第百十六話 独りで去ったアリスと、二人きりの屋上
「俺たち、別れよう……」
屋上に呼び出したアリスに向かって、関係の清算を意味する言葉を言い放った。仕方のないこととはいえ、息が詰まる。
唇が乾燥して、今にもむせてしまいそうだ。こんな状態で、よく言い切れたものだ。
ようやく言い終えると、よろけそうになったが、虹塚先輩が支えてくれた。というより、後ろから抱きついてきたとも言えなくもないが、どっちでもいいだろう。
「はい……、よく出来ました……」
俺の耳元で、虹塚先輩が満足げに囁いた。俺はすっかり脱力してしまい、返事をする気力も残っていなかった。
言ってしまった……。
言いたくなかったのに……。自分から別れの言葉なんて……。
頭の中で、呪文のように、後悔の言葉が反芻している。アリスの顔は……、見られなかった。とても見られる訳がない。
「うん……、分かった……」
やがて、アリスから返事が聞こえてきた。予想に反して、腫物が落ちた様な、すっきりした声だった。泣いているようには聞こえなかったのが、せめてもの救いだろうか。俺と別れるのだから、もう少し悲しんで欲しいとか、自分勝手なことは思っちゃいない。アリスが平然としてくれているのが望ましかった。
「ねえ、虹塚先輩」
「なあに?」
アリスは、俺ではなく虹塚先輩に話しかけてきた。もしかすると、アリスの中では、俺はもう過去の人間なのかもしれなかった。
「別れるための交換条件って訳じゃないけど、あなたの愛用している記憶喪失剤だっけ? あれ、一つ頂戴よ」
「……何ですって?」
珍妙な申し出に、虹塚先輩の声も鋭くなる。
「そんな睨まないでよ。嫌なことがあったから、それをスパッと忘れたいだけよ。どうせたくさん持っているんでしょ? ケチらないで、一つくらい分けてよ」
嫌なことというのは、言うまでもなく、俺にフラれたことだろう。アリスは、俺と交際していた日々の記憶を、自ら捨てようとしているのだ。
「アリス!」
記憶を消そうなんて、馬鹿な真似は止めろと、自分のしたことを棚に上げて呼びかけたが、アリスは目も合わせてくれようとしなかった。彼女にとっては、俺は忘れたい記憶でしかないということか。
アリスの視線は、ずっとこっちを向いているが、見ているのは俺ではなく、後ろの虹塚先輩だ。先輩は、アリスの申し出を受けて、黙ったまま考え込んでいる。
「……」
「どうしたの? 私はあなたに彼氏を盗られて、打ちのめされているのよ。申し訳ない気持ちが少しでもあるのなら、薬の一つ、ケチらないでよ。さっき爽太君が割っちゃったけど、他にも、予備の薬を持ってきているんでしょ?」
全く塩らしくない様子で、虹塚先輩に詰め寄っている。何か企んでいますよという顔だ。ショックで口がきけなくなるよりはマシだが、今にもキレそうな怖さを感じる。
「……まあ、いいわ。爽太君を奪った罪滅ぼしという訳じゃないけど、薬の一つくらい分けてあげる」
しばらくアリスを観察していた虹塚先輩だったが、問題なしと判断したのか、アリスに愛用の薬を一本放り投げた。それをアリスがキャッチした。
「念のために言っておくわね。その記憶喪失剤を、私に使おうとしても無駄よ。その薬が効かなくなる薬もあって、私は常時それを服用しているの。だから、不意を突いて、私に使ったところで、無駄よ」
そんなものまであるのかよ……。そりゃ、自分が最後に記憶喪失にさせられたら、さぞかし間抜けな最後だが、至れり尽くせりじゃないか。
「ずいぶん準備が良いのね。自分の愛用する薬の効果が、あまりにも高いから、逆に使われた場合のことを考えてビビっちゃったのかしら?」
アリスも感心して、というより、皮肉たっぷりにからかうが、虹塚先輩は余裕の笑みを絶やさない。むしろ、アリスの言葉を全面的に肯定してしまった。
「その通りかもしれないわね。何度も使ううちに、薬の効能の強さに警戒心を抱くようになったのは否定出来ないわ。使われちゃったら不味いのは事実ですもの。用心するに越したことはないわ。でも、あなたに対して使う分には絶大な効果を発揮するのは、保証するわよ」
使用した途端、アカリのように、アリスからも忘れ去られてしまうのか……。つまり、アリスの中から、俺が消えてしまう……。
身から出た錆だし、もう彼氏でもないのだから、アリスを束縛する権利がないのは分かっているが、寂しくてどうしようもなくなる。
俺はどうにかして記憶を失くすのを思い留めさせられないかと、アリスを見るが、肝心の彼女は、受け取った薬を眺めるのに夢中だった。その姿を見ていると、アリスが記憶を失っていくのを止める気力も萎えていってしまう。
「じゃあ、私はもう行くわね。これ以上、あなたと話したくないのよ」
受け取った記憶喪失剤を、飽きることなく、興味深そうに見つめながら、アリスは帰ると言い出した。決定事項らしく、きっと俺や虹塚先輩が、まだ帰るなといっても、勝手に屋上から立ち去っていくのだろう。
「アリス……!」
このまま彼女が立ち去っていくのを、俺は見つめることしか出来なかった。後を追ったりしないように、虹塚先輩が後ろからガッチリとホールドしてきているという理由もあったが、仮に体が自由だとしても、アリスを追ったところで、どんな言葉をかけられるというのだろうか。
アリスにしたって、勝手な都合で、自分を捨てるような、最低の彼氏と話すことなどありはしないだろう。
ぼんやりとした気持ちで、離れていくアリスを見ていると、彼女の足がピタリと止まった。何だろうと思っていると、一瞬だけ振り返って、こっちを見てきた。
それはもう……、底知れない怒りを漲らせた目で、こっちを睨んできたのだ。あまりの迫力に息を飲んでいると、アリスはまた視線を前に戻して、そのまま屋上から去っていった。
今、アリスが睨んだのは、俺なのか、虹塚先輩なのか。もしかしたら、両方に対して睨んでいたのかもしれない。その際に、何かぶつぶつと呟いていたような気がしたが、声が小さ過ぎて、聞き取ることが出来なかった。
「さようなら、アリス……」
今更言ったところで、どうしようもない台詞が口から漏れてしまう。本当に言ったところで、何も変わらないのな。
アリスの姿が見えなくなってからも、俺と虹塚先輩は、歩いていった方向を見ながら、立ち尽くしていた。やがて、虹塚先輩が、ホッとしたような溜息をついた後で、口を開いた。
「思っていたより、すんなりと済んだわね」
虹塚先輩は、まだ俺に抱きついたままだ。感触を確かめるように、俺の胸板や腹の辺りをさすっている。
「虹塚先輩は……、これで良いんですか?」
構わないと言われることは分かりきっているが、それでも疑問だ。俺はアリスに愛想を尽かされてしまい、関係が終わったのは確かだ。しかし、だからといって、虹塚先輩と即座にラブラブの関係になるとは限らない。というか、そんな心境ではない。
「他にもっと確実な方法があれば、そちらを取りたかったわ。あまり強引に話を進めて、爽太君に嫌われてしまったら、元も子もないもの。ただ、結果的に順調に進んでいるから、私としてはこれで良いと思っているわ。まだ私に気持ちが動いていないのも知っているけど、徐々に好きになってもらう予定よ」
俺をアリスと別れさせるのが、一番の障害だったからな。それが取り払われたのだ。虹塚先輩にしてみれば、順調の一言で片づいてしまうのだろう。
「確認なんだけど、この後は私と、改めて結婚を前提にした交際をしてもらうということでよろしいかしら?」
「……そういう約束ですからね」
虹塚先輩が目を閉じて、俺の唇を突きだしてきた。何をしてほしいのかは、具体的に言ってこなかったが、このジェスチャーを見れば、説明は不要だろう。
俺は虹塚先輩の肩に手を回すと、自分の方へ抱き寄せて、そのままキスをした。今度はアリスと間違えたのではなく、虹塚先輩だと認識した上でのキスだ。
「ん……」
俺がキスをすると、甘い声を出しながら、舌を絡ませてきた。アリスよりも粘っこいキスだな。
たった今、アリスと別れたばかりなのに……。俺は何をしているのかね。
「爽太君……?」
「俺は……、カスだ」
彼女と別れた次の瞬間には、もう他の女の元へ走っている、最低の野郎だ。言い訳だって、出来やしない。
今頃になって、悔し涙が頬を伝って来ていたが、もう何もかもが、終わってしまっていた。