第百四十九話 虹塚心愛は、負けた時のことを考えるのを拒否している
『記憶消去デスマッチ』……!
呼び出したアリスと虹塚先輩に、優香がつきつけた恐怖のゲームだ。優香曰く、終わりの見えない俺の彼女の座をめぐる戦いに、終止符を打つための最終戦らしい。
同年代の女子三人にこんなことまで提案させるとは、我ながらろくな彼氏じゃないと思う。最近、出番もないのにな……。
とりあえず今日は大まかな説明だけに留まった。ゲームに参加するかどうかは、後日改めて、聞くことにすると言って、優香は悠然と帰って行った。
「今頃気付いたけど、優香、ルールの説明を全くしていかなかったわね」
「ゲームに参加すると言ったら、伝える気なのよ。この時点で、かなり嫌な予感がするわね」
嫌な予感というのは、無論言い出しっぺの優香に有利なルールの疑いだろう。優香の性格を考えれば、やらない方が不自然なくらいだろう。
「そもそも私だけがやらないと言ったら、どうするつもりなのかしら? 私が、現時点で彼女の座についているのだから、その可能性も高いのよ?」
「辞退なんてさせないって言っていたし、それはさせないんじゃないの? そもそもあなたが参加しないと、このゲーム、成り立たない訳だし」
そうなると、去り際の優香の不敵な笑みが、どうしても気になってしまう。あそこまで自信満々な訳が知りたかった。ついでに、詳細なルールも。
虹塚先輩の目が、大男へと向いた。決して色仕掛けではない。優香といつもつるんでいるので、この中で唯一、『記憶消去デスマッチ』の詳細について知っている可能性があったからだ。もっとも、見るからに口が軽そうなこの男に、詳細を喋るほど、優香もアホではないだろう。
大男本人は、そんなことは露とも知らずに、憧れの虹塚先輩に見つめられていることに、単純に鼻の下を伸ばしていた。おめでたいやつとしか言いようがない。
「あの……。虹塚さん。今の話なんですけど、俺との交際……、少し考えてみて……」
「ゲホッ……!」
大男が話し出したと同時に、虹塚先輩が強く咳き込んだ。それは演技ではなく、本当に苦しそうにしている。何かに対して、強い拒否反応が生じているようだ。
「ああっ!? 虹塚さん? まるで末期の病人のような切迫した咳をっ!」
「心配はいらないわ。あなたがこの場からいなくなれば、瞬時に収まるから」
心配して駆け寄ろうとする大男に、アリスから無慈悲な言葉までかけられた。
「そっ、そんな馬鹿な……」
「嘘だと思うのなら、試してみれば? 百メートルくらい離れて見なさいよ」
半信半疑というより、自分が拒絶されていることを認めたくない大男だったが、遠ざかっていくにつれて、本当に虹塚先輩の咳は収まっていった。
大男は、しばし呆然としていたが、急に歯を食いしばって、駆け出して行った。ただし、ゲームが開始されたら、憧れの虹塚先輩をゲットするために、奮起して戻ってくることだろう。誰も望んでいないし、俺としては、迷惑この上ないので、とっとと行方不明にでもなってほしいのだがね。
「あの男。もう見えなくなったわよ。完全に立ち去ったみたいね」
やつの走り去った方向を眺めながら、ペットボトルの水を虹塚先輩に差し出す。先輩は、アリスの手から受け取ると、ゴクゴクと飲み込んだ。恋敵のアリスからの水を、こんなにあっさりと受け取る辺り、いかに動揺していたかが伺える。
「……今からこの調子だと、負けた時がえらいことになるわね。命に関わるんじゃないの?」
「おだまり」
恐ろしいことをまた想像しそうになった虹塚先輩が、険しい顔で、アリスをけん制した。アリスも他人事ではないので、言い返すこともなく黙っていた。
「それにしても、とんでもないことになっちゃったわね……」
「……」
アリスがぼそりと呟くが、虹塚先輩は険しい顔で黙ったままだ。ただ、時々、アリスを何か言いたそうな目で、ちら見していた。
「あなたが今考えていることが、何となく分かったわ。爽太君の彼女は私なんだから、負け犬は潔くすっこんでいろよ、いちいちしゃしゃり出てくるんじゃねえとか考えているでしょ」
「……この紅茶。美味しいわね、お代わりしようかしら」
「あ~! あからさまに話を逸らした! 絶対に思っているわよ、こいつ。もう頭きた。絶対に、爽太君を奪い返してあげるんだから! もうこうなったら、意地よ。爽太君のことが好きでなくなってもつきまとってやるからね。全ては、あなたの悔しがる様を見るため!!」
「興奮しすぎて、本末転倒になっているわよ。リラックスなさい」
「き~っ! さっきまであなただって動揺していたくせに~。むしろあなたの方が動揺していたくせに~!」
確かに。ここ数分で、動揺している人間と、冷静な人間が、見事に入れ替わっている。当然ながら、落ち着きを取り戻した虹塚先輩に、アリスの喚き声など、聞き流すのに苦ではなかった。
「もし、勝負に負けたら、どっちかがあの大男の彼女にさせられちゃうのよね……。考えただけでも、ゾッとするわ……」
大男と付き合っている自分を想像したのだろう。盛大に身を震わせている。そんなアリスを、虹塚先輩が冷ややかな目で見つめる。
「あなた……。さっき彼の視線の先を見ていなかったの? ずっと私を見ていたじゃない。選ばれるのは、どう考えても私。あなたは、除け者にされて終了というのが関の山ね」
「悪かったわね!!」
罰ゲームの候補にすらならないという事実を突きつけられて、アリスは涙目で激昂した。
「そりゃそうよね! もしあなたが買っても、優香とあの大男をくっつけるつもりなんでしょ? その場合も、私は除け者ですものね! もう最初から、私なんかいれないで、あなたと優香で、最強彼女決定戦でもしていればいいじゃないの!!」
さっき動揺している時に水をもらった恩があるので、今度は虹塚先輩が、冷静さを失ったアリスに、紅茶を差し出した。
「そんなに悲観的になることはないわ。負けなければいいだけのことでしょ。……私はどんな手を使ってでも、負けないけど」
虹塚先輩の口から挑発的な言葉が出ると、アリスも負けじと睨み返す。早くも、熱い火花が飛び散っていた。
「そもそも、どうして勝負を受ける方向で話が進んでいるのかしらね。まだやると決まった訳じゃないのよ」
「やらないの?」
アリスが意外そうな顔で聞き返すのを、虹塚先輩は苦い顔で聞いていた。
「当たり前よ。この勝負、私が得することが何一つないじゃないの。勝っても現状維持、負ければ爽太君を失うなんて、話にならないわ。やる気なんて起きそうにないわ」
「え~と……。私や優香に悩まされることがなくなるとか?」
「どうせ難癖をつけて、付きまとう気でしょ? その手には乗らないわ」
「失礼ね!」と怒鳴ろうとしたところで、アリスは大人しく引っ込んだ。ひょっとしたらやるかもしれないと思い至ったのだ。虹塚先輩も、その微妙な変化を、決して見逃さない。
「今の内に既成事実でも作っておこうかしら」
「……!」
「そうすれば、万が一、記憶を失うことがあっても、爽太君は私のそばにいてくれるでしょうね」
確かにな。俺はゲームのことなど何も知らないし、何の誓約も受けていないので、いきなり虹塚先輩以外の女子が、新しい彼女としてやってきても「はい、そうですか」とはならないだろう。既成事実が成立しているのなら、尚更だ。
「そ、そんなことは……」
「認めないというの? でも、私と爽太君は、交際しているのよ。何もおかしいことはないわ。だから、あなたに文句を言う権利はないの」
「うう……!」
こんなことなら、彼女だった時代に、自分が既成事実を作っておくんだったと悔しがるが、もう後の祭りなのだ。
しかし、虹塚先輩は得意がらない。彼女にとって、アリスを言い負かすことなど、たいして重要なことではないからだ。
彼女の頭が考えているのは、俺だ。
よく考えてみれば、俺を人質にされれば、納得がいかなくても、自分はゲームに参加するしかなくなるということに思い至ったのだ。そう考えると、優香が、簡単な説明だけして、さっさと帰ったのも、不自然な気がしてきた。
まずい……!
虹塚先輩の頭には、既に黄色信号が点灯していた。テーブルを立つと、足早に歩きだしていた。アリスも、当初はきょとんとしていたが、やがてただ事ではない気配を察して、後を追って歩き出していた。
ていうか、ここで、爽太君なら大丈夫と、冗談でも思われないのが悲しい……。
すいませんねえ、一応主人公なのに、何か足手まといみたいで。
この話を途中から読見始めた人の中には、
誰が主人公か分かっていない人も、何人かいるんだろうな~。
次回には出ますので。……たぶん。