第百七十七話 ここにいない君への、俺なりの別れの言葉
紆余曲折はあったが、どうにかまた記憶を取り戻すことに成功した。
あのまま記憶を取り戻せなかったら、ゆうちゃんが、大男のおもちゃにされていることを悔しいとも思わずに、生活していくことになっていたのか……。
記憶を取り戻せた今だからこそ、ゾッとなるが、記憶喪失の状態だったら、それすらも出来なかった訳だ……。
だからこそ、勝負を捨ててまで、俺に記憶を戻す薬をくれたアリスには、いくら感謝しても足りないものがある。
「最後までアリスには、世話になりっぱなしだな……」
目の前にアリスがいたら、すぐにでも頭を下げてしまいそうだが、生憎と彼女は、俺の前にはいない。さらに言うと、俺のことをもう忘れてしまっているので、会いに行ったとしても、不審な目で見られてしまうだけだ。
自ら記憶を消す直前の、アリスの寂しそうな笑顔が、脳裏から離れてくれない。俺に記憶が戻る薬なんか渡さずに、また付き合いだしてしまえば良かったのに、彼女はそうしなかった。きっと断腸の思いだったに違いない。いっそ愛想を尽かされた方が、よほど気が楽だったろう。
「アリス……。最後までありがとうな……。あと、苦労ばっかりかけて、ごめんな……」
自ら記憶を消す際に、アリスが、俺に向けて言った『さようなら』。それに、答えるように、もう俺から離れて行ってしまった彼女に、俺なりの別れの言葉を呟いた。
交際していた期間こそ短かったが、出来れば、しっかりと別れの挨拶を済ませたかったな。
だが、それが叶わない以上、これで済ませるしかない。言葉を返してくれる者のいない一方通行の別れは、気持ちの整理がつけるには不十分で、虚しいものもあるが、仕方ないだろう。
うっすらと視界がぼやけてしまった目元を拭うと、俺は気持ちを切り替えた。
「ここからは……、ゆうちゃんのことだけを考えていこう……!」
アリスから、自分を選ばないようなら、もう放っておいてほしいと言われている以上、もう彼女のことは考えるのは止めだ。白状と罵られようとも、ゆうちゃんの彼氏として、生きていくことにする。
だから……、すぐにでも、ゆうちゃんを、この手に戻してみせる……!
しかし……、薬のせいとはいえ、ゆうちゃんのことを忘れるなんて……。いや、それ以上に、ゆうちゃんの身が危険に晒されていることすら忘れていたなんて……。
「そういう重要なことを忘れるなよな……。それだけ薬の力が強いのか、それとも、俺が呑気なだけなのか……」
薬の効果が強いに決まっているが、それでも彼女のことを忘れていたことを納得出来るものではない。
さっきアリスのことを思い出して、しんみりしたのとは逆に、自分の不甲斐無さに腹が立った。腹立ち紛れに、顔をぶん殴ろうかとも思ったが、ただ痛いだけなので、それは思い留まった。
「ゆうちゃんを忘れていたことへの懺悔は、彼女を救出してからだな……」
まずは、ゆうちゃんが今どこにいるのかを把握する必要があった。幸いなことに、それを突き止める手段が、俺にはあった。
「虹塚先輩が、自分の携帯電話を持ち続けていれば、向こうの場所は分かるんだよな」
携帯電話を操作しながら、一つのアプリを起動する。友達登録した人の携帯電話の現在位置を表示してくれるというプライバシーの侵害が甚だしいアプリだ。
どうしてこんなものを携帯に入れているのかというと、ゆうちゃんから勧められたのを、断れなかったからだ。
ゆうちゃんが、このアプリをダウンロードした時のことを思い出すな。あの時点では、厄介なものを持たされたと、ひたすらため息をついていたっけ。
「何だ、これ?」
「爽太君がどこにいても、把握出来るようになるという魔法のアプリよ」
時間は一週間ほど前に遡る。俺とゆうちゃんは、いつものように放課後デートを楽しんでいた。
この日は、いつもにこやかなゆうちゃんが、さらに上機嫌で、面白いものを見つけたと、携帯電話を見せてきたのを覚えている。
「知らせてくれるのはありがたいんだが、これって、彼氏に黙って使うものじゃないのか?」
彼氏が浮気をしていないかを極秘でチェックするのが、このアプリの本来の使い道だった気がする。そのためにトラブルも絶えないと聞くが、だからといって、俺にあらかじめ伝えてしまうのは、本末転倒の気がした。いや、本音を言えば、教えてくれて大助かりなんだけどね。
俺の疑問に、ゆうちゃんは無糖のコーヒーを口に運びながら、答えてくれた。
「そういう人たちは、彼氏に黙って使っていたから、騒ぎになったでしょ。ひどい時は別れ話にもなったと言うし、爽太君との間に秘密を持ち込みたくなかったのよ」
「もう説明したから、大丈夫だってことか?」
「そうよ。私の場合は、爽太君にちゃんと説明もしているし、逆に私の位置を、爽太君が知ることも出来るようになっているから、公平だわ」
などと、可愛いことを言われてしまった。だからといって、ゆうちゃんに四六時中現在位置を把握されるのは、あまり気持ちの良いことではなかったがね。
「なあ……。もう少しましなアプリはないのか……?」
すっかり呆れてしまい、つい心の声が出てしまう。それが失敗だと気付くのに、時間はかからなかったが、口から出てしまった後では、もう後の祭りだった。
「それはつまり……、もっとカップル向けのアプリを入れたいということかしら?」
「え? いや、その……」
俺から歩み寄っていると早とちりしたゆうちゃんが、表情をほころばせて、にじり寄ってくる。俺は、どうにか誤解だということを知らせようとしたが、スイッチの入った彼女を止めることなど出来やしない。
早速、あれこれとカップル用の馬鹿アプリをあれこれと紹介されてしまい、対処するのに困ったものだ。
「あの時は、ため息しか出てこなかったんだけどな」
これで、俺は四六時中、ゆうちゃんの管理下に置かれることになってしまうなと、これからの生活を推し量って、重いため息をついたのが、はっきりと思い出される。
「まさかこんなところで役に立つとはね……」
『束縛』の二文字しか思い浮かばなかった、かつての厄介者が、まさかの救世主に変貌している事実に苦笑いしつつも、俺は道中を急いだ。
そのアプリが指示していたのは、ここから少し歩いたところにある高層マンションだった。