第百十一話 判明した許嫁と、二人の「ゆうちゃん」
うっかりしてしまった失言が原因で、虹塚先輩が、謎の許嫁だったということが判明した。
こういうと、いかにも虹塚先輩が間抜けなミスを冒したかのように聞こえるが、彼女が許嫁ではないかと薄々感づいていた部分もあったので、たいした衝撃はなかった。
「うっかりって怖いわねえ……」
「よく言いますよ……」
やってしまったという顔で、先輩は苦笑いしているが、どうせここで自分が許嫁だと白状するつもりだったんだろう。告白するタイミングが、多少変わったに過ぎない。予定より早めに知ることが出来たというだけで、そのことで俺に有利に働くことなどありはしないのだ。
「X」として俺に接する時は、いつもはボイスチェンジャーで抑揚のない声に変えているが、成る程、虹塚先輩の声の調子に酷似していた。
「順番がちょっと狂っちゃったけど、改めて宣言させてもらうわね。そう、私がゆうちゃん。あなたの許嫁のゆうちゃんよ!!」
「どうも……」
本当なら、もっとするべき反応が他にあるのだろうが、俺の口から出てきたのは、これだけだった。
まずいな……。俺は昨日、間違いとはいえ、この人とキスをしてしまっている。約束通りなら、俺はアリスと……。
キスを皮切りに行動をエスカレートさせたのは、そういうことか……。
あのキスは間違いでしたとか、今更通用しなさそうだしなあ……。下手に強気に出て、記憶を消されまくるのも勘弁だ。さて、どう出る……。
「あらあら。私とやっと会えたっていうのに、あまり嬉しくなさそうね。きっといきなりでびっくりしているのね。でも、心配することはないわ。だんだん落ち着いていくから。でも、その前に……」
言い終わると同時に、虹塚先輩はものすごい速度で俺に抱きついてきた。マジで速かった。目にも止まらぬ速さというのは、こういうものをいうんだなと体感することになった。
「ずっとこうしたかったの~! 爽太君のことをムギュ~って!!」
「うががああああ! 締まってますから! 体のあちこちから、もうすぐボキボキッて擬音が聞こえてきますから!!」
今まで我慢していた分を、一気に発散したというハグは、俺の体を粉砕するのではないかというくらいのパワーを有していた。いや、もう、決して大げさな表現などではない。ハグというより、破壊という言葉の方がしっくりくるね。
ほうぼうの体で、虹塚先輩のホールドから脱出すると、その場に尻からへたり込んでしまった。
「あらあら。この程度の抱擁で力が抜けちゃうなんて、体作りがなっていないわよ」
俺を見下ろしながら、楽しそうにほほ笑む虹塚先輩。この人、普段はひ弱なのに、瞬間的にもの凄い力を発揮するんだよな。だが、その笑みを見ていると、自分の恋敵の記憶を奪ったり、俺を拉致監禁したりするような人には、とても見えない。
というか、「X」であることを公言した後も、虹塚先輩の様子に変化が見られない。普通、自分が黒幕だとばれたら、顔色をガラリと豹変させて、魔女のような醜悪な笑みで迫ってくるものじゃないのか? そりゃあ、物理的に迫ってはこられたが、邪気は伝わってこなかったな。
「まとめて発散するつもりだったけど、計画変更かしらね。残念だけど、小分けにして、爽太君に甘えていくことにしましょう」
小分けにしたところで、俺の体が最終的に破壊される未来は変わらない気がする……。
「どうも信じられないな。虹塚先輩が「X」なんて……」
優香の時は、こいつで間違いないって、一瞬で確信したのにな。今回は、どうしても信じられない。どこかで「X」の話を盗み聞きして、上手い具合に成りすましているだけじゃないかとの疑いも捨てきれないのだ。
「「X」って呼び方が気に入らないわね。私が許嫁だということを思い出してくれたのは嬉しいけど」
「最終的には、虹塚先輩が自分でばらしちゃいましたがね」
それは言わないでと、かなりの勢いではたかれた。脳髄に直接伝わるような衝撃を食らってしまい、思わずむせてしまった。
「じゃ、じゃあ……、どう呼べばいいんですか?」
「ん~。昔みたいに「ゆうちゃん」って呼んでほしいけど、もうそんな歳でもないものね。虹塚先輩のままでいいわ。でも、慣れてきたら、「心愛」って呼んでほしいかしら」
そういえば、優香のことも「ゆうちゃん」と呼んでいたんだよな。同じ時期に、「ゆうちゃん」が二人いたってことか? ややこしいことをするなあ。
「ゆうちゃん」が二人いたことについて、当時のことを覚えている虹塚先輩に聞いてみると、あまり面白くなさそうな顔で、当時のことを語ってくれた。
「最初に仲良くなったのが、あの女の方ね。「ゆうちゃん」って呼び始めたのも、あの女から……」
あの女というのは、優香のことだろう。「X」であることをカミングアウトしてからも、マイペースを崩さない虹塚先輩が、優香のことを話す時だけ険しい表情になるんだよな。嫉妬しているんだろうか。だが、それなら、アリスの話をする時は、もっと険しくなる筈だよな。
「爽太君とあの女は、非常に仲が良くてね。このまま年齢を重ねていったら、結婚するんじゃないかってくらいに、いつも二人きりで過ごしていたそうよ……」
歯ぎしりする音がハッキリと聞こえてきた。面白くない過去なのは分かるが、小さい頃のことでもう時効なんだから、もう少し抑えてほしい。
「でも、そんな二人に悲しい出来事が訪れたの。あの女が父親の転勤が原因で、遠くに引っ越すことになってしまったのよ」
悲しい出来事の話なのに、虹塚先輩の顔は微笑んでいた。俺から悪い虫が離れていったのが、本当に嬉しいようだ。
「爽太君も仲良しだった女の子と離れ離れになったことで、かなり落ち込んじゃっていたわね。そんな時、傷心のあなたの前に現れたのが私だったのよ!」
身を乗り出して、顔を俺に突き出してきた。念願の人物が登場したことを強調するような熱のこもった口調だ。愛想笑いで誤魔化しながら、ここから長い惚気話が始まらないことを切に願った。
だが、俺の願いは届かず、大筋とはあまり関係のなさそうな話を中心に、壮大な恋話が語られることになってしまった。あまりに長過ぎて、授業の終了を告げるチャイムが鳴ってしまったほどだ。確か、虹塚先輩と話し始めたのは、開始を告げる方のチャイムが鳴った直後だったよな……。
まだまだ語り足りないという顔の虹塚先輩の語りに強引に割って入って、話を進ませてもらうことにしよう。
「つまり、遠くに引っ越してしまった優香の代わりということで、虹塚先輩のことも、「ゆうちゃん」と呼んでいたんですね」
いくら優香のことが好きだったとはいえ、もう少しデリカシーを配慮出来ないものかな。昔からいい加減なやつだったんだなと、軽い自己嫌悪に陥ろうとしているところに、虹塚先輩が優しく声をかけてくれた。
「違うわ。私が「ゆうちゃん」と呼ばれるようになったのは、私の「心愛」という名前の「愛」が、「友」という字に見えたかららしいわ」
「「友」?」
「友」という字を音読みで読むと、ゆう……。それで、「ゆうちゃん」? 強引過ぎるだろ、過去の俺……。
「しかも、「ゆうちゃん」はもういるから、「ゆうちゃんMkⅡ」ですって♪」
「本当にすいませんでした~!」
「後にも先にも、他人に平手打ちをしたのはあの時の一回きりだわ……」
「悪気はなかったんだと思います! ですが、気分を害したことに対しては、申し訳ありませんでした!!」
気が付いたら、俺は90度頭を下げて、許しを乞うていた。そりゃ平手打ちだってされるよ。女の子をロボット扱いじゃ仕方ないよ。
「結局、嫌がる過去の爽太君に、無理やり「ゆうちゃん」と呼ばせることで、その問題は解決したわ」
気に入らないことがあったら、平手打ちも辞さない点といい、昔の虹塚先輩は、結構強引な性格だったんだな。それの成長した姿が、今の彼女な訳か。表面的には大人しくなっているが、気に入らないものは排除しようとする性格には磨きがかかっている。
くそ……! あのちょっと強引だが、可愛らしかった虹塚先輩に、記憶喪失剤といった物騒な知識を与えたのは誰だよ!? これなら、ビンタを連打して、暴れまくってくれていた方が良かった。
「今にして思えば、あの頃から爽太君は可愛かったわねえ……」
愛おしげに頭を撫でられた。不覚にも赤面してしまうが、今は真面目な話をしているのだ。虹塚先輩の手を、力加減を考えつつ払った。
「だが、その楽しい日々も、俺が記憶を失ったことで、終焉を迎えてしまうんですよね」
虹塚先輩の父親の浮気の件には触れないようにした。直視はしなかったが、先輩の顔から笑顔が消えたのは分かった。
「ねえ、爽太君。どうして記憶を失うことになったのかは、まだ思い出していないよね」
「……ええ。優香が原因ということくらいですね」
「教えてあげるわ。あの女が爽太君に何をしたのかを……」
虹塚先輩の顔が憎悪で豹変していく。先輩のたれ目が吊り上っていき、色白の顔が紅潮していくのを見るのは、正直つらいな……。