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第百七十話 記憶が崩壊した世界で、観覧車はただ廻る

前話より、少し間が空いています。空白の時間に何があったのかについては、

これからお話していきます。

 夜の森で、優香と激しく戦ってから、どれくらいの時間が流れたのだろうか。陽は高く昇り、時刻は正午を指そうとしていた。


 夜はあんなに不気味だったのに、今は木々の隙間から射してくる木漏れ日が心地いい。その中を、たった一人で、ふらつきながら歩いているのだった。同行者は一切なし。俺を追ってくる者もいない。


 俺に記憶が残っていれば、虹塚先輩や優香のことに、思いを巡らせていただろうが、生憎記憶喪失の俺は、ぼんやりと歩くだけだった。


 ……説明が遅れたが、何を隠そう。俺は記憶喪失になっているのだ。原因は、優香から打たれた記憶喪失剤。あれが全身に回ってしまったのだ。


 幸い自分の名前と、社会的な最低限のルールくらいは覚えていたが、今までの人生で培った大部分の知識は、飛んでしまっていた。


 本当なら、甚大な損害に頭を抱えているところだが、この時の俺は、その程度のことにも考えが及ばないほど、ぼんやりしていたのだった。


「……俺は、ここで何をしていたんだ?」


 こんな森の中を歩いている理由を、いくら考えても思い出せない。改善する見込みのない現状に、視線がつい下の方を向いてしまう。落ち込んだところで、何も変化しないのが、世の中の世知辛いところなのだが、今回は事情が違った。


「何で……、太ももから出血しているんだ?」


 右足の太ももから、血が流れていた。優香から刺された時に出来た傷なのだが、もちろんそのことも忘れている。


「道理で痛い訳だ」


 というか、こんな怪我を負っているのに、よく歩いていたな。しかし、自覚してしまった以上、もう一歩も歩くことが出来ない。いや、無理をすれば歩くことは出来るだろうが、そういうことは良くない。


 休憩も兼ねて、すぐ横にそびえていた木に、背中を預けて、どっかりと座り込む。傷薬はないかと、背負っていたリュックの中身を物色した。しかし、お目当ての物は見つからなかった。


 代わりといっては何だが、ペットボトル入りの飲料水と、黄色い箱に入ったバランス栄養食などは豊富に見つかった。どうして……。俺はこんなに飲食物を持ち歩いているんだろうか……。


 というか、ここで何をしていた? キャンプ? それとも、サバイバル?


 なるほど、状況がだんだん整理出来てきたぞ。うっかり足を踏み外して転落して、足を怪我してしまった。だが、傷薬がないので、応急処置も出来ずに、仕方なく町の病院に向かって歩いている。……辻褄は合うが、なんか違う気がする。


 とりあえずミネラルウォーターを勢いよく飲んで、喉を潤した。栄養食の方は、あまり腹が空いていなかったので、パスした。


「何をしに来たのかは知らないが、絆創膏くらい用意しておけよ……」


 自分の準備の浅はかさにため息をついたが、それで状況が良くなる訳でもなく、途方に暮れることになった。


「携帯で助けを呼ぼうにも、ここがどこだか分からないんじゃなあ……」


 119にかければ、どうにかしてもらえそうな気もするがね。何気なく携帯電話を操作すると、一時間ほど前に電話をしていた。


 電話の相手は、雨宮アリス。内容は……、残念ながら覚えていない。


「雨宮アリスって、誰のことだ……?」


 最近別れたばかりの元カノのことだが、それすらも忘れてしまっていた。だが、幸いなことに、強制的に思い出すことになる。


「私の名前を呼んだ?」


 声がしたので、顔を上げると、そこに小学生くらいの少女が立っていた。今、私の名前がどうとか言っていたことから、この子がアリスなのかと思った。


「その様子だと、私のことを完全に忘れているわね。全く! いきなり電話してきたかと思えば、もうすぐ記憶をなくすですってよ。現在地を無理やり聞き出して、慌てて駆けつけてみれば、本当に忘れているし!」


 どうやら、記憶を失う前の俺が、アリスをここに呼び寄せたらしい。一切覚えていないが、一時間前の俺。ナイス!


「それで? どの辺りまで忘れているの?」


「いやいや、それが分かれば苦労しないって!」


 記憶の大部分が抜け落ちているのは分かるが、どの記憶が抜けているのかなど、説明出来よう筈もない。何せ記憶喪失なのだから!


「……私のことは覚えているの?」


「え~とな、仲の良い友人か?」


 近所に住んでいる小学生かと思ったが、口にすると恐ろしいことになりそうな気がしたので、友人と回答した。


「本当に……、忘れているんだね……」


 無難な答えの筈なのに、アリスは不満のようだ。俺の反応が芳しくないことを目の当たりにして、アリスは悲しそうに目を伏せてしまう。どうにかして取り繕いたかったが、彼女が、どんな答えを期待しているのかが分からず、何も言えずじまいになってしまった。


「あら……。怪我をしているじゃない」


 未だに血が滴っている太ももを見ると、アリスの顔に慈愛と悲しみが浮かんだ。君のことを忘れるようなやつのことなんて、笑ってくれていいのに。


「じっとしていてね。手当をしてあげるから」


「ありがとう……」


 包帯や絆創膏を持参していたアリスが、俺のために傷の手当てをしてくれた。まだ傷口は痛むが、かなりマシになり、これなら歩くことも出来そうだ。


「ねえ……、爽太君一人なの? 他には誰かいないの?」


 手当を終えると、それとなく聞かれたが、そんなものはいない。もし、いたとしたら、どこに行ってしまったのか、俺が聞きたいくらいだ。


「まあ、いいや。ここで話しているのも何だし、駅まで歩こうか。暗くなる前に帰らないとね。山の夜は物騒だから」


「そうだな……」


 上手く思い出せないのだが、山の夜が危険だということは、身に染みて理解していた。


「歩くのがきつくなったら、遠慮なく言ってね。夜までにはだいぶ時間はあるから、余裕はあるのよ」


「ああ、そうするよ」


 足から出血している状態で歩くのは、ちょっと覚悟が必要だったが、包帯の巻き方がしっかりしていたおかげで、格段に歩行が楽になっていた。


 歩くのは楽になったが、気持ちは盛り上がらなかった。何せ、記憶喪失なのだ。程度は分からないが、かなり忘れてしまっている以上、日常生活に影響が出るのは避けられない。これから、身に降りかかる災難を考えると、とても愉快な気分にはなれそうもなかった。


「あ……、観覧車……」


 俺を先導するために、前を歩いているアリスが足を止めた。俺も足を止めて、観覧車を見上げた。


 すごく大きな観覧車だな。遊園地でもないのに、観覧車だけが、ポツンと建てられている。


「爽太君。前に、あの観覧車に、私と一緒に乗ったことを覚えている?」


「! いや……、覚えていないな」


 覚えていなかったので、正直に答えたが、アリスからしばらく返事はなかった。俺の目をじっと見つめて、本当に覚えていないのかを伺っているように思えた。そして、俺の言葉に偽りがないことを確認すると、ため息をついてしまった。どうやら、俺と観覧車に乗ったことは、アリスにとって、かなり重要な意味を持つみたいだ。


「そこまで忘れているんだ……。ま、期待はしていなかったけどね」


 そうは言いつつも、声のトーンが暗い。俺が悪いみたいなので、非難したいんだったら、言ってくれて構わないぞ。


「忘れちゃったものは仕方ないとしてさ。また乗ってみない? そうすれば思い出すかもよ」


「え? いや、遠慮しておくよ」


 女の子の誘いを断るのは気が引けたが、こんなことをしている場合ではない気がするのだ。


「そんなことを言わずに……、乗ろうよ」


 俺の手を引いて、観覧車まで引っ張っていこうとする。そんなに乗りたいのかとも思ったが、観覧車程度に固執するのが妙に気にかかった。


「爽太君はどうでもいいかもしれないけど、私には、積もる話もたくさんあるんだよ」


「それなら観覧車に乗らなくていいんじゃないのか?」


「邪魔の入らない場所で話をしたいの」


 邪魔という単語に、内心でチクリとするものがあった。


「そうと決まったら、早く乗りましょうよ」


「ちょっと待って。何も決まってなんかいないから……」


 反論はしてみたものの、アリスは観覧車まで奪取することで頭がいっぱいみたいで、俺の言葉など聞いてくれない。いや、もしかしたら、聞こえているけど、無視しているだけだったりして。


 だが、この強引に振り回す感じ。以前も体験したことがある気がする。ハッキリと思い出せないのが、こそばゆいな。


 受付まで引っ張っていかれた俺は、成り行きに任せて観覧車代を出そうとしたのだが、自分から誘ったのだからと、アリスが二人分払ってくれた。やれやれ、係員の目には、どういう風に映っただろうね。


 鼻白まれていることを覚悟でちら見したのだが、係員からは、強引な妹に振り回されている気の毒な兄と映ったらしい。目が合った時に、苦労をねぎらうような笑みを漏らされてしまった。勘違いされているようだが、悪いようには捉えられていないみたいなので、ホッと胸を撫で下ろした。


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