第十七話 恨みはありませんが、あなたのお命を頂戴します 前編
家にゴキブリが出たというので、やつのことが大嫌いなアリスからSOSの連絡が、俺に入った。
慌てて駆けつけた俺たちはたいしたことが発生した訳ではないことに安堵しつつ、ゴキブリ退治を始めることにした。……のだが。
「あ、悪い。俺、急用を思い出したわ」
作業を面倒くさがった木下が、いきなり帰ると言い出した。どうせ急用というのも、出まかせだろう。
木下一人、いてもいなくても同じなので、反対はしなかった。けれども、帰り際に、「頑張れよ!」と肩を叩かれたので、どうやらやつなりにいらない心遣いをしているというのが分かった。
その後、アリスを怖がらせるゴキブリを探して、家中を捜索したが、結局見つかることはなかった。一度、見失うと探し出すのが困難なんだよな、あいつら。
「見つかりませんね~」
「そうだな~」
「で、でもでも! どこかにいるのは間違いないの! 私、見たんだから」
捜索が打ち切られそうな雰囲気を察知したのか、アリスが慌てて話してくる。彼女としては、ゴキブリが放置されて、いつまた姿を現わすか分からない状態が、恐くて仕方がないらしい。心配するな、ハニー。君を怖がらせている黒い悪魔は、俺が逃がしたりしないから。
「そんなに慌てることはないよ。やつが潜んでいそうな場所なら見当はついている」
「あ、成る程。トイレや台所ですね。水場によく潜んでいるって言いますからね」
「違うよ。一つだけ汚部屋があっただろ。雑誌や衣類が散乱していて、廃墟と見間違いそうになる部屋が。そこだけ雑然としていたから、嫌でも目立つんだ。あそこなら隠れる場所が豊富だぞ」
「それ! 私の部屋!」
自分の部屋を汚部屋扱いされたことが気に障ったのか、アキが絶叫する。やはりあそこがアキの部屋だったか。
アリスもさっきアキの部屋を、ゴキブリの潜伏場所の候補に挙げていたくらいだ。ゴキブリの気持ちになって考えれば、どこに潜みたいかなど、一目瞭然だ。
「ちょっと、ちょっと! いくら汚いからって、いたいけな女子高生の部屋に、言い草を告げないでくださいよ! 疑うなら、まずは台所でしょ!」
「そうか? ポテトチップスや、唐揚げの袋が散乱していたぞ。ジュースの飲み残しもあったし、あそこなら衣食住に困らん」
「ぐ……」
講義をしてくるが、痛いところを突かれてしまうと、自覚はあるのか、アキは言葉に詰まっていた。
「じゃあ、行ってみるか」
「ええ」
「う……」
俺とアリスに押し切られてしまい、アキもたじろいでいた。こうして、俺たちはアキの部屋へと移動した。
部屋を見渡すが、やはり汚い。ゴキブリ以外の生物だって潜んでいそうだ。
「ぜ、絶対に私の部屋にはいませんから」
ここまで汚くしておいて、何を強がっているのだろうか。仮にゴキブリがいなくても、掃除は必須だろうに。今のままじゃ、彼氏を家に呼ぶことも出来ないぞ。
「まあ、そういきり立つな。掃除の良い機会だと思えば……」
適当に会話をしながら、アキのものと思われる服を持ち上げた時だった。黒い物体が見ているだけで不快になってくる動きで室内を動き回る。
「キャアアア!!!!」
「ア、アリス!?」
黒い物体が動くのを見たアリスは、絶叫しながら家の中を駆けていった。俺は、その後を慌てて追っていく。ちなみにゴキブリも、瓦礫の中に姿を消してしまっていた。
数分後、キッチンでようやく落ち着いたアリスに、コップ一杯の水を差しだした。
「ほら。これを飲んで落ち着け」
「うん、ありがとう」
水を飲んだことで、アリスは失った自我を取り戻しつつあったが、アキが申し訳なさそうに顔を覗かせると、それまで冷静だったアリスが突如豹変して、掴みかからんばかりの勢いでまくし立てた。
「この馬鹿! やっぱりあなたが原因なんじゃない。おかしいと思ったのよ。私も、お父さんとお母さんも、日常的に清潔を心掛けているのに、ゴキブリが出るなんて!」
「ひいいっ! ごめんなさい」
記憶を失ってから、すっかり気弱になっていたのに、この時ばかりは、以前と変わらない獰猛なアリスに戻っていた。普段は飄々としているアキも、この状態の姉には頭が上がらないらしく、一心不乱に謝っていた。
「と、とりあえずさ。まずはゴキブリの駆除が先だよ。あいつ、あの部屋が相当お気に入りみたいだから、まだいるさ」
久しぶりに見るアリスの剣幕に圧されながらも(あと、若干の懐かしさも含む)、絶叫に割って入った。
俺が駆除を買って出たのが効いてか、アリスはたちまち落ち着いた。
「そ、そうよね。爽太君に駆除してもらえれば、万事解決だもんね」
「そうそう。だから、君が慌てることなんてないよ。ほら、笑って、笑って」
そう言うと、アリスは照れたようにはにかんだ。うん! やっぱりアリスは笑顔が一番。
「ありがとう。私はゴキブリが出るところには行けないから、お礼にお茶菓子を用意して待っているね。柏餅と煎餅、どっちがいい?」
「じゃあ、煎餅で」
ニコリと笑うと、視線をノックダウン寸前のアキに移した。アキは、この場を離れられる好機を得たとばかりに、俺より早く部屋を出ていった。
廊下を歩いていると、助け船を出してきてくれたことを感謝された。何も、アキのためにゴキブリ退治を買って出た訳ではない。愛する彼女のためだ。
「お義兄さん……。恩に着ますぜ」
「この恩は高くつくぞ」
ぶっきらぼうに言いながら、アリスに貸してもらったゴキブリ用のスプレーの使い方を確認した。こんなものを常備しているくらいなんだから、ゴキブリが発生するのは、今回が初めてではないだろう。原因を作っているのは、俺の隣を歩いている人間で間違いあるまい。
改めてアキの部屋に戻ってきたが、やはり汚い。何度来ても慣れることが出来ない。俺も似たような人種だから、耐性は出来ている筈なんだけどな。
「お前……、最後にこの部屋を掃除したのはいつだ?」
「え? どうしたんですかい? 藪から棒に」
「いつだ?」
話をはぐらかそうとするアキに、少々強めに問いただすと、覚えていないと言われた。汚すだけ汚して、放ったらかしか。こいつの性格を具現化したような部屋だな。
「アキ。ゴミ袋を持ってきてもらっていいか。ちょうどいいから、きれいにしてやるよ」
「え~? お義兄さんだって、整理整頓が苦手なのに~?」
アキだって負けていない。こっちの泣き所を的確についてくる。
「俺はやる時にはやる男なんだよ。彼女の妹の部屋を掃除する時とかな!」
「うへえっ!」
決めたぞ。ゴキブリ退治のついでに、こいつの部屋を徹底的にきれいにしてやる。汚部屋に住んでいたこいつが、蕁麻疹を発症させるくらいにな。
その後、アキの部屋の捜索(加えて、大掃除)を終えた俺は、アリスの待つ台所へと戻ってきていた。
「どうだった?」
吉報を期待して駆け寄ってくるアリスに、結果を報告するのは胸が痛んだ。実際、ゴキブリが見つからなかったことを説明すると、彼女の表情をみるみる暗くなっていったからだ。
「でも、アキの部屋はきれいになった」と伝えようとも思ったが止めた。そんなことは、何の慰めにもならない。
その後、台所やトイレなど、ゴキブリが潜んでいそうなところを探し直したが、潜伏のプロでもあるやつを発見するには至らなかった。
そうこうしている内に、時間だけが流れていき、ついに陽が沈む時間になってしまった。
アリスの側を離れるのは口惜しいが、帰ってきた両親と鉢合わせになれば絶対に揉める。後のことは、お義父さんにお任せしよう。選手交代だ。
「アリス。悪いんだけど、俺、もう帰らないと……」
仕方がないとはいえ、アリスを見捨てるような言葉だ。しかし、それを言い終わらない内に、アリスから懇願されてしまった。
「駄目……。今夜は帰らないで……」
「え……?」
記憶を失って以来、控えめになったアリスからのまさかの言葉。これはもしや……、「今夜は帰りたくない」と同じ意味と捉えていいのか!?
取り乱すほどではありませんが、私もゴキちゃんのことは苦手です。