第百十九話 次の約束は、いつ叶えてくれますか?
虹塚先輩から、母親を紹介された。先輩のお母さんは、よく笑う人で、俺のことを覚えていないようだったが、気さくに接してくれた。
ちょっと変わったところもある人だったが、話していて楽しかった。
だが、お母さんは、今店で出す料理の下ごしらえをしている最中なので、いつまでも厨房にお邪魔している訳にはいかない。虹塚先輩の合図で、引き上げることにした。
「私は仕事に戻るから、爽太君はゆっくりしていってね」
自身は仕事で忙しい筈なのに、有り難いことに気を遣ってくれた。俺は、お礼を言って、虹塚先輩の後を追って、二階の居住スペースへと移動した。
「先輩のお母さん。料理の仕込みに、何か鬼気迫るものがありますね」
まるで親の敵を討っているかのように、目が真剣だったものな。すごい集中力だと感心していると、虹塚先輩がネタばらししてくれた。
「お父さんの浮気が発覚した時のことを思い出しているんですって。そうすると、食材の切断がスムーズにいくそうよ」
「……ついでにストレスも発散出来そうですね」
虹塚先輩のお父さんについては、記憶の中で笑っている姿しか思い出せない。今、どこで何をしているのか、興味も沸かないが、ろくな思い出され方をしていないな。
「はい、到着。ここが私の部屋よ。今、お菓子を持ってくるから、爽太君は、中で寛いでいてね。何もない部屋だけど、自分の部屋だと思ってくれていいから」
「あ、お気遣いなく」
本当に気を遣わなくていいのに、虹塚先輩は、俺を置いてさっさと行ってしまった。という訳で、部屋には俺一人。
退屈しのぎに、ぐるりと先輩の自室を見渡す。念のために断っておくが、やましい気持ちは決してない。ただ退屈しのぎのために、仏の心で見渡すだけのことだ。
でも、彼女の部屋に入るのは初めてだな。アリスの部屋にも入ったことがなかったし。というか、親が厳しいとかで、家に招待してすら、もらえなかったな。
……それにしても、本当に何もない部屋だな。いや、何もないという表現は失礼か。そうじゃなくて、無駄なものが何もないといった方が適切だな。
余分な肉を落とした筋肉のように、部屋の中はスリムだった。ぬいぐるみや、女の子っぽい小物の類もない。勉強用の机と姿見、テーブルとベッド、本棚に箪笥……。それくらいだろうか。衣類はクローゼットと箪笥に収納されているとして、テレビやパソコンといった嗜好品の類が確認出来ないな。
本棚に収納されている本を見てみたが、漫画がない。学校の教科書や参考書、化学薬品に関する本ばかりだ。おかしなものはないな。……ということにしておく。後……、アルバム。
この中に、幼い日の俺も収められているのだろうか。ちょっと興味が沸き、思わず手を伸ばす。
「お待たせ! 持ってきたわよ。って、あら? どうしたの、爽太君」
「い、いえ……。何でもないです」
危なかった……。後一瞬、手を引っ込めるのが遅かったら、本棚に手を伸ばしているところを見られてしまった。見て怒られるようなものなど、魔術書……、ではなく化学薬品に関する本くらいしかないだろうが、あまり良い気はしない筈だ。
「あらやだ。てっきり下着でも物色しているのかもしれないと思っちゃったわ」
「ははは! そんなこと……、しませんよ」
よく考えてみれば、アルバムより下着の方が……って、何を考えているんだ、俺は。
一人でノリツッコみをしている俺をよそに、虹塚先輩は、テーブルにお茶とお菓子を並べていた。
手作りのタルトと紅茶だった。このタルト……、イチゴと砂糖が、惜しみなく使われている。これは、相当甘くなっているな。紅茶には砂糖を入れない方が、味を楽しめそうだ。
「夕食は後で持ってくるから、今はこれで我慢してね」
何と、夕食まで振る舞ってくれるらしい。一人暮らし、加えて部屋の修理のせいで、金欠生活を強いられている俺にとっては、嬉し涙が止まらなくなりそうな話だ。
「そんなに気を遣わなくてもいいんですよ」
「いいのよ。爽太君は、私の大切な人なんだから」
あのう……。そこは「大切なお客様」というところではないでしょうか。大した違いはないんだろうが、虹塚先輩が言うと、つい邪推してしまうんだよな。
「そうだ! 食べながら聞いてほしいんだけど……」
「何です?」
「私たち、いつ結婚する?」
何の脈絡もなく、投下された爆弾発言に、俺は食べているものを吐きそうになってしまい、盛大にむせた。
「お互いにまだ高校生だから、卒業まで我慢する? それとも、爽太君が十八になったら、さっさと済ませる? ちゃんと稼げるようになってから結婚したいというのであれば、文句は言わないけど、私の家の手伝いをするという手もあるわよ」
あのう……。俺がむせたことに関しては、シカトを貫くんですか? 夢の世界に浸るのも良いんですが、口を拭くタオルを貸してもらえると嬉しいかな~って……。
いくら待っても、タオルは出てこないようなので、仕方なく自分の服の袖で、口元をぬぐった。
虹塚先輩が暴走している。そりゃあ、勝負に負けたら、結婚するって言ったが……、まさかもう具体的な話を始めてくるとは。
冗談ですよねと笑おうとしたが、虹塚先輩の目が本気なのを確認して、やれやれと頭を抱えた。
「あの……、俺が卒業してからでいいですかね」
「自分の稼ぎで、家族を養えるようなってから、結婚したいということかしら?」
「ええ、まあ……」
本当は、心の準備がしたいだけなんですけどね。それに、頭に浮かんじゃうんですよね。今日、フッたばかりの……。
「……アリスちゃんのことを気にしているの?」
「!」
困ったな。図星だよ。勘が鋭いですね、虹塚先輩。
「ええ。別れたばかりですし、いきなり見せつけるように結婚というのも、気が退けちゃいます」
苦笑いで誤魔化したが、虹塚先輩の表情は硬い。アリスの話題が出ることすら、NGだというのか? 約束通りに別れたんだから、もういいだろうに。
「彼女……。このまま終わらないでしょうね」
虹塚先輩が何気なく放った一言に、心臓がドクンと波打ってしまう。
「復讐してくるってことですか?」
「その辺りは、元カレの爽太君の方が詳しいんじゃなくて?」
そっちも図星。アリスがこれで終わるような性格じゃないことは、俺がよく知っている。虹塚先輩から、記憶喪失剤を受け取ったのだって、冷静に考えてみれば、やり返すためだろう。
「私と爽太君の仲を引き裂こうと、記憶喪失剤を使って妨害に走る。あっという間に、立場が逆転してしまったわね」
面倒事の種が尽きない割には、虹塚先輩の顔は晴れやかだ。
「先輩、楽しそうですね」
「そう見える?」
「ええ。アリスが殴りこんでくるのを、首を長くして待っているように見えます」
俺の意見は、同意も否定もされなかったが、表情から察するに、どうで後者だろう。不敵に笑っている顔を見ると、どうしても不安に駆られてしまう。
「まさか……! 先手を打つ気じゃないですよね?」
アリスから仕掛けられる前に、不意打ちでアリスの記憶を消去する。そうすれば、安全に勝ちを得られるのだ。確実に、かつ絶対に勝つ気なら、実行に移してもおかしくはない。
「それもいいかもね」
実際、俺の指摘を、まんざらではないという表情で耳を傾けている
「そんな……! それじゃあ、アリスがあまりにも可愛そうです! 彼氏と別れさせられて、いらない疑いをかけられて、記憶まで消されるなんて!」
「私……。不安なのよ。爽太君が約束を反古にして、アリスちゃんの元に戻らないかって」
約束を反古して、アリスと分かれずに済む方法を模索していた身としては、耳に痛い言葉だ。でも、約束は最終的に守ったのだ。だから、アリスを再び危険な目に遭わせてほしくない。
「俺からフッたんですよ? アリスと仲直りなんて、出来っこないですよ!」
仮に元鞘に戻ろうとしたところで、アリスが決して許さないだろう。体は小さいのに、プライドは人一倍あるからな。一度虚仮にされたことは、忘れまい。
「じゃあ、安心させてほしいものね」
それは結婚のことかと聞くと、虹塚先輩は首を横に振った。首をかしげる俺の前で、おもむろに立ち上がると、仰向けの姿勢で、ベッドへと倒れ込んだ。明らかに誘っている。
「俺に……。何をしろと……?」
「何だと思う?」
思わせぶりな虹塚先輩の目と、様子を窺う俺の目が交差する。まだ交際初日だというのに、なかなか密度が濃い一日ですよ。
投稿に使っているPCが起動しなくなってしまい、次回の投稿まで、数日開くことになりそうです。
楽しみにしている方が、もしいらっしゃいましたら、申し訳ありません。