第百四十二話 何も知らなかった昔の二人と、いろいろ知ってしまった今の二人
いつの間にか結構良い時間になっている。自分から彼女に帰るように促すのはいかがなものかと思うが、あまり帰りが遅くなると危険な目に遭いやすくなってしまう。そうでなくても、俺の家の近辺は物騒なことになっているのだ。虹塚先輩を家まで送るにしても、早めに済ませてしまいたい。
そういう訳なので、誠に心苦しいながらも、言葉に気を付けて、もう帰るように促した。淡々と語る一方で、結構名残惜しかったりするのだが、それに対する虹塚先輩の返事は、あっさりしたものだった。
「私……。今夜は帰りたくないわ……」
「そっか……」
いつもの俺なら、ただ慌てふためいて、みっともない醜態を晒していただろう。だが、今夜の俺は、妙にあっさりと、虹塚先輩の提案を受け入れてしまった。
「お母さんに怒られるぞ」
虹塚先輩のことだから、友達の家に泊まるとでも言って、誤魔化すことは予想がついたが、ちょっとからかってみた。
「どうかしらね。赤飯を作って待っていてくれるかもしれないわよ」
いやいや、気を利かせてくれたとしても、それはないでしょう。いくら虹塚先輩のお母さんでも、物分かりが良すぎますよ。
「もしそうだったら、残りをおにぎりにして、持ってきてあげるわね」
「その場合は、たくあんと唐揚げも付けて」
手作り弁当目当てに、だんだん虹塚先輩のお母さんが、気を利かせてくれるのを期待してきてしまう。
しかし、交際してから日がたいして経っていないのに、虹塚先輩との距離が、急速に近くなっているな。アリスの場合は、親の目が厳しいこともあってか、なかなか進展しなかったことと対照的だ。
「風呂は勝手に入っていいから」
「後で入ることにするわ。……ぜひ覗いてね」
「そこは覗くなって、釘を刺すところじゃないのか?」
万が一、俺にその気があったら、どっちのセリフを呟かれてもお構いなしで覗くが、一応ツッコませてもらう。
「そのつもりだったんだけど、覗くつもりだったら、釘を刺したところで無駄でしょ? さらに考えてみたら、私たち、交際しているじゃない。加えて婚約までしているとなると、むしろ覗かれるくらいが健全じゃないかっていう結論に至ったの」
「理路整然と、それっぽくまとめたところを悪いが、単純に覗くなと言えばいいと思うぞ」
ちなみに、この夜は最後まで覗かずに通した。あまり露骨に誘われると、却って見たくなくなってしまうらしい。
その夜、夢を見た。舞台は、子供の頃に住んでいた家だ。
そこで、幼い俺が、同じく幼い虹塚先輩とテレビゲームに勤しんでいる。プレイしているのは、格闘ゲームだ。しかも、子供らしく、相手に配慮せずに、本気で先輩のプレイするキャラクターを倒しにかかっている。もう少し手を抜いてやれよという場面も、少なからず見られた。
それでも、険悪な雰囲気にならないのは、虹塚先輩が大人だったからだろう。この頃から、しっかりお姉さんをしているな、先輩は。
対戦は、俺の圧勝で進んだ。そんなに上手かった記憶がないので、きっと虹塚先輩が、負けてくれていたに違いない。
「ねえ、爽太君。浮気って何のことか知ってる?」
何度目かの対戦が終わった後、虹塚先輩が、コントローラを置いて、おもむろに幼い俺に尋ねた。
「知らない!」
首がもげるのではないかという勢いで、左右にぶんぶん振ってやがる。ガキめ。ちゃんとした回答が出来ないにせよ、もうちょっと真剣に考えてやれよ。
「浮気がどうかしたの、ゆうちゃん?」
「え~とね! お母さんがね、最近、浮気ってよく話しているの! それでね。浮気って言う度に、すごく泣きそうにしているの!」
自分の父と母が、他の男女を好きになるという概念がないのか、虹塚先輩も俺も、本気で首を捻っている。
「それはね……。どこか痛いんだよ!」
「痛いんだ!」
何だ、その回答は。頭を使って、捻りだしたのがそれか?
的外れな俺の推理にも、虹塚先輩は本気で表情を明るくした。俺の話を本気にしてくれているらしい。なんて健気な子だ。
「じゃあ、お薬を飲まないといけないね!」
「でも、お薬は苦いよ……」
「大人は平気なの!」
「ふ~ん、そうなんだ」
浮気の問題は、これから深刻なものになっていくが、彼らにしてみれば、これで解決したと思い込んでいるらしい。
「……爽太君もさあ。大人になったら、浮気とかするのかな?」
「う~ん。よく分かんないけど、ゆうちゃんが悲しい顔をするんだったら、やらない!」
「わあ! じゃあ、私もやらない!」
子供ながらに相手のことを思いやった後で、ハイタッチ。この頃は、虹塚先輩も、ハイテンションな性格だったんだな。
「爽太君!」
「うん?」
「大好き!!」
「僕も!!」
こうして、互いの絆を確認し合った後で、おままごとみたいなハグをした。
何とも子供らしい会話だが、仲が良いのだけは、よく分かった。軽はずみに、間に入れないオーラみたいなものまで感じる。
もうすぐ終わりを告げるのが惜しいくらいに、まぶしい関係だね。今後、彼らの行く末を知る俺としては、思わず目を背けたくなってしまうほどだ。
「これまたリアルな夢、だったな……」
リアルすぎて、タイムスリップしたのかと思ってしまった。
しばらく天井を眺めながら呆けていると、隣からすやすやと寝息が聞こえてきた。虹塚先輩は、寝息も静かで助かる。全くの予想なんだが、アキや遊里辺りは、うるさくて寝ていられないレベルだと思うんだよな。
一つのベッドに、虹塚先輩と二人で寝ているのだが、元々一人用の関係で、かなり密着している。そういう状態の中で、先輩は俺の腕を抱きしめるように、寄り添ってきているのだ。否がおうにも、胸の感触が伝わってきている。
あんな夢を見た後でなければ、虹塚先輩が寝ているのを良いことに、良からぬ考えが頭をよぎってしまいそうになる。
今は、虹塚先輩の寝顔でも眺めるに留めよう。うん、紳士的な対応だ。
「ん?」
今気が付いたのだが、虹塚先輩の頬に、涙が流れたような跡が見られる。……寝ている間に泣いていたのか?
「心愛……。泣いていたのか……?」
悲しい夢を見たのかもしれないが、彼女が脇で泣いている横で、彼氏のくせにぐうぐう寝ていたのかと思うと、どうも罪悪感を抱いてしまう。
「……ゆうちゃん」
「なあに?」
何気なく昔のあだ名で呼んだら、寝ていたと思われた虹塚先輩がパチリと目を開けて、返事をしてきた。
「起きていたのかよ」
「ほんの少し前にね。僅差で私の勝ちかしら」
わずかに顔をしかめる俺に、勝ち誇った微笑みを見せながら、虹塚先輩は嬉しそうにしている。
「うふふ……。お馬鹿さん❤」
年上の権限を活用して、俺をからかってきているな。でも、虹塚先輩に言われると、嫌味とかは感じない。ただ頬がほんのりと赤みを帯びてしまう。せめてもの抵抗として、顔をプイと背けるのが関の山だ。虹塚先輩の愉快そうな笑みが、背中に届くが、俺は姿勢を変えるようなことはしなかった。
結局、虹塚先輩の頬に、涙の跡があったことは追及しないままで忘れてしまった。だが、女性にそんなことを聞ける訳もないし、これでいいのかもしれない。
余談だが、この日からしばらく、優香との熾烈な戦いに身を投じることになる。後にして思えば、虹塚先輩が泊まりたいと駄々をこねたのも、幼い日のことを夢に見たのも、これから起こることを予期して、それを前に束の間の幸せを噛みしめていたいという想いからだったのかもしれない。