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第百六十六話 眠れる彼女の意識は、何処へ?

 穴の底に落とした優香に向けて、虹塚先輩が、記憶喪失剤のたっぷり詰まった注射器の山を盛大に放り投げた。直に、辺りにうるさい大音響が鳴り響いたのだった。


 あまりの音に、耳を塞ぐ俺の横で、ご満悦といった様子で、虹塚先輩は穴の中を覗き込んでいた。これから優香を、さらに地の底へと叩き落とすビジョンが、頭の中でイメージされているのだろう。長年の宿敵に引導を渡す瞬間を、心を躍らせて待ち望んでいるという顔だ。


 音が止むと、さっきまでと打って変わって、しんとした静寂が訪れた。直前までうるさかったせいで、よりいっそう静かに感じてしまう。


「優香は……」


 心配している訳ではないが、気にはなったので、そっと様子を伺う。


 優香は、穴の中で、グッタリと俯いて、ピクリとも動かない。


「気絶……、したのか?」


 もちろん、動かないからといって、すぐに駆け寄るほど、俺は馬鹿ではない。様子を見ることは忘れなかった。


「……動かないな」


「ええ。しばらく様子を見ますか」


 よく見ると、優香はところどころから出血していた。注射器のシャワーを浴びせられたのだ。いくら彼女でも無傷という訳にはいかなかったんだろう。手負いの女子を放置するのは、心が痛んだが、相手が優香だというのなら、温情をかけるのは逆効果になる危険もある。今は黙って、様子を見ることにしよう。


「今の内に、もう一回確認しておきけど、傷は負っていないわよね。後になって、実は怪我していましたなんて、嫌よ」


 さっき優香から、ナイフを振り回されて襲われたのだ。この質問は、決して心配のし過ぎにはならないだろう。だが、奇跡的にも、俺は無傷で切り抜けることが出来ていた。


「心配ないよ。見ての通り、ピンピンしている。それに、俺がやせ我慢が下手なことは、心愛もよく知っているだろ? 顔色が青くなっていないというが、大丈夫だっていう何よりもの証拠だ」


「それもそうね」


 ……あっさり納得されてしまった。冗談で言ったつもりはないが、やせ我慢が出来ないことをすんなり納得されるのも、それはそれで複雑なものがあった。


 それから十分間、虹塚先輩と優香の様子を穴の外から観察し続けたが、動きは皆無だった。こうなると、本当に気絶している可能性が浮上してきた。いや、そんなことよりも……。


「これ……、やばいんじゃないのか?」


 不安が言葉となって、ポツリと口から洩れた。


 気絶しているだけならまだしも、ひょっとしてかなりまずい状態なのではないだろうか。たとえば、すぐにでも病院に担ぎ込まなければいけないような……。


 だが、虹塚先輩は、まだ優香が気絶している振りをしているという疑いを捨てていない。


「でも、あれが演技だとしたら……」


「まだそんなことを言っているのか? 本当に危ない状態だったら、どうするんだよ? 下手をしたら、俺たち、警察の厄介になることになるんだぞ!」


「あらあら……。それを言ったら、私はもう、何回警察の身になればいいのかしらね?」


「そういう屁理屈はいいから!」


 アリスを脅迫したり、俺を監禁したりと、いろいろやらかしている虹塚先輩が言うと、冗談に聞こえないが、今はそんなことを言っている場合ではない。


「分かったわ。爽太君がそう言うのなら……。でも、その前に……」


 虹塚先輩は、優香に向き直ると、彼女に呼びかけるように言い放った。


「あなたのお名前は?」


 こんな時に、なんてことを言っているのだろうか。もし、優香が一分以内に、自分の名前を言えなければ、こちらの勝ちだが、気絶している状態ではノーカウントではなかろうか。


「おい……。まさかこれで一分以内に返事がこなかったら、こっちの勝ちとかいうんじゃないだろうな?」


「あら。何か問題でも?」


 不思議そうな顔で、逆に聞き返されてしまった。そりゃあ、ルールで明確に禁止されている訳ではないから、反則ではないけど、倫理的にどうよ?


 どうにも腑に落ちない俺をよそに、虹塚先輩は、自身の時計で時間まで計測している。この人、本気だよ……。


「ほら、こうしている間にも、残り十秒よ。寝たふりは止めて、早く名乗ったらどうなのかしら?」


 そう言って、本当にカウントダウンを始めてしまった。もう完全に、優香が狸根入りをしていると決め込んでいるような行動だ。危険な状態だったら、どうしようという危惧は、まるで感じられない。


 優香なら同じことを平然とやってくるだろうな。だからといって、俺たちもやっていいという訳ではない。


「このやり方で勝っても、優香は絶対にとぼけてくるぞ。勝負は終わらないだろうな」


「そうかしら? あの負けず嫌いのことだから、手っ取り早く本性を露わにしてくると思うわよ」


 駄目だ。話が平行線を進んでいる。強引にでも、主導権を握らないと、また虹塚先輩のペースだ。


「とにかく! 安全確認はするべきだ。心愛がいかないというのなら、俺が行ってくるよ」


 反論は許さないと、強い口調で虹塚先輩に向き合う。先輩も、怒らせると怖い人種なので、結構勇気を振り絞った行為だったりする。


「仕方ないわねえ……」


 俺の本気が伝わったのか、今回は、虹塚先輩の方が折れる形になった。カウントもストップした。いつも俺の方が押し負けるので、これは極めて珍しいケースといえる。


「その代わり、これだけは約束させて。もし、あの女が、私の予想通りに死んだ振りをしていた場合は……」


 俺の耳に、口を寄せて、そっと呟きかける。


「……それは、正直遠慮願いたいな」


「念のためよ」


 クスリとほほ笑んで、虹塚先輩は、俺の頬にキスをした。どうしよう。今回ばかりは、キスをされても、やる気が湧いてこない。


「あと、これね」


 虹塚先輩はニッコリと笑って、俺に縄を渡してきた。いつもながら、こういう道具をどこから出してくるのかね。


「もし、本当に気絶していたのなら、それで身動きを取れなくした上で治療をしましょう」


「……そういうところは、本当に抜け目がないな」


 ちょっと嫌味も込めて言ってやったつもりなのだが、虹塚先輩は、クスリと笑みを返してきただけで通じていないみたいだった。


 こうして、虹塚先輩と、あまり意思疎通が成功しているとは言い難い会話を交わした後、俺は穴の中へと足を向けた。


 さて……。自分から言い出したこととはいえ、あまり良い気がしないな。虎が眠っている檻の中に入っていくような気分だよ。渋る虹塚先輩に、無理を言っているせいで、彼女についてきてもらうことなど頼むことは出来ないしな。


 大きくため息をついて、覚悟を決める。いくか!


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