慢だ。
「しばらくそこで寝ていろよ……」
間抜けな醜態を晒している大男を、放っておいて、囚われのゆうちゃんの元へと急ぐ。
中を物色してみたが、洗濯機や、調理用具といった生活に必要な家具が、あまり見られないことから、別荘的なところではないかと推測した。大男のノミの心臓で、自宅に女子を連行するなど、想像もつかないので、親の別荘という推理が有力と見たね。
もう危険はあらかた取り除いているので、ゆうちゃんの名前を口にしながら、散策する。俺の声は、彼女にも届いたようで、向こうの部屋から、声にならないSOSが聞こえてきた。
声のした方に進むと、部屋の奥で、猿ぐつわと縄で、定番ともいえる拘束のされ方をして動けないでいるゆうちゃんを発見した。よほど不安だったのか、俺の姿を確認すると、今にも泣き出しそうな顔をしていた。いや、目元が既に濡れていたから、もう泣いていたのかもしれないな。
俺は、ゆうちゃんの不安を少しでも和らげようと、意識して柔和な笑顔を作って、声色にも配慮して優しく語りかけた。
「お待たせ。ゆうちゃん!」
余談ですが、去年の今頃、換気扇を回さずに風呂を沸かしていたら、火災報知機が作動してしまったことがあります。素早く機能を停止して、知らんぷりを決め込んだので、音沙汰なしでしたが、あれはビビりますね。