第百六十八話 物言えぬ君へ、俺でないあいつらが語りかける
ふとした不注意から、優香に背後に回られて、体の自由を奪われることになってしまった。
早速、俺を人質にしようとする優香だったが、事前にこういった状況になっても、構わず特攻してくるようにと、虹塚先輩と打ち合わせをしていた。
てっきり俺を人質にすれば、虹塚先輩は言いなりになると思っていた優香は、当てが外れたようだ。
しかし、絶体絶命の筈の優香は、予想外の事態にも関わらず、やけに落ち着いていた。それが警戒心を、否が応でも高めるのだった。
「まさかここまで強気に出てくるなんてね。まあ、いいわ。予定とちょっと違っちゃったけど、目的は果たせたみたいだしね」
不遜な言葉を吐いたかと思うと、こちらに向かって飛び降りようとしている虹塚先輩を見て、悪いことを考えていそうな笑みを浮かべた。
そんな優香を仕留めようと、虹塚先輩が、この穴に飛び降りてこようとしているが、不意に後ろから抱きあげられてしまった。
「キャッ……!」
後ろから突然襲われてしまい、さすがの虹塚先輩も、小さい悲鳴を上げた。だが、それも、口を塞がれてしまったことで、強制的に止められたのだった。
完全に優香に気を取られていたせいで、背後への警戒がお留守になっていた虹塚先輩は、あっさりと体の自由を奪われてしまったのだった。というか、俺と虹塚先輩の両方が、行動不能になってしまったことになる。これは、かなりまずいことだ。
そうか……! 優香の目的は、虹塚先輩の注意をそらすことだったんだ。そして、力任せに先輩の自由を奪う。まんまとしてやられたよ。冷や汗をかきながら、虹塚先輩を締め上げている人物を確認した。
あいつは……、到着早々にビビって戦力外通告を受けた筈の、役に立たないことしか定評のない大男じゃないか。今まで、ずっと隠れていたのか!
「あいつ……! 気を失っていたんじゃないのか!?」
「あははは! そんなの嘘よ。嘘に決まっているじゃない! だいたい私がビビった程度で、おねんねするのを許すと思っているの?」
全く思わない。本当に気絶していたとしても、冷水を浴びせてでも、叩き起こすだろう。というか、よく考えてみれば、優香に比べれば、幽霊や、夜の森なんて、三時のおやつの前の手洗いみたいなものだ。つまり、カウントするにも値しない微々たる存在ということだ。
「ふ、ふふふ……! これ以上ないほどの最高のタイミングだわ。初めて、あなたと組んで正解だと思ったわよ!」
褒める中にも、微妙に貶すのを忘れない、優香の毒舌に、大男も複雑そうに照れ笑いしている。
「こ、心愛……!」
虹塚先輩を見るが、口元を抑えられた状態で、ガッチリとホールドされてしまっている。体格で勝る大男に、本気で固められては、さすがの虹塚先輩も身動きが取れない。
自分の腕の中で、動きを封じている虹塚先輩に向かって、大男は優しく語りかけたのだった。
「えへへへ……。迎えに来たよ、虹塚さん」
大男なりに、虹塚先輩に微笑みかけているつもりなんだろうが、俺たちからすれば、不快極まりない表情でしかない。虹塚先輩も、顔を背けようと必死だ。
「あらあら~? もうすぐ彼氏になる男に対して、ずいぶん素っ気ないんじゃないの~?」
優香の目には、虹塚先輩の姿が、よほど滑稽に映っているらしい。笑いをこらえながら、からかっている。
「そのままずっと抑え込んでいなさいよ! あんたが結婚出来るかどうかが、ここからの一分間にかかっているんだからね」
「ふん! 当然だ。丁重且つしっかりと抱きかかえてやるよ」
その言葉に、不穏なものを感じたのか、大男に口元をおおわれている状態で、虹塚先輩は盛大に咳き込んだ。くそ……! 人の彼女をなんだと思ってやがる。
「とはいうものの、私もまずいのよね……。さっき食らった記憶喪失剤が、効いてきたみたい……。さて……、どっちが先にくたばるかしらね……」
どっちが先にだって? お前らの方に決まっているだろうが!! ていうか、一応効いてはいるんだな。こいつも、体の構造は人並みということか。
思い切り睨んでやったが、優香は楽しそうに一瞥した後、穴の外にいる虹塚先輩に向かって、語りかけた。
「さて……、あまりモタモタしていられないから、手短に済まさせてもらうわね」
そう言うと、なんとも意地汚い笑みを漏らした。何を企んでいるのかを聞いてやろうとしたが、それを待つまでもなく、優香は話し出していた。
「あなたのお名前は~?」
「これは……」
今回の勝負の勝利条件ではないか。一分以内に、自分のフルネームを言えないようであれば、記憶喪失になっているとみなされて、その人間は敗北になるというものだ。
しかし、虹塚先輩は、まだ記憶喪失剤を打たれていない。よって、記憶も失っている筈がないのだ。自分の名前を言って終わりだ。
また無意味なことをするなと呆れていた時だった。優香が何をしたいのかが分かってしまった。
虹塚先輩は、今大男から口を塞がれて、声を出せない状態だ。これでは、自分の名前を憶えていても、口にすることなど出来そうもない。
「どう? 我ながらグッドアイデアだと思うんだけど」
優香が、この作戦の感想を求めてきたが、なしに決まっているだろ。
「どうもこうも、こんなのアリかよ! 虹塚先輩は、まだ記憶喪失に陥っていないのは明らかだ。早急に解放しろ!」
こんなのは反則だと、強い口調で非難するが、優香は涼しい顔で、俺の話を聞き流している。
「分からないわよ? 後ろから抱きつかれたショックで、記憶を失っているかもしれないじゃない? それを確かめるために、名前を確認しているのよ」
ほとんどいちゃもんだ。だが、そっちがそう来るのなら、こっちにだって言い分はある。
「そ、それなら……! さっき名前を聞かれた時に、お前だって答えていないじゃないか。そっちはどうするんだよ?」
「アレは途中でカウントを止めちゃったでしょ? だから、無効よ!」
「な……。汚い!」
そうは言ったが、カウントを途中で止めさせたのは俺だ。己の迂闊な言動に、心底腹が立つ。
「断っておくけど、私は途中でカウントを中止するなんて、優しいことはしてあげないよ。私がいかに最悪な性格をしているかを知っている爽太君には、説明不要かもしれないけどね!」
言われるまでもない。優香が、俺たちに情けをかけてくれるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
おそらく、俺が泣こうが喚こうが、温情をかけてくれることはないだろう。だとしたら、優香に期待するのは、時間の無駄でしかない。
こうなったら、何が何でも俺がどうにかしないと……!