第百三十八話 彼女と幼馴染みの、禁断の鉢合わせ
病院からもらってきた頭痛薬を発見されてしまい、俺は虹塚先輩に、昨夜大男から襲撃されたことを話した。
「そこの玄関のところで、襲われたの?」
「そう! 心愛と別れないと、ひどい目に遭わすぞって言われた」
そのまま言う通りにしていたら、穏便に済んだかもしれないが、大男の上から目線の物言いが気に入らず、強気に出たせいで、病院に行く羽目になったのだ。だが、その行動をとったことは、後悔していない。
虹塚先輩は難しい顔をして話を聞いていたが、説明しながらも、似たようなことが前にもあったことを思い出していた。
確か、アリスも虹塚先輩から似たような脅しを受けていたよな。昨日の俺と同じく、素直に要求を受け入れなかったため、数々の騒動が巻き起こることになったのだがね。当時は、彼女の悩みに無頓着だった訳ではないが、同じ境遇に立たされたことで、理解を深めた気がする。
「私のことが好きなのに、爽太君との仲を力づくで引き離そうとしているのね、その男は」
「まあな」
厳密にいえば、虹塚先輩と交際したいから、彼氏の座についている俺を引きずりおろそうとしたのだろうが、敢えて言わない。言ったところで、虹塚先輩の怒りが引いていくとも思えないし、自分を襲ってきた大男のために口添えする理由もない。
「ま、まあ、気を落ち着けろよ。これでも飲んでさ」
成り行きで付き合い始めたとはいえ、自分の彼女だ。返り討ちにされる心配はないだろうが、それでも、危ない真似は控えてほしかった。
コーヒーを二人分淹れて、一つを虹塚先輩に渡した。口に合ったのか、どんどん飲んでくれたが、期待したほど落ち着いてはくれなかったみたいだ。
「私と別れるように言ったのよね。運命の赤い糸で結ばれている私と爽太君の中を引き離そうとしたのよね……」
まだ言っているよ……。よっぽど頭にきたんだろうな。声のトーンも、どんどん低くなってきているし、そろそろ落ち着いてほしいな。
「ねえ……。一緒に暮らさない?」
「え? え? ええっ!?」
大男のことで気を悪くしていると思ったら、突然の同棲要求だ。急展開についていけずに、声が裏返ってしまう。
「それなら、その大男が、またやってきても、私が追い払ってあげられるわ」
それは虹塚先輩が、俺を守ってくれるということか。逆に守ってやると宣言したばかりだった矢先に言われてしまったよ。
「気持ちはありがたいが、俺、まだ未成年だぞ?」
「問題はないわ。私たち、将来を約束した仲なのよ。どうせその内に同棲を始めると思うけど、今回の件でハッキリしたわ。いえ、元々、うっすらと感じてはいたけど、確信を深めたといった方が正しいかしら」
いやあ~、保護者代わりの俺のおじさんが納得しないでしょ。久しぶりに連絡してきたと思ったら、彼女と同棲したいだろ? 何を言われるか想像したくもないほど、荒れることになるよ?
やんわりと断るのが無難だな。大男に関しては、あの背丈だ。遠くからでも存在が認識出来るし、接近される前に逃げれば回避出来る。それより、おじさんを怒らせる方が、何倍も怖い。
「それだと心愛も一緒に狙われることになるかもしれない。彼氏として、望ましい展開じゃないし……」
「私個人にも危険は増えるけど、こう見えても護身術には長けているのよ。爽太君も知っているでしょ?」
「はい……」
目にも止まらぬ速さで、背負い投げされたことがあります。あれなら、大男だって撃退出来るでしょう……。
あ、これは、最終的に押し切られる展開だ。そして、俺一人で、おじさんにこっぴどく叱られる展開だ。先の展開は読めているのに、回避出来ないもどかしさ。虹塚先輩に、この微妙な気持ちを分かってほしい。
今からでも同棲の準備を始めようと、身を乗り出してくる虹塚先輩を、あいまいな笑みで誤魔化していると、チャイムが鳴った。
せっかくのムードが台無しだと、虹塚先輩は残念そうにため息をついた。失礼ながら、俺はホッとした。
「また来客みたいね」
「新聞の勧誘かもしれないぞ」
ともかく、チャイムが鳴っている以上、出なければならない。
応対のために立ち上がろうとすると、虹塚先輩がトーンの落ちた声で、後ろから囁いてくる。
「自分の彼氏が人気者なのは嬉しいけど、二人きりになりたい私としては、ちょっと複雑な気分だわ」
「まだ来客と決まった訳ではないぞ」
そう言いつつも、思春期の男子に、そんなことを言われてしまったら、思わず赤面してしまう。それを誤魔化すように、訪ねてきたのは、誰なのか考えてみる。
アリス、木下、遊里……。知り合いの顔が一通り浮かんだ後で、昨日の大男の顔がフラッシュバックされたので、慌てて打ち消す。
ははは、まさかね……。そりゃあ、俺をまた襲撃するみたいなことは言っていたけどさ。昨日の、今日では、来ないでしょ。
だが、俺にはトラブルの女神なるものが憑いているらしいからな。玄関ドアの前に、あの大男が立っていても、おかしくはないかも。
俺は苦笑いしながら、玄関へと向かったのだが、その後ろ姿を見ながら、虹塚先輩が意味深に微笑んでいた。
「爽太君が襲撃されちゃったことは予想外だけど、概ね私の目論見通りに、事は進んでいるのよ。本人は自覚しているのかしら。私と話すときの口調がだいぶ砕けたものになってきているのを」
事実として虹塚先輩に対しては、年上ということもあり、以前は敬語で話していたのが、だんだんとタメ口で話すようになってきていたのだ。
その俺は、玄関までやって来たが、ドアを開けるのが、何となくためらわれてしまった。あの大男が立っているかもしれないという想像が、真実味を帯びてしまい、ドアノブにかけた手を回すことが出来ない。
俺が玄関先まで来ているのを相手は知らないのが、チャイムがもう一度鳴った。とりあえずドアスコープから、外の様子を覗いてみよう。狭い円の中に、外の様子が映し出されている。そこに、訪問した人間の顔もあった。
「げっ……、優香……!」
病院で別れた筈の優香が、鍋を抱えてドアの前に立っているのだ。そうか……! 夏野菜のカレーをもらわないで帰ってきたから、気を利かせて、わざわざ持ってきてくれたのか。本人としては、思いやりのつもりなんだろうが、本当の意味で気を遣えていないのが惜しいところだ。
「あら……。優香って、あの優香……?」
そうです。あなたにとっては、アリスと並んで、目の上のたんこぶにあたる優香です。
「思い出すわあ……。幼い爽太君が、記憶を失ったあの日も、家で二人きりのところに、あの女が訪ねてきたのよねえ」
その説明は、以前聞いたことがあります。決して忘れたことはありませんから、ドアを開けづらくなるような言動は控えてください。
「あっ、爽太君。忘れものだよ!」
ドアを開けると、優香の笑顔が目に入ってきた。おすそ分けをお願いしておいて、何も言わずに帰ったのに、気を悪くしている感じは見られない。きっと性格がかなり良いんだろうな。
「もう黙って帰っちゃ駄目だよ。私、爽太君のことを、しばらく探しちゃったんだからね。って、あれ?」
カレーの入った鍋を見せながら、嬉々として話していた優香の目が、俺の後ろにロックオンされた。部屋の奥から、こちらの様子を伺っている虹塚先輩と目が合ったのだ。その際に、笑顔がじゃっかん引きつったのを、俺は見逃さなかった。
「その人は……?」
聞いていいのか探るような目で、おずおずと聞いてきた。彼女だと言うのは、何となく気恥ずかしいが仕方ないかと説明しようとすると、虹塚先輩が自分から自己紹介をしてしまった。
「彼女です」
表情はニッコリだが、どことなく言い放っているような迫力があるな。「この子は、私と付き合っていますが、それが何か?」とか、内心で考えていそうだな。
「え~と……。私……、お邪魔だった? というか、すごく誤解を生むようなことをしちゃっているの!?」
虹塚先輩は、優香のことをよく知っているので、誤解されるような心配はないが、他の人間なら邪推するだろうね。だって、自宅まで手料理を持ってきてくれる同級生女子なんて、そうそういないでしょう。
「わ、私はですね……。爽太君とは、ただの同級生で、本当に、それだけなんです。恋心は皆無で、路上の空き缶程度にも想いを抱いていません」
空き缶!? 石ころですらないの? ていうか、ごみ扱い!? 本心でないことは分かるが、ショックだわ~。
「と、とにかく撤退……、帰りますね。これはいらないなら、隣人にでもあげてください」
捨てるじゃなくて、隣人にあげてか。丹精込めて作った上に、ここまで持ってきたんだもんな。捨てろなんて言えないよな。
「あら。せっかく訪ねてきてくれたのに、すぐに帰るなんて、申し訳ないわ。是非上がって、お茶でも飲んでいってくださいな」
意外な発言に、俺と優香は互いに顔を見合ってしまった。優香は危険な恋敵で、せっかく帰ろうとしているのだから、そのままさようならするとばかり思っていたのに。
虹塚先輩に、「構わないのか?」と目で訴えると、「どうぞ」という顔で頷かれた。
「良いんですか?」
まだ申し訳なさそうにしながら、優香が俺に確認してくる。虹塚先輩が良いと言っているのなら、追い返す理由もないので、OKと気さくに答えた。
自分の行動のせいで修羅場になることがなく、優香はホッとしながら上がってきたが、安心するのはまだ早いよ。虹塚先輩、もしかしたら、良からぬことを企んでいるのかもしれないから。
だが、気のせいだろうか。虹塚先輩が、ちょくちょく俺を睨んでいる気がするのだ。なんか気に障ることでも言ってしまったのか?
その疑問の答えは、すぐに出た。俺が行った病院が、優香の実家だったことを話していなかった。というか、優香に関する話題を軒並み話していなかったのだ。……そりゃあ、気を悪くしますよね。