第百四十話 蘇る記憶、そして再来する悪夢 後編
俺の家に遊びに来ていた優香が、頭を押さえて苦しみだしてしまった。これは一大事と駆け寄るが、心配無用と突っぱねられてしまう。
しかし、気丈に振舞っている優香の額には、脂汗が光っていた。彼女はもう帰ると言っているが、このまま返したら、どこかで倒れそうで怖い。せめて送っていくと申し出たが、それも突っぱねられてしまう。それどころか、冷たい声で叫ばれてしまう始末だ。
その時の声が、俺を自宅監禁したヤンデレの方の優香の声にそっくりだったので、戦慄を覚えて固まってしまった。
「! え、えへへへ! ごめんね」
自分の言動に気付いた優香が、慌てて頭を下げたが、微妙な空気はぬぐえない。
今の声……。あの暴れん坊のヤンデレ優香じゃないか。でも、そっちの方の記憶は、虹塚先輩に消されている筈だぞ。まさか……、記憶が戻ってきている?
横にいる虹塚先輩を見ると、笑顔ではなく、厳しい表情で優香を睨んでいる。
「本当にごめん! 頭が痛くて、気が立っていたみたいなの。決して本意じゃないから、気にしないで!」
優香が必死に謝ってきているが、そんなことは重々承知している。ヤンデレじゃない方の優香は、そんなことをしないと。
「……ちょっと私が目を離している隙に急接近しやがって。……イチャつきやがって」
「え?」
それまで謝っていた優香の口から、また物騒な言葉が出た。だが、言った本人は気付いていないみたいだ。決してとぼけているようにも見えない。
「わ、私、もう帰るから。カレーの入っていた鍋は、ドアの外にでも出しておいてくれれば、後日勝手に回収していくから! ……また来るから。その時は、あんたたちの仲をぶち壊してあげる」
さっきから、優香の声に交じって、物騒な副音声が聞こえてくるな。しかも、そっちの方に、優香本人が気付いていないのだから、始末が悪い。
「早く帰って、安静にするよ……」
うっかり医者に診てもらった方が良いと言いそうになったところで、優香の家が医者だったことを思い出す。「父親と会う」=「医者に診てもらう」ことになる訳だ。危うくしょうもないことを言いそうになったのを、寸前で留まった。
「じゃ、あね……」
ふらついた足取りのままで、優香は家を後にした。
「虹塚先輩、今の……」
ドアノブが閉まったのを確認して、横の虹塚先輩に目を向けると、まだ厳しい表情をしている。事態は、思ったよりよろしくないもののようだ。
「ひょっとして薬の効果が解けてきているんじゃないですか? なんていうか、俺と虹塚先輩への嫉妬の力で」
そんなことがあるのかどうかは分からないが、優香の場合、あってもおかしくはない。根拠はなかったのだが、虹塚先輩も否定はしてこなかった。
「薬の効果には、自信を持っているんだけどね。それをあの女の執念が、上回ったということなの? 記憶を失っているからって、調子に乗っちゃったかしらね」
え~と……、どうなっているのか、まだ把握出来ていないんですが、虹塚先輩でも手に負えない事態かもしれないということでしょうか。この中で最強の先輩が、手の打ちようがないということになると、誰も止めることがいないということになってしまうのでは……?
俺が虹塚先輩と話し込んでいる後ろから、すっかり除け者になっていたアキも、会話に割り込んでくる。ただし、事情を把握していないこいつは、俺と先輩のラブラブぶりに、優香がキレたくらいの認識しかない。それでも、半分は正解なのだが、大事な部分が抜けているのだ。
「いや~、お義兄さんの知り合いは、面白い人が多いですね」
「含みのある物言いだな」
ちなみに、今思いつく中で一番面白い知り合いは、お前なんだがね。優香のことを他人事のように話していることから、自分のことは除外しているんだろう、どうせ。
「でも、狙う女性は選んだ方が良いですよ。今の人、料理は上手ですが、精神的に不安定みたいですからね。全く、常に女性を追っていないと、自分の衝動を抑えられないからといって、何でもかんでもというのはいただけませんぜ」
「おい……。人を世紀の女たらしみたいに言うのは止めろ」
結果的に女性を泣かせることになっているとはいえ、故意でやっている訳ではないのだ。
「こんなお義兄さんが彼氏では、虹塚先輩も、気が休まらないでしょう」
「お前、まだ言うか……」
「そうね……。確かに大変だわ」
「! 虹塚先輩!?」
「元カノのアリスに、爽太君を襲った大男。挙句に、あの女の対処までしないといけないなんて。手が回るか心配だわ」
「そっちですか……」
思わず胸を撫で下ろしそうになるが、この人が口にしたのは犯行予告だ。決して思い通りにやらせてはいけない。出来る限り、俺が決着をつけるようにしなくては!
俺と別れた後、優香は頭痛と闘いながら、帰路を急いでいた。
「頭が……、痛い……」
俺の家から出ると、さらにズキズキと痛むようになった頭を押さえながら、優香がとぼとぼと歩く。足元はかなり覚束なく、今にも倒れてしまいそうだ。俺たちの前で気丈に振舞っていたのは演技だったようだ。
「おいおい! そんな状態の女子を一人で帰らせているのか? ひどいやつだな~、晴島爽太は!」
「……またあなた?」
暗がりから顔を覗かせたのは、俺を昨夜襲った大男だった。自分の登場のせいで、優香の頭痛に、憂鬱が加わったことなど、気付いていない。ちなみに、虹塚先輩に惚れているが、当人から狙われていることにも気付いていない。
「そんなに顔をしかめるなよ。家まで送って行ってやるからよ。……爽太と虹塚さん。家の中で何をしていた?」
「いきなり出てきて、その質問? 本当にデリカシーのない人ね」
悪態をつきながら、無視しようと通り過ぎるが、避けられていることなどお構いなしに大男はついてくる。
「年頃の男と女が、同じ屋根の下にいるんだ。やることをやらないとも限らないからな……」
無視を決め込んでいた優香が、足を止めた。大男の憚ることのない不躾な質問に、心底嫌そうに顔をしかめる。
「私もいるのに、そんなことをする訳がないでしょ。それとも、横に人がいるのに始めちゃうほど、あなたの虹塚先輩は、分別のない人なのかしら」
「それもそうか……」
顎に手を当てて、納得している大男は置き去りにして去ろうとするが、すぐに追いつかれてしまう。ちなみに、虹塚先輩は、二人きりになった後で、やる予定だったようだが、話がややこしくなるので知らない方が良いだろう。
「おいおい! マジでつれねえな~。嫌なことでもあったのか~?」
あなたと顔を合わせていることが、最高に嫌なことよと、舌打ちしそうになっている優香の脳裏に、俺と虹塚先輩が仲良さげに笑っているシーンが浮かんだ。その途端、また優香を頭痛が襲った。というか、痛みがどんどん悪化していた。
「でも、今日はやらなくても、いずれやるんだろうな~。何といっても、カップルだしな~」
「ぐ……!」
大男の一言一句が、悉く優香に突き刺さる。もし、この場でこいつに合わなかったら、家に帰る頃には落ち着いていたかもしれないのに、手を付けられない状態になりつつあった。
「虹塚さん。浮ついた噂は聞かないけどな。燃え上がったら、一直線って、感じがするんだよな。卒業と同時に結婚とか……」
「…………」
結婚という言葉が止めだった。それまで必死に痛みをこらえていた優香が、糸の切れたマリオネットのように、力なくうな垂れる。大男は、自分の話に寄っているのか、そんなあからさまな変化にすら気付いてやれない。
「おい、黙れ……」
「あん? 何か言ったか? 声が小さくて、全然聞こえねえよ」
優香の変化に気付かずに、なめた口調で片方の耳を、優香の口元にわざとらしく寄せる。その行為に、ついに彼女がブチ切れてしまった。
「黙れと言っているのよ……」
大男の頬を、優香の拳がかすめていく。そのまま大男の背後にあるコンクリートの塀を破壊してしまった。豹変ともいえる優香の変化に、体格で勝る大男も唖然としていた。
「お前……」
さっきまでの威勢はどこへやら。口をパクパクさせて、怯えてしまっている。相変わらず体に似合わず、肝っ玉は小さい様だ。
「でも、まあ……。お礼は言うわ。あなたのおかげで、スッキリしたから」
たった今目覚めたばかりのように、両腕を大きく広げて、伸びをする優香。いや、実際、今まで寝ていたようなものなので、案外適切な表現なのかもしれない。
「よ、ようやくお前らしい顔になったな。そっちの方がしっくりくるぜ」
「それはどうも……」
返事はしているが、その眼は大男を見ていなかった。彼女が見据えているのは、俺と虹塚先輩がいる、俺の家だった。
「さて……、今までのお礼も含めてどうしてくれようかしら」
どこか楽しそうに微笑む彼女は、さっきまでの優香とは、別の優香だった。虹塚先輩から、消された筈のヤンデレの方の優香が戻ってきてしまったのだ。