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第百七十五話 失っていた記憶は、ジェットコースター級

 自分の記憶を取り戻すことにした俺は、目を閉じて、大きく深呼吸した。そして、効果が定かではない薬へと手を伸ばす。我ながら、馬鹿なことをしているとも思うのだが、大丈夫だという根拠のない自信もあったのだ。


 当たり前のことだが、自分で注射器を打つという体験はあまりないので、おっかなびっくり右腕に射した。中の液体を、慎重に血液中に注ぎ込んでいくと、だんだん効果が表れてきた。


 最初は頭が熱くなってくる程度だったのだが、その次に頭痛が襲ってくると、そこからはジェットコースター級の勢いで、頭が締め付けられるような痛みへと変わっていった。


 ついには耐えられなくなって、その場にうずくまってしまう。ちょうどテーブルに座っている状態だったから、誰も駆け寄ってこないが、これが道端だったら、救急車を呼ばれていたかもしれない。


 こ、こんなに衝撃が襲ってくるなんて、聞いていないぞ……!


 出来れば、使用後は痛みを伴うことも教えてほしかったと、もうここにはいないアリスに恨み言を呟くが、今更仕方のないことだった。


 当初は、彼女のことが思い出せれば、それでいいかなという安直な考えもあったが、それを大きく上回る結果が脳内をほとばしる。


 しばらく痛みに耐えていると、だんだんそれまで忘れていたのが不思議なように、当たり前のように、失った筈の記憶が湧き上がってきたのだった。


 ここ数か月の間に起こったこと。その間に知り合った人間のこと。優香のこと。アリスのことも、その中に含まれていた。あの切ない表情の意味が分かって、素っ気なく接してしまったことを、今更ながら後悔した。


 そして、虹塚先輩のこと……、いや、ゆうちゃんのことも思い出した。


 最後に、あまり良い記憶ではないが、あの夜に体験したことを思い出した。そこで記憶の修復は終了したみたいで、それ以降待っても、新しい記憶が甦ってくることはなかった。


これらのことが、怒涛のように、頭の中に我先にと戻ってきたのだ。イメージとしては、大雨で水かさが一気に増えた河を考えてもらうと分かりやすいだろうか。土石流と化して、川岸に生えていた木々や、粗大ごみの類を伴って、蹂躙していく。あんな感じで、俺の脳内を記憶の大洪水が、暴れ狂ったのだ。


 記憶が一通り戻ると、徐々に落ち着いていったが、何度も体験したいようなことではなない。


「おい、どうした? 大丈夫か!?」


 俺の様子を近くから窺っていた初老の男性が駆け寄ってきた。いくらなんでも、ずっと頭を抑えて、うずくまって苦しんでいれば、不審に見られても仕方がないか。


 とにかく事情を詳しく聞かれても、信じてもらえるような説明は出来ないので、まだ荒い呼吸のままで、もう大丈夫だと強がった。


「し、心配を……、おかけしました……。もう……、大丈夫……、です……」


 こんな途切れ途切れの言葉で大丈夫と言われても、信じる人間はおそらくいないだろう。実際、男性もすんなり引き下がることなく、食い下がってきた。


「大丈夫って……、君、今すごく苦しそうにしていたじゃないか! 今は収まっているかもしれないが、一度しっかり診てもらうべきだ!」


「大丈夫……、ですから……」


 どこの馬の骨かもしれない俺の身を、本気で案じてくれている男性の申し出を、脂汗の浮かんだ笑顔でやんわりと断って、俺は顔を上げた。


 見ると、男性以外の客も、こちらをちらちら見ていた。声をかけてこないまでも、みんな俺の様子を不審がっているようだった。


 そりゃあ、腕に注射器を射して、いきなり悶え始めれば、誰だって奇異の眼差しを向けるよな。最悪の場合、麻薬の類を使用していると思われている危険すらあった。そうなると、通報されない内に、この店を後にした方が賢明かもしれない。


 完全に時既に遅しだが、俺は精いっぱいの作り笑顔で、自分は不審者ではないことをアピールしながら、足早に店を出たのだった。後から思い返してみれば、こういった行動で、さらに不信感を強められていた可能性もある。




「ここまで来れば大丈夫かな……」


 記憶が戻った時の影響で、まだぎこちない足取りながらも、店からそれなりに離れたところで、休憩とばかりに足を止めた。


「もう少しでえらい目に遭っていたかもしれないが、どうにか記憶は取り戻せたな……」


 だが、そこまでして手に入れた記憶には、それなりの価値はあった。


「虹塚先輩を助けに行かないと……」


 俺が森を彷徨っていたのは、道に迷ったからでもなければ、誰かに追われている訳でもない。むしろ、追っている側だったのだ。


 連れ去られた虹塚先輩を助けに向かっていたのだが、その途中で記憶喪失剤が効き始めてしまい、追跡を中断した俺は、アリスに助けを求めた次第だ。一応、アリスも敵なのにな……。しかも、そんな要求に、律儀に従って、本当に助けに来てくれたアリスには頭が下がる。彼女には、いくらお礼を言っても言い足りない。


「また……、アリスと話がしたいな……」


 かつて俺と交際していたアリスが既にいないと実感してくると、寂しさがこみ上げてきた。だが、会う手段はある。


 俺の右手に握られている記憶を戻す方の薬。これをアリスに打てば、また俺に好意を向けてくれていたアリスと再会することが出来る。


 本心では、すぐにでも使いたかったが、生憎と軽はずみに使うことは許されなかった。


 アリスは言っていた。もし、自分のことを選んでくれるようなら、記憶を戻してほしいと……。


 それは、自分を選ばないようなら、このまま俺を忘れたままで、そっとしておいてほしいということでもある。


「ごめん……、アリス……」


 それが、俺の結論だった。


 残念ながら、アリスの記憶を戻すことは考えられなかった。俺がアリスのことを選ぶことはないからだ。


「全部思い出したんだ。俺が今まで失ったままだった記憶も全部……」


 昔、崖から突き落された時に失った記憶も一緒に甦ったのだ。アリスへの想いはあるが、ゆうちゃんへのそれに比べれば、遠く及ばなかった。


「俺はゆうちゃんを迎えに行くよ。だから、アリスのことを選ぶことは出来ないんだ。今まで……、ありがとう……」


 アリスに、決して届くことのない謝罪の言葉を、口にする。目蓋に熱いものがこみ上げてきたが、グッとこらえる。


 俺がアリスを抱きしめることはもうないと断言出来る。それなら、これ以上彼女を苦しめることは不憫でしかない。苦渋の想いで、アリスのことは忘れるのが、彼女に出来る、せめてもの礼儀だろう。


 拳を強く握って、アリスを顧みることを止めると、俺は歩き出していた。足の向く先は、囚われているゆうちゃんのいる場所だ。


 今、迎えに行くから、待ってて……。


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