第百二十二話 二人きりの追加ルールと、真夜中の個人レッスン
アリスと別れて、代わりに虹塚先輩と交際を始めることになった俺は、その日のうちに、先輩の家へと招待された。
お母さんと紹介されたり、夕食をご馳走になったりされたのだが、虹塚先輩の部屋にて二人きりになった時に、妙な雰囲気になってしまった。
情けないことに狼狽してたじろいでしまう俺と対照的に、虹塚先輩は、積極的ににじり寄ってきた。その顔は、俺の可愛い彼女というより、獲物を貪る捕食者を連想させた。
何となく蜘蛛の巣に引っかかってしまい、捕食される蝶が、頭に浮かんだ。彼らもこんな感じで食われていくんだろうか。
途中で邪魔は入ったが、虹塚先輩は、強引にでも既成事実を作ろうとしていた。おそらく俺がアリスのもとに帰らないようにするための予防策なのだろう。ゲームに勝ったとはいえ、半ば強制的に別れさせた分、不安が拭えないと見たね。完全に、俺の心を、自分に移すまで、安心出来ないのだろう。
虹塚先輩の熱のこもったアタックを、上手い具合にいなして、どうにかこの日は、退散することに成功した。
虹塚先輩は、律儀にも招待したんだからと家まで送ってくれると言ってくれたが、やんわりと断った。
結局、代案として、途中まで送ってもらうことで、話はついたのだった。
暗い夜道を虹塚先輩と二人で歩く。危ないから、俺の方に寄って来るように注意しようかとも思ったが、相手は先輩。俺が口を開くよりも早く、俺にすり寄ってきた。しかも、自身の豊満な胸を押し当ててきたので、俺の方が危ない状態に陥ってしまっている。
ただでさえ、虹塚先輩の家で迫られた件で消化不良になっているのだ。これ以上、誘惑されたら、自制心を保つ自信がない。
「あの、虹塚先輩……」
少し離れてもらおうと、抱きついている虹塚先輩の名前を呼ぶと、不機嫌な声が返ってきた。
「ねえ、爽太君。その虹塚先輩という呼び方は、どうにかならないの?」
「え?」
「だって……、私たち、付き合っているのよ? その呼び方だと、よそよそしく聞こえて嫌だわ……」
言われてみれば、自分の彼女の呼び方としては不適切だな。ここまで怒涛の展開だったから、そこまで気が回らなかった。それなら虹塚さんとか? ……よりいっそうよそよそしく聞こえてしまうな。
「心愛って、呼んでほしいの……」
下の名前で呼んでほしいとリクエストされてしまった。本来なら、思わずはにかんでしまうところだな。だが、相手は先輩……。
「二人の時はいいですけど、学校で下の名前を呼び捨てで言うのは……」
名前で呼び合っているところを、知り合いに見られたら、絶対にからかわれる。いや、そんなことはどうでもいい。俺が恐れているのは、他の先輩に見られてしまうことだ。同級生や後輩なら、上手くいなしてやる自信があるが、先輩相手だと、どうにも分が悪い。
虹塚先輩と相談した結果、二人きりでいる時だけ、心愛と呼ぶことになった。周りに知り合いがいる時は、今まで通り虹塚先輩で。
「これで問題ないわね?」
「はい。しばらくは混同しそうですが、それでいきましょう、虹塚先輩。……あっ!」
しまった。たった今、決めたばかりなのに、いきなり間違えてしまった。恐る恐る虹塚先輩の顔を見ると、悪戯っ子を見守る母親のような目で、俺を見ていた。幸いなことに、気を悪くしていないようで、ホッとした。
「練習が必要みたいね」
「……ですね」
ちょうど二人きりだったこともあり、暗い夜道を歩きながらの、虹塚先輩の呼び方のレッスンが開始された。
何が面白いのか、それとも練習とはいえ、俺に名前で呼んでもらえるのが嬉しいのか、虹塚先輩は何度も自分の名前を呼ばせた。いい歳をした男女が、変わった話題で話しているというのに、すれ違った通行人から変な目で見られることは幸いなかった。
「じゃあ、もう一回ね。「心愛、セック……」」
「人が来ますよ!」
実際、俺が虹塚先輩を黙らせた直後に、主婦らしき年配の女性が自転車が通り過ぎて行ったので、俺の心配は、杞憂などではない。
「あの! こんな道のど真ん中で物騒な言葉を吐かせないでくださいね? おまわりさんに見つかったら、男の俺の方が厳しく叱られることになるんですから」
熱中してきた成果、変な方向に向いてきてしまった。そろそろ練習の時間は終わりにした方がいいな。というか、もう俺の家はすぐそこだ。途中までという約束なのに、結局丸々遅らせることになってしまったな。
「大丈夫よ。もし、おまわりさんに話しかけられるようなことがあっても、これを使えば……」
ニッコリ笑って、虹塚先輩が取り出したのは、先輩愛用の注射器だった。
「そういう物騒なものは、今後使用を控えてください。虹塚先輩に……。心愛に何があったら、俺が守りますから!」
さっき決めたばかりなのに、いきなり虹塚先輩と呼びそうになってしまい、慌てて訂正した。名前で呼んでくれたことと、俺からの守る宣言に、虹塚先輩は感無量の様子だ。
「爽太君から……守ってあげるって言われたわ……」
嬉しいというより、意外という顔で、何度も守るという言葉を連呼していた。まるで緊急事態には、さっさと逃げるとでも思っていたようではないか。
仮にそんなことを考えていたとしても、口にするほど、虹塚先輩は馬鹿でもなく、しばらくして気持ちの整理がつくと、大きくニッコリされた。
勢いで言ってしまった部分はあったが、虹塚先輩に、記憶喪失材の使用を控えさせることが出来たので、結果オーライといったところかね。
「それじゃあ、また明日。学校で……」
俺の返事を待たずに、虹塚先輩が唇を重ねてきた。まだ先輩とのキスに慣れていない俺は、直立不動に近い姿勢で固まってしまったのをいいことに、ずいぶん長い間互いの唇が重なっていた。
「はあ……」
唇を離すと、虹塚先輩は色っぽい声を出した。俺の頭は、酸素不足にでも陥ったのか、催眠でもかけられたかのように、ぼ~っとしていた。
「じゃあねえ~!」
電気の切れかかっているロボットみたいな俺を、おかしそうに見つめながら、虹塚先輩は帰って行った。
夜道を女性一人で歩かせるのは危ないと、家まで送ると申し出たのだが、それじゃ俺がまた虹塚先輩の家にとんぼ返りすることになると、やんわり断られた。そりゃそうだと、あっさり引き下がる。
「心愛か……」
虹塚先輩の姿が見えなくなったのを確認してから、試しにさっきまで散々練習させられた名前を口にしてみたが、やはり違和感がある。でも、口にしないと、虹塚先輩から怒られるんだよな。
「しばらくはうっかり虹塚先輩って呼んじゃいそうだし、怒られる日々が続くのかね」
ぼそりと呟いたが、返事がないと、物寂しいものがあるな。まあい、いいや。夜も遅いし、さっさと家に帰ろう。
「……何ていうか。自分の家を見ると、現実に戻されるな」
まるで、虹塚先輩の家で過ごした時間が夢だったような気さえしてくる。いや、それを言ったら、アリスと別れたことも、現実味が薄れてきてしまうな。
もちろん、全部現実に起こったことで、動かしようのないことなんだがね。とりあえず疲れているので、部屋に入ったら、シャワーだけ浴びて、バタンキューしよう。
そう思って、玄関の前までやってきた時だった。俺は目を丸くして驚いた。
「あれ?」
見間違いかと思って見返してみたが、間違いない。鎖で開かなくなっていた筈の、俺の部屋のドアが直されていた。
「……大家さんが直してくれた?」
そう思って片付けようとしたが、ドアノブを握ろうとしたところで、手が止まった。
いやいや、待て。ここに引っ越してきてから、大家と一度も会っていないだろ!
じゃあ、他の住人が大家に知らせたとか? そんなことがあるか。俺が監禁されている間、はれ物に触るように、俺の部屋を避けていた連中が、そんな温かいことをしてくれる訳がないだろ。
そっと裏に回って、窓ガラスから室内の様子を伺う。真っ暗で、中の様子が確認出来ない。電気はついていないのか。
正面に戻って、ドアノブを回してみると、鍵はかかっておらず、ドアはすんなりと開いた。
「ただ今~……」
おそるおそるドアを開けると、それを待っていたかのように、部屋に電気がつけられた。
「お帰り」
俺のすぐ真横で、スイッチに手を伸ばしていたアリスが答えた。
「アリス……?」
「やっ!」
驚く俺に向かって、アリスが右手を振って挨拶してきた。彼女の様子を見たところ、怒っているようには見えない。
「そんな幽霊を見るような顔をしないでよ。ただお話をしに来ただけなんだから」
「お話……」
何のお話しかは、容易に想像がついてしまった。アリスからすれば、納得出来る筈がないものな。
靴を脱ぎながら、帰ろうとする虹塚先輩を、お茶だけでもと、家に誘わなくて良かったと思った。