第百六十三話 セピア色の子供時代、父の影に追われていた頃の話
今回は、爽太と離ればなれになっていた頃の、虹塚先輩の話になります。
「君、誰?」
目を覚ましたあなたが、最初に発した一言だった。
崖下で気を失っているところを発見されてから、ずっと眠り続けていたあなたを看病していた私に向けられたのは、あまりにも無慈悲な言葉だったわ。
あんなに仲の良かった私を、避けるように見る、よそよそしい爽太君の態度は、今思い出して全身が総毛だつわね。
お医者さんは、頭を打ったショックによる記憶喪失だと説明してくれたけど、私に爽太君の回復を待つ時間は残されていなかった。
間もなくお父さんの浮気が発覚して、お母さんに引き取られた私は、爽太君の元を離れることになったからだ。
それからの生活は、芯のない、どこか色彩を失ってしまったような無味乾燥なものだったような気がするわ。もっとも支えが欲しかった時期に、あなたは私の側にいてくれなかったわね。
お父さんからの、慰謝料や養育費の類を、全て突っぱねていたこともあり、お母さんは生活のために身を粉にして働いた。私も、子供ながら、出来る限りのお手伝いをしたつもりだった。
母と娘だけの生活に慣れてきた頃、お母さんの提案で、柔道教室に通わされることになった。慣れてきたといっても、習い事をさせる余裕がないことなど、子供の私でも知っていた。私は痛いのは嫌だと駄々をこねたが、お母さんは聞き入れてくれない。
「心愛も、お母さんもね。どうしようもなく弱いの。せめて自分の大切なものを奪われないくらい強くならないといけないのよ」
これがお母さんの言い分だった。当時、お母さんはお父さんを、私は爽太君を、それぞれ理不尽な理由で奪われてしまっていた。
あの女が家に押しかけてきた時、震えることしか出来なかったことを思い出し、私は言い返すことが出来なくなり、柔道教室に通う羽目になってしまった。
私の通っていた柔道教室は、性別というものに対して、鷹揚だったのか、よく年上の男子とも組み手をさせられた。中には、偶然を装って触ってくる不届き者も少なくなく、教室に行くのが、子供ながらに好きになれなかった。
「心愛ちゃんってさあ。おっぱい大きいよね」
「そう?」
女友達から指摘される機会が増えてきたのも、ちょうどその頃だった。胸が膨らむのに比例して、セクハラも増えていったので、正直勘弁してほしいというのが本音だったけど。
私に異変が起きたのは、ある日の組み手をしている時のことだった。その時の対戦相手は、二学年上の男子だったと記憶している。彼も、私にセクハラをしてくる人間の一人で、この日も故意に寝技に持ち込んで来ようとしていた。
冗談ではないので、必死に抵抗していたが、腹立たしいことに力の差は歴然としている。何かの拍子に、彼の顔が思い切り私に接近してきた。あと少しでキスをしてしまうという距離になった時だった。
上級生の顔が、突如お父さんの顔へと変化したのだった。
「!?」
軽いパニックを起こした私は、恐怖から逃れようと、無我夢中で上級生を背負い投げていた。
「心愛ちゃん、すご~い! 相手は上級生だよ!」
「やる~!」
周囲は無邪気に褒め称えてくれたが、当の私はそれどころではなかった。投げられて呆然としている上級生の顔を、もう一度見たが、そこにはもう、お父さんの顔はなかった。
下級生の女子に負けたのがよほどショックだったのか、その上級生は教室を去っていったが、悪夢は終わってくれなかった。
それからというもの、男子の顔が接近するたびに、お父さんの顔へと変化するのだ。もう見たくもない顔を見させられることで、私の精神が消耗していったことは述べるまでもないだろう。
やがてストレスから、体調を崩すようになり、柔道教室にも、自然に通わなくなっていった。私の様子がおかしいのを察したのか、もうお母さんは、強要してくるようなことはしなかった。
中学に上がった頃、近所に住むお姉ちゃんから、高校生同士のコンパに参加させられたことがあった。まだ中学生だと断ったのに、大人びているから大丈夫だという意味の分からない理屈で押し切られてしまったのだ。
人数合わせで呼ばれたコンパは、イケメンと言われる人たちが大勢来ており、お姉ちゃんは私のことなどそっちのけで言い寄っていたことが、子供ながらに笑えた。
場を白けさせるのが嫌だったので、愛想笑いは続けていたが、全くときめきというものを感じなかった。今にして思えば、お父さんの顔が見えるようになってからというもの、男性というものに対して、距離を置くようになっていたのが大きかったといえるわ。
そのイケメン軍団の一人から、電話番号が書かれたメモを渡された時も、はにかむのが精いっぱいだったわ。モデルもやっているらしいけど、興味がわかないのよね。ちなみに、彼はお姉ちゃんが狙っていた人だったらしく、正直に話したら、翌日から二度と口をきいてくれなくなったわ。
後でその話を、別の友人にしたら、もったいないとしきりに残念がっていたけど、自分が異性に対して、特別な感情を持てないことを薄々感づいていたので、気にも留めなかった。
次第に男性に対して距離を置き始めていた私は、高校は近所の女子高に進学したいという旨を、お母さんに伝えたけど、あっさりと却下された。駄目な理由は言ってくれなかったけど、きっと私の胸の内を見抜いていたんだと思う。おそらく女子高に通っていたら、男性恐怖症をこじらせていた可能性もあるので、結果的には助かったのかしらね。
そんな訳で、偏差値を参考に今の高校に通うことにした訳だけど、私は爽太君との再会を、ずっと待ち望んでいたわ。でも、一方で彼と会っても、何も心に響かないのではないかという危惧も、密かに抱いていた。
しかし、そんなのは、杞憂に過ぎないことが、すぐに証明された。
偶然、同じ高校に入学してきた爽太君を、食堂で見かけた私の胸は、それまでの沈黙を破るかのように、激しく波打ったわ。そして、思い出した。ああ、これが恋だったって。
自分に恋愛感情が、まだ残っていたことを、純粋に喜んだわ。改めて確信したわね。私には、爽太君しかいないんだって。
それからの私は、暴走という言葉がぴったりと当てはまるほど、周りが見えない状態が続いたわ。アリスから爽太君を奪う時も、爽太君に正体を明かして交際を再開させることに成功した時も、ずっと彼のことばかり見ていた。良い言い方をすれば、恋に溺れていたのね。
アリスには悪いけど、夢心地だったわね。もし夢だったとしても、このまま覚めなくても構わないほど、気持ちの良い日々だったわ。
でも、そんな日々も、転機を迎えることになってしまった。あの女が、また爽太君を奪うために立ちはだかったの。
私の出した結論は、彼女と闘うことだった。嬉しいことに、爽太君も、一緒に戦ってくれるって言ってくれたのも心強かったわ。こういう表現は、大袈裟かもしれないけれど、二人で力を合わせれば、何でも出来ると感じたわ。
だから、電気一つない真っ暗闇の中を歩いていても、全然平気だった。爽太君は違ったみたいで、可愛らしい悲鳴を上げて、私に飛びついてきたけどね。
これ以上怖がらせちゃいけないと思って、爽太君には見張りを任せて、私一人でテントを調べることにしたの。思えば、それが間違いだった訳だけどね。
テントに入って少しすると、爽太君が私の名前を呼ぶのが聞こえてきた。何かあったのだと判断して、すぐに爽太君がいた場所に目を向けたのに、彼の姿は忽然と消えていたわ。あの女の仕業だということは、すぐに知ったわね。
胸に去来したのは、爽太君を人質にとられてまずいということではなく、また一人になってしまったという焦燥感だった。
落ち着きなさい……。まだ爽太君が、私の前から離れていった訳じゃないのよ。
爽太君が私を呼ぶ声をしてから、まだ一分と経っていないのよ。いくらあの女でも、遠くに連れ去るのは不可能の筈よ。十分に、後を追うことは出来る。冷静になりなさい、心愛。焦って、初手を間違えないように……。
逸る心を抑えようと、深呼吸しようとした時だった。向こうから、金属と金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。いえ、違うわ。あれは、刃物同士がぶつかる音……。
直感で、爽太君とあの女が、戦っているのだと理解したわ。
もう誰にも、私から大切なものを奪わせたりはしない。それが出来るだけの強さは、手にしている筈よ。右手に記憶喪失剤の詰まった注射器を握ると、私は既に走り出していた……!