第百十八話 脅し文句は、スイカとかき氷で
虹塚先輩から、自宅へ招待された。聞けば、付き合い始めたばかりの俺を、母親に紹介したいのだという。
申し出はありがたいのだが、さっきアリスと別れたばかりの俺としては、どうも気が乗らない。というか、付き合いだして数時間しか経っていないのに、もう親に紹介って……。
あまりにとんとん拍子で進むので、嬉しいというより、困惑してしまう。
「あの……! 良いんですか? 俺なんかを紹介しちゃって」
「? 何か不味いことでもあるのかしら」
不安に思って聞いてみたのだが、逆に不思議な顔で聞き返されてしまった。虹塚先輩にしてみれば、むしろ紹介しない方がおかしいと思っているらしい。
「将来を約束し合った二人なのよ。親に紹介することをどうして遠慮しなければいけないのかしら?」
虹塚先輩が、徐々に暴走しだしているな。今はまだ可愛いものだが、束縛が始まったらすごそうだと、内心ちょっと憂鬱になってしまう。
「交際してはいますけど、気が早くないですか? もう少し軌道に乗ってきてからでも遅くはないかと……」
「あのね。紹介すると言っても、初めて会う相手じゃないのよ。爽太君は忘れているみたいだけど、私のお母さんとは、昔にも何回か会っているのよ。だから、紹介というより、ご挨拶といった方が近いかしらね。それでも、まだ時期尚早だっていうの?」
幼馴染みであることは確かなので、そう言われてしまうと、認めざるを得ない部分もあるんだよなあ。
しかし、親を紹介したとなると、簡単に別れたり出来ないな。いや、そうする予定は考えていないがね。もしかしなくても、そういう状況に俺を追い込むのが、虹塚先輩の狙いなのか。
虹塚先輩、マジモードだ。一度、恋が破れかけている分、なりふり構っていない。表情こそ虫も殺さない笑顔なのに、心は侵略者だ。
「あ、それからね。話についでに聞いてほしいんだけど」
先輩の本気に圧倒されている俺に向かって、追加……、というか止めの一言が投げかけられた。
「私のお母さんね。お父さんに浮気されて以来、そういうことをする男の人を憎むようになっちゃってね。発覚しようものなら、相手がお客さんでも容赦なしなの。でも、爽太君には関係のない話よね。だって、爽太君は、浮気なんか絶対にしないもの」
「……努力します」
順調に……、というか、急速に逃げ道が破壊されていく。というか、今のお言葉は、当回しに脅しをかけてきているということでよろしいのでしょうか。俺は前の彼女を捨てて、あなたと付き合うことにした男なので、信頼しちゃいけない類の人間だと思いますよ?
虹塚先輩の軽い足取りが羨ましい。俺は、足を引きずるように後を追いかけるので、精いっぱいだった。どう考えても、良からぬなフラグが出現してしまったような気がしてならない。
「お母さ~ん、ただ今!」
厨房スペースに入るなり、虹塚先輩は声を張り上げた。中には、母親と思われる女性が一人で、額に汗を浮かべながら、この日に客に出す料理の仕込み作業を行っていた。先輩の声に気付いたのが、笑顔で振り返ってくる。
高校生の娘がいるとは思えないくらい、肌が艶々していた。女手一人で、雅兄を支えているとは思えない。髪はきれいに揃えられたセミロングで、虹塚先輩より一回りたわわに実ったスイカを二つ有していた。おそらく、常連客の大部分は、お母さん目当てで訪れているのだろう。俺も男なので、その程度は難なく察しがついた。
「あら。今日はずいぶんとご機嫌ね。学校で良いことでもあったの?」
「ええ。そのことで、お母さんに報告したいことがあるの」
この会話だけを聞くと、親子の仲の良さが伝わってきて、心が和むが、この後に俺が紹介されると思うと緊張してしまう。
「今日はね、お客さんを連れてきたのよ」
ほら、来た。思ったより早く、俺が紹介されることになってしまった。もう少し、親子水入らずで会話してくれていてもいいのに。
「私の彼氏兼婚約者の晴島爽太君よ!」
「ちょっ……、先輩!!」
ストレート過ぎます! その紹介だと、確実に変な目で見られちゃうじゃないですか。それで、態度を一変させたお母さんから、「お前みたいなやつには、娘に指一本触れさせない」とか言われて、叩き出されちゃう流れじゃないですか!
だが、戦々恐々と怯える俺を横目に、お母さんは、「やったじゃない!」と、逆に娘を褒めていた。
ああ、そうだった。この人は虹塚先輩の母親だった。ちょっと世間ずれしているところの一つや二つはあってもおかしくないよね。うっかり忘れていたよ。
「お母さん。今、あっさりと流しちゃったけど、覚えていないかしら。爽太君のことを……」
虹塚先輩の話によれば、俺とお母さんは、昔会ったことがあるらしい。先輩のお父さんとも会ったことがあるくらいなので、お母さんとも会ったことがあるのはおかしなことではない。ただし、こうして顔を見合わせた段階になっても、俺はお母さんのことを思い出せないでいた。向こうも、反応を見る限り、俺のことなど覚えていないようだ。
「君……!」
お母さんは、しばらく俺の顔を難しい顔で観察していたが、突然、ハッと目を見開いて、息を飲んだ。思い出してくれたのだろうか。
「俺のこと、覚えてくれているんですね?」
俺はお母さんのことを忘れていたというのに、何か申し訳ないな。なんてことを考えていると、お母さんは、俺のことを見つめたまま、諦めたように、ため息をついた。
「駄目! 頑張ってみたけど、全然思い出せない!」
舌をペロリと出して、おどけられてしまった。この辺の仕草は、娘である虹塚先輩にも見受けられる。
「もう! 私が子供の頃に、仲の良かった爽太君よ。うちに何度も遊びに来たじゃないの。結婚するって騒いでいたことがあったでしょ」
「あっ……!」
虹塚先輩からの口添えで、お母さんの目がまた見開かれた。今度こそ思い出してくれたか。
「今度こそ思い出してくれたみたいですね」
俺もまだ、この人のことを思い出せていないのを棚に上げて、息を吐いた。
「やっぱり駄目! もう一回頑張ってみたけど、全然思い出せないわ」
「……」
漫画だったら、盛大にこけているところだな。俺はというと、ため息を堪えるので忙しい。
「お母さん……。そろそろ思い出してほしいんだけど……。ほら、海でかき氷……」
「あっ……!」
虹塚先輩の涙ぐましい努力もあり、また何かを思い出したようなリアクションをしたが、もう反応してやらない。いちいちツッコむのも、いい加減疲れてきたのだ。
「崖からダイブして、生死の境を彷徨った子ね」
「今度は思い出していた~! でも、ろくな覚えられ方をしていない~!! ていうか、海でかき氷のフレーズで思い出した!?」
俺が優香に突き落とされる話に、かき氷なんて出てこないよ? 何故、それで思い出せた? 海とかき氷に何が含まれているというんだ!?
「それで? 今回は、娘と恋愛の海へ、手を取り合ってダイブするという訳?」
「上手いことを言ったつもりですか……」
先輩の親に悪態をつきたくはないんですが、あなたの冗談、見事に滑っていますよ。ツルッて擬音が、今にも聞こえてきそうです。
「前回は一人だったけど、今回は二人。愛する人が、手を握ってくれているから、何も怖いものはないということで良いのよね?」
「しつこいですよ……」
つい声が荒くなってしまった。この人、一回ツッコんだだけじゃ、引っ込んでくれないんだな。
「どう? お母さんのこと、まだ思い出さない?」
会話が一段落した頃合いを見計らって、虹塚先輩が再び聞いてきてくれたが、俺の方は、相変わらずさっぱりだった。
「おかしいわね……。お母さんみたいなキャラの濃い人を、そう簡単に忘れる訳がないんだけど……」
虹塚先輩は、納得がいかないという顔で、考え込んでしまった。俺もそう思いますよ。こんな覚えやすい人を、どうして思い出せないですかね……。