第百七十二話 俺の彼女と、アリスからの最後のお願い 前編
観覧車で、束の間の景色を堪能した後、電車を乗り継いで、近くの病院へと移動した。外来が混んでいたので、今日は平日で間違いなさそうだった。
受付をする時に、傷口をちらりと見せたら、応対のナースに驚かれてしまった。その後、あまり待たずに、自分の番が回ってきたところから、彼女が何か根回しをしてくれたらしいね。
しかし、治療のためとはいえ、一度しっかり巻いてもらった包帯を解かれるのは良い気がしなかった。包帯が取り払われて、露わになった傷口を見ると、そのグロさに、思わず目を背けてしまった。そこに消毒液をかけられるものだから、染みてしまって、今度は目を瞑る羽目になった。
「どうだった?」
治療を終えて、ほうぼうの体で、待合室に戻ると、アリスから早速質問攻めをされる。
「どうしてこんな傷を負ったのかって、散々聞かれたよ。こっちは覚えていないって言い張っているのにさ」
「事件に巻き込まれたと思ったんじゃないの? もしくは喧嘩ね。あなたの傷は、かなりひどかったから、医者でなくても興味は持つと思うわ」
「治療も、荒っぽかったよ。いきなり消毒液なんて、ひどいと思わないか?」
「それが普通じゃないの?」
医者と同じくらいに、アリスの態度が素っ気なく見えた。病人だから、優しく扱ってほしいとは言わないが、もう少し温かく迎えてほしかったね。
「でも、厳重だよな。さっきアリスに手当してもらった方が、よほど歩きやすくていいや」
「所詮素人治療よ。動きづらくても、医者に診てもらった方が良いに決まっているわ」
そんなものかな。こっちは日常生活も送らないといけないんだから、動きやすさが全てだと思うんだがね。
「とりあえず良かったんじゃない? 結構血を流していた割には、深刻な怪我じゃなくて」
「そりゃそうだけどさ……」
足が無事なのはホッとしたけど、まだ記憶がな。むしろ、そっちの方こそ大問題の気がするよ。
だが、記憶喪失ばかりはなあ……。病院に行ったところで直してもらえるとは思えないし、時間の経過と共に思い出すのを待つしかないのかなあ。
まあ、いいや。とりあえず今は前向きに行くか。
憂鬱になりそうな気持ちを奮い起こして、アリスの方を向く。
「今回はありがとうな。アリスがいなかったら、たぶんまだ森の中を彷徨っていたよ。世話になっちゃったお礼に、何か奢らせてくれ」
幸いなことに、財布はなくすことなく持っていたのだ。中身も、昼食代くらい出しても大乗なほどの金額が入っていた。
「気持ちだけでいいわ。そんな気分じゃないしね。それに、爽太君って、結構金欠になるじゃない。お金に余裕があっても、節約を心がけるべきだと思うわ」
「そうかな」
俺の好意は、あっさりと拒否されてしまった。下心があると思われたのかな?
「それに私に奢る余裕があるのなら、彼女にでも奢ってあげたら? そっちの方が喜ばれると思うわよ」
「彼女ねえ……」
そりゃあ、奢るなら、彼女だけどさ。俺にそんな高尚な存在がいたのかねえ。ははは! それも全然覚えてないわ!
そんなことを話してみたら、アリスの顔色が見る見るうちに真っ赤になっていった。これは、怒りの感情……! 俺はアリスを怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。
「いたのよ! あなたには。飛び切り可愛い彼女がね!!」
怒ったようにアリスが言い放つ。よく分からんが、彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。だが、その彼女とやらの記憶も、今は失われてしまっている。アリスは、知っているみたいだが、どうにも聞きづらいし。
ていうか、いたんだな、彼女。覚えていないけど。
だが、そう言われて考え直してみると、確かにいた気がする。いや……、今まで話題にも出なかったから、何にも感じなかったが、彼女のことについて考え出した途端に、胸がざわめきだしたぞ?
俺の変化は、アリスにも伝わったらしい。すぐに何事か聞かれたが、彼女という単語で、何かを思い出せるのかもしれないというと、顔つきが変わった。
「彼女について思い出せそうなんだ……」
冷静さを取り繕うとはしているが、アリスの顔には、はっきりと動揺が浮かんでいた。俺の彼女と、浅からぬ因縁でも、あったというのだろうか。
「ちなみに、どれくらい思い出せているの?」
「いや、全然。俺も早く記憶を取り戻したいと思ってはいるんだけどね……」
そこまで話した時に、頭に電流がビリッと流れた気がした。そして、脳内に、俺に向かって微笑む女性のイメージが浮かんだ。何だ? この話題に至っては、やけに思い出すのが順調じゃないか。
「誰……?」
アリスに話すと、食いつくように、その人物について聞かれた。もう質問の仕方が尋常じゃない。
俺はちょっと圧倒されながらも、イメージとして浮かんだ人物像を答えた。
「う~ん、一瞬だったから、上手くは言えないんだが、年上の人かな。可愛いよりは、美人系?」
あと、胸が大きかった気もするが、女の子の前なので、さすがに自重させてもらった。
「それが……、爽太君の思い出した彼女なんだ……」
「いや、まだ彼女と決まった訳じゃないよ。彼女の話になったら、今の女性が脳裏に浮かんだっていうだけで……」
「もういいよ……」
俺の弁明を遮って、アリスは長いため息をついた。
「そう……。それが爽太君の彼女なのね……」
俺からの言葉を噛みしめるように、アリスは吹っ切れたように天を仰いだ。
「全部私とはかけ離れているものばかりね……」
アリスの呟きは、俺の耳には届かなかった。結局、俺はアリスの気持ちを聞くことなく、彼女とお別れの時を迎えることになった。
「爽太君、話があるの」
「話?」
なるべく重い話は止めてほしいと思いながらも、誘われるままに外に出る。病院内でもいいと思ったんだが、人のいないところで話したいというのが、アリスの願いだった。
「え~と……、話って何?」
すれ違う人がいなくなったところで、何となく気まずい雰囲気に耐えることが出来ずに、こっちから話しかけてしまった。だが、アリスからの返事はもう少し待ってほしいというものだった。本人なりに、覚悟のいる話らしい。そういうことなら、無理強いをすることもためらわれるので、黙って歩き続けた。
「ここからは全部私の独り言としてね。聞き流してくれて構わないから。返事もしてくれなくていい。むしろ、しないで」
歩き出してからだいぶ経った頃に、アリスは話し出したのだが、俺には黙っていろという。
「最初はね。爽太君のことは何とも思っていなかったんだ。クラスは同じだけど、すんでいる世界が違うっていうかね。絶対に相容れないだろうなって思っていたの。だから、爽太君から話しかけられた時は、ビックリしたなあ」
俺からの返事は期待することなく、あくまでアリスが一方的に話しているだけの状態だ。彼女が話しているのは、昔俺との間にあったことなんだろうか。
「爽太君のことはさ。最初は、あまり好意的に思っていなかったんだ。むしろ、嫌なやつだと斜めに構えていたわ。それが話し始めた途端に、意気投合しちゃって。面白かったなあ」
どれくらい前のことかを、懐かしそうに、はにかみながら話すアリス。だが、それを告白されても、俺の記憶は何の反応も示さない。
「私が原因で、疎遠になったこともあったね。でも、その後、アキが間を取り持ってくれたおかげで、仲直りして……。あとはもう上手くいくと思ったんだけどなあ……」
アリスが沈痛な表情になった。
それよりも、アリスの話をさっきから聞いていると、俺とかなり親密な仲だったみたいに聞こえる。いや、親密というか、まるでカップル……!
「アリス、お前、まさか!」
「返事はしないでと言った筈よ!」
アリスに呼びかけようとしたが、強い口調で止められた。
「離れる時は……、あっという間……、だったなあ……」
見ると、アリスは涙ぐんでいた。怒ったように俺を睨んでいたが、その中には、諦めの感情も含まれていたのが不思議だった。
「もう……、気持ちは決まったんだから、これ以上揺さぶらないで……」
「気持ちは決まったって……、何をする気なんだ?」
フッと笑みを漏らすと、アリスは、持っていたバックから、注射器を取り出していた。中には、得体の知れない液体も詰まっている。
「サヨナラだよ、爽太君……」
寂しそうな声で、アリスはポツリと呟いていた。