第百十七話 始まった虹塚先輩との恋人生活、初日から実家にお誘い
虹塚先輩から背を押される形で、アリスと別れた。もっと揉めるかと思ったが、彼女の反応は、寂しくなってしまうくらいに淡白なものだった。
アリスが今しがた出ていったドアを見つめながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。終わる時って、案外呆気ないものなんだな。
「疲れちゃったのかしら?」
虹塚先輩が、優しく微笑んできてくれる。元々人当たりの良い先輩だが、格別に気分が良くなっているのは、目論見通りにことが進行したからだろう。
「虹塚先輩は……、これで終わったと思っていますか?」
去り際のアリスの怒り狂った表情が忘れられない。虹塚先輩に、記憶喪失剤を無心したことといい、このまま終わるとはどうしても思えない。
俺は戦々恐々としているというのに、虹塚先輩が、あまりに晴れ晴れとした顔でいるので、思わず何の気なしに聞いてしまった。現時点で、矛先が最も向けられそうなのは、断トツで虹塚先輩なのだ。
「まさか……。そんな都合の良いことは考えていないわよ」
曇り一つない晴れやかな表情のままで、サラリと言ってのけると、虹塚先輩はにっこりとほほ笑んだ。
過去にも、優香という恋敵から襲撃を受けたことのある虹塚先輩が、能天気に浮かれているだけなどあり得る筈もなかったか。だが、それを考慮しても、こういう話を、眉間に皺を寄せずに話せる虹塚先輩にもビビった。
「今回、かなり強引に話を進めたから、そのことでアリスちゃんに恨みを買ったのは事実だものね。報復を受ける可能性だって、考えていない訳じゃないわ。ただし、素直に受け入れるつもりは、さらさらないけどね」
「報復ですか……」
今朝も、俺に笑顔で話しかけてきてくれた相手からの報復を機にしなくちゃいけないと思うと、気が重くなるな。あまりの急展開に、悪い夢を見ているのではないかという思いすらあった。
「私たちも行きましょう。用事が済んだ以上、もうここにいる意味もない筈よ」
「ええ……」
確かに、もう誰も来ない屋上で二人きりというのも、息が詰まってしまう。というか、ここにいると、さっきの光景がフラッシュバックして、気が滅入ってしまう。用がないのなら、早急に立ち去った方が良いだろうな。
廊下を歩いている時に、同級生の女子数人とすれ違った。明るい声で、挨拶をして通り過ぎていったが、その後で虹塚先輩を見ると、笑顔のまま無言を通している。
「まさかとは思いますが、今の子たちにジェラシーとか抱いていないですよね」
「ジェラシー? どうして?」
表情に変化はないが、図星とみた。女子とすれ違いざまに、親しげに言葉を交わしただけで、ジュラシーとは。虹塚先輩って、ひょっとして、恋人が自分以外の異性と話すのを快く思わないタイプなのか?
あり得ない話ではないな。今は大人しいけど、自分の恋敵を脅しつけたり、記憶を奪い去ったりする人だから。あまり束縛されるのは嫌だから、ソフトな付き合いをお願いしたいな。
というか、そんな人と、よく平然と話していられるよな。むしろ、そっちの方に驚くべきなのかもしれない。
「そういえば、爽太君は、今日の夜は空いているかしら?」
「今夜ですか? いえ、特にありませんけど」
優香の件で、ごちゃごちゃになってしまった部屋の整理があるのだが、どうしても今夜やらなければいけないという訳でもない。
……本当は、アリスと何回かに分けて行う予定だったんだよな。
駄目だ。ついアリスのことを考えて、気持ちがブルーになってしまう。
もうアリスとの関係は終わったんだ。報復があるにせよ、ないにせよ、もうあの日々は戻ってこないのだ。アリスと廃墟と化した俺の部屋を掃除する未来だって、もう永遠に訪れないのだ。
今は虹塚先輩と付き合っているのだから、気持ちを切り替えろ。先輩だって、頼めば手伝ってくれる筈だ。何と言っても、俺の部屋を廃墟にした真犯人でもあるんだから。ハッキリ言って、彼女でなくてもやってくれるだろう。
ああ、そうか。今夜の予定を聞いてきたのは、そういう訳か。俺の部屋を掃除しようというお誘いだった訳だな。
「もし、暇なら、私の家に遊びに来なさいよ」
「先輩の家にですか?」
あれ? 俺の部屋の掃除は?
自分の予想が外れてしまい、唖然としてしまったが、虹塚先輩は意に介さず、話を続ける。もしかしたら、俺の部屋の件は、先輩の中で忘れ去られているのかもしれない。
「そうよ。お母さんも、爽太君の顔を見れば、きっと喜ぶわ。お母さんのことは覚えているかしら?」
「先輩の、お母さん……」
確実に会っている筈なのに、全く思い出せない。
見栄を張るところでもないので、俺は正直に首を横に振った。虹塚先輩は、どうでも良さそうな顔で、「あら、そう……」とだけ呟いた。声の感じから、思い出していないことを怒っているようではなかった。
「考えてみれば、私のことを忘れているくらいなんだから、仕方のないことかもしれないわね。これでお母さんのことだけ鮮明に覚えていられるのも、それはそれで腹が立っちゃうもの」
それじゃあ、この質問の模範解答は、忘れたで良かった訳だ。都合よく忘れたままになっていて良かったよ。
ともかく予定がないということで、夜に虹塚先輩の家に招待されることになった。自室の掃除が後回しにされてしまったのは、触れるまでもないことだろう。
時間は流れて、学校が終わり、家に一旦帰って着替えた後で、俺は虹塚先輩の家を訪れていた。
「ここが虹塚先輩の家ですか?」
「実家兼バーね。詳しく説明すると、一階がバーになっていて、二階が居住スペースになっているのよ」
よくテレビで紹介される隠れ家的な外装をしていた。一言で言うなら、お洒落だ。女手一つで経営していると聞いていたので、もっとスナックみたいな店を想像していたのだが、そのイメージを払しょくするに、十分なものだった。これなら、デートにも使えそうだ。
「何か美味しい物を食べさせてくれそうな気配が漂ってきますね。夜は、お客さんで賑わっているんじゃないですか?」
「そんなでもないわ。熱心な常連さんのおかげで、細々とやっていけているだけよ」
謙遜していると思ったが、敢えて突っ込むようなことはしなかった。
「あなたの親友の木下君も、大切な常連さんの一人かしらね」
「……」
これは、さすがに謙遜だろ。あの馬鹿のことだ。どうせバイト代をつぎ込んでいるんだろうが、所詮ミルクしか飲めない貧乏高校生だ。それを常連と認めちゃいけないよ。
「今夜あたり、顔を見せるような気がするわ」
「見せなくていいです。ついでに言うと、会いたくもないです」
アリスと別れて、傷心の状態の時に、よりによって木下と会うなんて、冗談にしても笑えない。
「さて。じゃあ、そろそろお母さんを紹介しようかしら。この時間なら、ちょうど厨房で仕込みをしている頃の筈よ」
「ええ……。ん?」
何気なく返事をしてから、気付いたが、俺と虹塚先輩って、今は交際中なんだよな。それで、先輩のお母さんを紹介されるって、この流れは……!
虹塚先輩の言う紹介の重要性に、はたと気付いて、足を止めかけたが、先輩がグイと手を引っ張ってきた。立ち止まることは許してくれないようだ。




