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第百七十四話 記憶を失う前の俺からの、緊急メッセージ

 さようならを言われて、アリスは自ら記憶を失い、俺の前から去っていった。物理的にも、精神的にも。ただし、俺も記憶を失っているので、彼女を失ったことに対して、特別な感情は湧いてこない。


 置いてけぼりにされた俺は、アリスから渡された記憶が戻るという液体の入った注射器を繁々と見つめた。


 これをアリスのように、自分に注射すれば、状況が呑み込めるようになるのだろうか。


 生唾を飲み込みながら、記憶の戻るという液体を見つめた。次に視線を注射器の針へと移す。これらの単純作業に、たっぷり五分は費やしただろうか。その間、じっくり考えて結論を出した。


「使える訳がないだろ!」


 ここで、勢いに任せて使うほど、俺はノリの良い人間ではない。


 あんなものを見たせいで、気持ちが動揺しているので、とりあえずそれを抑えるのが先決だった。記憶はないが、金は持っていたので、目についたコーヒーショップに入って、サンドイッチとコーラを注文した。


 気持ちを落ち着けるために入ったのだが、サンドイッチを見るなり、空腹に襲われてしまった。席に着くなり、サンドイッチをコーラで腹に流し込むと、すぐに落ち着いてくれた。


 アリスの手のひらを返したような態度の変化には、正直面食らってしまったが、それも冷たいコーラで喉を潤している内に、徐々に落ち着いてきた。


 さて、お腹も気持ちも落ち着いてきたところで、一度状況を整理してみよう。


 俺はアリスから渡された薬をテーブルの上に置いて、じっと見つめた。これを射せば、失われた筈の記憶が戻るんだっけ? 俺は素人なので、アリスの話が本当なのか、調べようもない。


「これを使うのは、やはり止めておくとして……」


 さっきのアリスの変わりようが、どうしても警戒心を呼び起こしてしまうのだ。万が一、使うにしても、最後の手段として取っておきたかった。


 幸いなことに、家の住所は覚えていたので、ひとまず帰宅した上で、ゆっくり記憶を整理するというのも選択肢の一つとしてあった。


「ちょっと待てよ。俺の持っている荷物を調べれば、何かを思い出すんじゃないのか?」


 もしそれで思い出すのだとしたら、こんな胡散臭い液体の力を借りる必要もないのだ。


 そう思い立った俺は、家にまっすぐ帰るのを後回しにして、テーブルの上に、荷物を広げてみた。ちょうど店内に人がまばらだったころもあり、荷物を広げることに抵抗は感じなかった。


「こんなに詰まっていたのか……。しかも、見れば見るほど、山籠もりを前提にした品揃えなんだよな……」


 携帯栄養食に、飲料水、キャンプグッズ……。言葉にすると、たいして時間はかからないが、とにかく量が多かった。詰め込めるだけ詰め込んだという感じだ。あと一つでも、余計な荷物を入れようものなら、リュックからビリッという不吉な音が聞こえてきても、おかしくないものだった。


 何日籠もることになるか分からないので、手当たり次第詰め込んだんだろうが、大部分は消化されることなく、帰りのお荷物になっていると思うと、皮肉なものを感じる。とりあえず飲食物の類は、暇を見つけて消化していくことにしよう。


 ただあまり楽しい山籠もりでなかったことだけは確かだな。事情を知っていそうなアリスと話していても、そんな感じは伝わってきた。


 おまけに気が付いたら、足に怪我まで追っている始末。まさか誰かから追われているのか? 


 笑い飛ばそうにも、自分の血を見てしまっているので、あながち見当外れの気もしない。だいたい普通の人で、特に切羽詰まった理由もなく、山籠もりしようなんていう物好きがそんなにいるとも思えん。少なくとも、俺はそういう類の人間でないと、断言出来る。


 というか、今にして思えば、俺が怪我をしているのに、それを見たアリスが全然驚いていなかったことが不自然に思えた。普通の人だったら、傷の手当てもそこそこに、何があったのかしつこく聞いてくるものじゃないのか?


 アリスも何かを知っていたのか? しかし、詳しく聞いてみようにも、当の本人は、記憶を自分から捨ててしまっている。


 途端に不安が大きくなってきた。馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、本当に追われているような気がしてきたのだ。


 何か記憶を失う前の自分を知る、手がかりになるようなものはないかと、テーブルに広げた荷物を丹念に調べ直す。


 その時、ふと荷物の中に、紙の切れ端が一枚紛れ込んでいるのを見つけた。何気なく手に取って目にすると、その内容にビックリ。


『アリスに連絡を取った。彼女から、記憶を取り戻す薬を受け取ったら、急いで注射しろ。決してためらうな。取り返しのつかないことになるぞ。心愛に危機が迫っている!!』


「何だ、これ……?」


 ちょうどボールペンがあったので、メモの横に適当な文字を書いてみる。メモの字と瓜二つだった。ということは、このメモを書いたのは、俺ということか?


 いや……、正確には、記憶を失う前の俺が書いたメモか……。察するに、アリスに救助の連絡をした後で、記憶を失うまでの短い時間に書きなぐって、荷物の中に紛れ込ませたと思われる。


「どうして俺はこんなメモを残したんだろうか。それに、どことなく焦っているような感じもするぞ?」


 意味不明な内容だったが、気になったのは、心愛という名前だった。


「心愛……」


 メモの最後に書かれていた名前を反芻してみる。不思議だ。口にするだけで、何だが、心が温まるような気がする。この子は、俺にとって、どういう関係だったのだろうか。ひょっとして、彼女……?


 彼女がいることは、アリスも匂わせていたしな……。でも、メモを見ると、心愛という子が危険な目に遭っているというようなことが書かれている。ただし具体的なことは書かれていない。


 それなのに、何だろう……。胸騒ぎがするのだ。次に、一刻も早く記憶を取り戻さないといけない気がしてきた。上手く説明出来ないが、自然に戻るのを待っていたら、取り返しのつかないことになるという、明確な確信があったのだ。


 俺はポケットから、液体入りの注射器を取り出して、じっと見つめた。


 さっきまでは、あんなに胡散臭かった記憶戻しの薬が、打って変わって、万能薬に見えてきた。そればかりか、あんなに打つのをためらっていたのに、今では抵抗をほとんど感じない。打ってみようかという気がしてきたのだ。


「物は試しだ……!」


 アリスは言った。これを射せば、俺の記憶が甦ると。得体の知れない液体を注入することに、恐怖心がない訳ではないが、このまま訳の分からない状態が続くのはごめんだった。


 どうせ記憶喪失の俺に、失うものなんてありはしないのだ。それよりも、失われようとしている何かを思い出すことが重要だ。


 俺は、覚悟を決めて、注射器を手に取ったのだった。


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