第百六十九話 心の中を、消しゴムが駆け巡る
俺が変な仏心を出したばかりに、虹塚先輩ともども、締め上げられる羽目になってしまった。しかも、一分以内に、拘束を解いて、虹塚先輩を助けないと、ゲームに負けてしまう。
ともかく余計なことを考えている暇はない。早急に拘束を解いて、虹塚先輩の元に行かないとな。
あまり格闘技は強くないが、とりあえず力任せに優香を引き剥がすことを試みる。だが、優香の絞め技は、びくともせず、むしろさらに締まった感すらある。
「あははは! 無駄無駄! 動けば動くほど、きつく締まっていくから、気を付けてね……。って、聞いているの?」
くそ! やはり力づくで拘束を解除するのは厳しいか。それなら、攻め方を変えてやるまでだ。
優香に悟られないように、さりげなく右手を開いたり握ったりを繰り返す。腕も完全には動かせないが、多少の自由は効く。……これならいける。
優香に首を絞められているとはいえ、幸運なことに、手の自由は効くのだ。だからこうして、胸ポケットに忍ばせておいた記憶喪失剤入りの注射器を、手に取ることも出来る。
後は、一思いに、優香の腕に、思い切り突き刺してやった。密着しているから、隙さえ見つければ、刺すことには困らなかったよ。
「ぐ……! あ……!」
苦痛な呻き声が、口から洩れる。これは演技ではないな。本当に痛がっている。
「さっきは、かすり傷で済んだかもしれないが、これは致命傷だろ!」
液を直接流し込んでやったのだ。直に、優香の記憶は、クリアになっていくに違いない。
「そ、爽太君!?」
「俺を切りつけてきたんだ……。こうして反撃されることも覚悟していたんだろ?」
そう言ってはみたものの、優香の見開いた目を見る限り、俺が反撃してくる展開は、予想していなかったみたいだ。ははは! 人を見くびるから、こういうことになるんだよ。ざまあ!
しかし、完全に不意を突かれたにも関わらず、優香は愉快そうに微笑んだ。激昂して飛び掛かってくるとばかり思っていたが、むしろ惚れ直しているようにすら感じられた。
「ふ、ふふふ……! 今日の爽太君、とことん小賢しいね。なんか私の知っている爽太君とは別人みたいだよ」
普段の俺がどう思われているかなど知ったこっちゃないが、とりあえず優香なりに褒めてくれてはいるみたいだな。
とにかく最初の記憶喪失剤で、余裕がなくなっているところに、二発目を叩き込んでやったんだ。もはや俺を拘束していられるほどの力は残っていないだろう。
俺は力を込めて、優香を後ろに突き飛ばそうとした。だが、その前によろめきながら、俺から離れた。……俺が思っている以上に、優香は弱っているみたいだな。もう拘束する力も残っていないか。
などと考えていたら、優香が持ち直して、俺に襲いかかってきた。
「行かせない……!」
渾身の力で、優香が思い切り頭を強打してきた。ただでさえ足元がグラついているのに、さらに悪化したね。マグニチュードが一つランクアップしたみたいだ。どうやら一旦拘束を解いたのは、俺に力づくで突き飛ばされるのを回避するためのようだ。おそらく地面に叩きつけられたら、自力で起き上がれないほどに、優香は疲弊している。だからこその苦肉の策なんだろう。
とはいえ、俺だって、このふらついた足腰では、歩くのも覚束ない。だが、弱音を吐くことは出来ない。
「む~~!!」
頭上では、虹塚先輩が、俺に何かを呼びかけてきている。口元を抑えられているせいで、何を言っているのかを聞き取ることは出来ないが、俺に助けを求めてきているのは明らかだ。
いつも俺の助けなど当てにしていない虹塚先輩が、俺に助けを求めている……。すがってきている……。相当追いつめられているんだな……。
仕方がない。ここは彼氏として、どうやっても助けてやらないとな。でも、足元がふらついて……。
動かない足に無理やり力をこめようとしていると、優香が俺に覆いかぶさってきた。その際、右腕に針で刺されたような、チクリとした痛みを感じた。これは、まさか……。
「記憶喪失剤……。ついに、俺にまで使ったか……」
「心配しなくていいよ。後で、ちゃんと記憶を戻してあげるから。ただし、その時には、心愛は別の男の物になっているけどね」
冗談じゃないな。そんな展開だったら、むしろ忘れたままにしてくれっていうんだ。
まだ虹塚先輩の元へ向かおうとする俺を、優香は鼻で笑った。
「無理……は出来ないね。記憶喪失剤を直に射したんだもの。全身を巡るのは、爽太君が思っている以上に早いんだよ……」
「ふざ……、けるな……」
目の前で虹塚先輩が、助けを求めているのに、こんなところで倒れるなんて出来るか……。しかし、優香の言う通り、薬は全身に回ろうとしていた。歩くどころか、立つこともままならなくなり、ほんの少しよろけたのを機に、そのまま仰向けに倒れてしまった。
安っぽい少年漫画では、主人公が気合を入れるだけで、どんな無茶だって通してしまうものだが、俺はというと立ち上がることさえ出来そうにない。
「指……、が辛うじて動くくらいか……。心愛……、目の前にいるのに……」
虹塚先輩が、必死にもがいているのが見える。それを大男がにやけた面で抑えつけていやがる。本当に、目の前なのにな。手を伸ばすだけで届きそうなのに……。
しかも、立ち上がれない俺に、優香が覆いかぶさってきた。止めのつもりか?
「……もうこれで助けに行けないね。私を払いのけて、心愛を助けに行く体力なんて残っていないでしょ。強がらなくていいのよ。私も似たような状況だから、分かるのよね。大人しくここで心愛が他人の物になるのを見てなよ」
「縁起でもないことを言うんじゃねえ……。俺は……、まだ諦めない……」
「本当に……、主人公だねえ……。でも……、私だって……、意地は見せるよ……」
俺も優香も、薬が効いてきているせいで、体の自由がどんどん効かなくなってきた上に、呂律まで回らなくなってきた。ここで意識を失う訳にはいかないというのに、頭の中に靄までかかってくる始末。状況は悪化の一途を辿っていた。
「ほら……、カウントを始めるよ……。十……、九……、八……」
くそ……。ついにカウントを取り出した。あれを言い終わる前に、この難局を打破しないと、俺たちの負けが確定してしまう……。
「七……、六……、五……」
体は動かないのに、カウントダウンだけが順調に進んでいく。万事休すか……。
思わず目を瞑って、天を仰ごうとした時、頬に水滴が落ちた。雨かと思ったが、それにしては、温かい。
一旦閉じた目を開けて確認する。心愛が俺を見ながら、絶望と悲哀に満ちた表情で、ボロボロと大粒の涙を流していた。
ああ、そうか。これは……、心愛の涙か……。
せっかくのきれいな顔が、涙のせいで台無しだ。あんな顔の心愛は見たくないな。あいつは、いつも笑顔でいなければいけないんだ。
朦朧としていた意識が、急速に鮮明になっていくのを感じる。原理は分からないが、一時的とはいえ、薬の効果が弱まっているのかね。
時間的にも、体力的にも、最後のチャンスか。
ここで……。ここで俺が踏んばらなくて、誰がいつ心愛を笑顔にしてやれるっていうんだよおおお!!!!
俺は残っている力を、全て使い切るつもりで、最後の勝負に出た。しかし、無情にも、意識が遠のいていくのだった……。