第百二十七話 どんなことをされようとも、図書室ではお静かに
俺は図書室に来ていた。あまり勉強熱心な学生が、うちの学校に少ないのか、クーラーが完備されているのに、中はガラガラだった。
さっきまでアリスがいただろう場所だ。
俺は科学系の本棚に足を向けると、ある一区画だけに、ぽっかりと隙間が空いていた。きっとアリスがまとめて借りて行ったのだろう。ついでにいうと、オカルト系の棚も、一区画ごっそり隙の空いてある箇所が存在した。
こうして見ると、かなり借りていったんだな。返却期間中に、全部読み切ることが出来るのかなと、馬鹿なことを考えたりしてみる。
アリスは本を読まないという訳ではないが、これほどの読書量ではない。全ては、強力な記憶喪失剤を作り出すこと。
俺のためなのか、それとも、虚仮にされたことへの報復のためなのか。正直、どちらでもいい。問題は、危険なことを始めようとしているアリスを、どうやって止めるかということだった。
「だいたい素人が、薬の改良なんて出来る訳がないだろ……」
詳しくは知らないが、製薬会社の社員だって、薬一つ作り出すのに、たいへんな労苦を強いられているらしいし、高校生がちょっと勉強したくらいじゃ全然足りないだろう。いつものアリスなら、鼻で笑って済ませるところなのに、らしくない。やっぱり俺のせい……。
また自己嫌悪に陥りそうになったところで、一つの疑問が生じた。
虹塚先輩は、どうやって記憶喪失剤を手にしたんだろうか。話によると、効かなくなる薬も持っているみたいだ。
今まで気にも留めていなかったが、一介の女子高生が、手に出来るものじゃないよな。ということは、裏で虹塚先輩に薬を渡している何者かが存在する?
もし、そういうやつがいたとして、俺が聞いたら、教えてくれるだろうか。……いや、無理だな。
虹塚先輩は、その件に関しては、口をつぐんでいるのだ。俺を信用していないというよりは、警戒しているのだ。なんだかんだ言っても、自分の記憶を消されて、アリスの元に戻られるのを恐れているといえる。自分が散々乱用しているせいで、その効果はよく理解しているのだろう。
「なあに、してんの?」
「うおっ!」
いきなり後ろから声をかけられた。考え事に夢中だった俺は、驚いたせいで不覚にも、素っ頓狂な声を出してしまった。
「遊里……」
俺を見ながら、悪戯っぽく笑う。
「アハハハ! 今の爽太君の顔、マジでウケるんだけど!」
驚いた顔がよほどおかしかったのか、遊里は腹を抱えて大笑いした。不意を突かれたこともあり、だんだんイライラしてきた俺の怒りのボルテージは、当然急上昇していった。
「あ、ごめんね。ここまで上手くいくとは思わなかったからさ。気を悪くしないでよ。謝るのが遅かったかもしれないけど」
俺が怒鳴るより先に、遊里は頭を下げてきた。まだ笑いが収まっていないのが、癪に障ったが、誤ってきた相手に怒鳴るのも何なので、引き下がることにした。
「すごいよね。誰がこんなに借りて行ったのかな~?」
俺が見上げていた本棚の隙間を見ながら、遊里が聞いてきた。ただ、この口ぶりは、アリスが借りて行ったことを知っている顔だ。
「今時殊勝な心がけだよね。こんなに本を借りていくなんてさ」
「借りて行った本が問題だけどな。オカルトの類も含まれているじゃないか」
「死んだ人間を生き返らせるつもりだったとしたら、ウケるよねえ」
「そりゃ傑作だな」
遊里と二人で乾いた笑い声を上げる。念のために言っておくが、全く面白いとは思っていない。
一時の間、無意味に笑いあった後に、俺はハッとした。
そういえば、遊里も、俺に散々アタックを仕掛けてきたっけ。
自分で言うのも恥ずかしいが、プールや海では、水着姿で圧し掛かったりしてきたのだ。俺に気があると判断してもいいだろう。
そんな遊里と仲良さそうに話してしまった。
やばいな……。こんなところを虹塚先輩に見られたら……。一緒に海に行った仲だ。遊里が、俺に気があることくらいすでに知っていてもおかしくはない。記憶喪失材は、もう使用しない約束だが、あの人のことだ。見えないところで、こっそり使う可能性も……。
「うっ……!」
念のために、辺りを見回してみると、……いた。
やばい。虹塚先輩だ。まだ俺のことをストーキングしてやがった。
「何をしてんの?」
「い、いや……」
俺の冷や汗の意味など知らない遊里が不思議そうに聞いてきたが、詳細を話す訳にもいかない俺は、ひたすらに曖昧な笑みで誤魔化すしかなかった。
「爽太君はここに何をしに来たの?」
立ち去ろうとする俺に、遊里は尚も話しかけてくる。
「読みたい本をお探しならさ。ついでに探してあげようか? 爽太君がどういう本に興味があるのか知りたいし!」
「ははは……。知ったところで無意味だろ」
「もちろん、一番興味を持っているのは、エロ本だってことは知っているよ」
「俺の話を聞け」
何とか穏便に追い払おうとしているのに、こんな調子でひっきりなしに話しかけてくる。ていうか、今日の遊里は、何気に失礼な言動を連発しているな。そろそろキレてもいい頃じゃないだろうかね。
「コホン……!」
遊里をどうしようかと思っていると、受付で図書委員の先輩が咳払いをしているのが聞こえてきた。見ると、こっちをものすごく睨んでいる。
「……すいませんでした。静かにします」
図書室は静かに利用するという大前提を忘れて騒いでいたのを咎められてしまった。慌てて頭を下げたのが功を奏したのか、追い出されるのは免れた。
遊里はというと、俺から一早く離れて、漫画版の日本史の本を探している振りをしていた。あれだけ寄ってきたくせに、離れるときは、とことん素っ気ないのな。
ともかく、遊里を突き放すことには成功した。先輩の一人からは睨まれることになってしまったが、それはいいや。図書室なんて、滅多に来ない場所だし。
「何をしているんですか?」
遊里の姿が離れて行ったのを確認してから、相変わらず俺を凝視している虹塚先輩に話しかけた。もしかしたら、近づいたら逃げていくのではないかとも思ったが、俺が話しかけるのを待っていてくれた。
「ただの散歩よ」
「ただの散歩なら、いつものように、にっこり笑ってもらえますか?」
虹塚先輩のスマイルが見てみたいと、遠回しに頼んでみたが、ヤンデレの瞳のままで、口角を上げただけだった。すいません、その笑顔、結構怖いです。
「虹塚せ……、心愛。学校では接触してこない約束では?」
「我慢しきれなくなっちゃったの。私、知らず知らずの内に、爽太君依存症にかかっちゃっていたのかもしれないわね」
依存症って……。
「心配ありません。全部、心愛の気のせいです」
「あら。つれない返事……」
虹塚先輩は、頬を膨らませて不満をあらわにしているが、甘やかしてはいけない。ただでさえ、俺は先輩に振りまわっされぱなしなのだ。決めたルールは、しっかり守ってもらわないと。下手に譲歩して、味を占められても困る。
「今、俺に話しかけていた遊里ですけど、記憶を奪うようなことはしないでくださいよ。言い寄ってきているのは認めますが、アプローチを受け入れることはあり得ないので」
「そうね。あの子は、爽太君のことを、異性としてみていないもの」
「……はい?」
どうせ嫉妬丸出しで、言い返してくるんだろうなと思っていたら、素っ気ない返事がきた。ていうか、遊里は、俺のことを何とも思っていない!?
「あの子が爽太君に言い寄っていることは知っているわよ。海でも、抱きついているところを目撃しているわ。本当なら、とっくに記憶を消去してあげているところだけど、私には分かるの。あの子……、あなたのことなんて、道端の石ころ程度にも感じてはいないわ」
「石ころ程度にも!?」
俺に首ったけだと思っていた女子が、実は歯牙にもかけていなかったという衝撃の告白に、俺はまた素っ頓狂な声を上げた。ただし、受付の先輩を気にして、小声だった。
「信じられないのは分かるけど、直に思い知らされるわ」
驚く俺に、補足するように虹塚先輩は、そっと付け加えたのだった。