第百十話 虹塚先輩なりの、一方的な削除基準
アカリが、俺に関する記憶をすべて失ってしまった。あんなに笑いかけてくれていたのが嘘のように、他人行儀な目で見られると、つくづくそれを実感する。
何故、アカリが記憶を失ったのか。その答えは、たまたま虹塚先輩と目が合った瞬間に出た。あの全てを知っているような、犯人にしか出来ないような瞳。
間違いない。アカリから記憶を奪ったのは、虹塚先輩だ。そう理解した俺は、既に先輩の元へと走り出していた。
そんな俺をからかうように、虹塚先輩も走り出す。足は俺の方が速いのだが、校内なので、あまり全力は出せない。それを良いことに、虹塚先輩は、俺が追いつけないギリギリのスピードで、追走劇を演出して楽しんでいた。
いつまでこんなことをするつもりだろうと思っていたが、虹塚先輩が屋上に向かっていることに気付くと、そこに誘い込んで話をするつもりなのだと理解した。
ただ、屋上に行くまで、大人しく追いかけっこに徹するのも癪だったので、フライング気味に質問をぶつけてやった。
ストレートに問いただしてやると、あっさりと自分がアカリから記憶を奪ったと自供した。様子から察するに、最初から隠す気はなかったようで、屋上に着いた後で自分から話すつもりだったとみえる。
ちょうどそこで、屋上に着いたので、虹塚先輩を先頭に、無人の屋上へと躍り出た。
屋上に出ると、少し風があったみたいで、腰まである虹塚先輩の長い黒髪が優雅に舞った。
「ここはいつ来ても風が気持ちいいわね。ねえ、爽太君もそう思うでしょ?」
追いかけっこでかいた汗が額ににじんでいた。そんなにたいした距離を走った訳でもないのに、息も上がっている。あまり体力はないらしい。俺に背負い投げをかましてくれた人物でもあるから、腕っぷしはあるんだがね。
「わざわざ誰もいない場所に誘い込んだってことは、全部……、話してもらえるんですよね?」
きっと厳しい顔で虹塚先輩を睨んでいたんだろう。先輩相手にとか、そんなことを気にしている場合ではない。
「もう! せっかちさんねえ。せっかく二人きりになったっていうのに、爽太君ったら、つれないんだから」
俺の素っ気ない態度をたしなめられたが、今回は頭を下げてやらない。
「虹塚先輩は全部知っているから、余裕でいられるかもしれませんが、俺、実は結構焦っているんですよ。というより、嫌な想像をしてしまって、不安で仕方がないんです」
「あら。それはいけないわ。早く不安の元を払って、気持ちを落ち着けないと」
俺のことを心配しているようだが、全部あなたが原因なので、どうしても白々しく聞こえてしまう。
「まず聞かせてほしいのは、あなたの目的は何なのかということです」
「目的? 爽太君のお嫁さんになって、二人で幸せな家庭を築くことよ。そのためには、いかなる苦労も厭わないわ」
あっさりと言い切ってくれるな。俺は彼女持ちだというのに……。まあ、別れさせてでも、交際しようと言っているくらいなので、この程度は問題に値しないんだろう。なので、俺もツッコまない。
「どうして、記憶を消すなんて、物騒な行動に出たんですか?」
「物騒な行動? 記憶を消すことが?」
俺の質問が全く理解できないという顔で、虹塚先輩は、前髪をかき上げた。
「相手に諦めてもらうように説得するということは出来なかったんですか?」
「出来なかった……かな? 私、こう見えて、合理的な性格なのよ。手間暇かけて説得するよりも、あなたに関する記憶を消してあげた方が手っ取り早いじゃない。一度覚えたら、この方法しか考えられないわ」
話し合いで穏便に済ませるという提案は、あっさりと否定された。もし、必要以上に記憶を消してしまったり、脳に障害が出てしまったりしたらという不安はないのだろか。……ないんだろうな。これだけ、何の躊躇もなく、記憶をいじるくらいなんだから。
「まさかとは思いますが、俺のことを好きな女子全員に、同じことをするつもりですか?」
虹塚先輩が何とも言えないような甘美な笑みを漏らした。イエスってことね。先輩の表情を見る限り、目的のために仕方なく記憶を消しているという訳でもなさそうだ。心底、人から記憶を奪うことが愉快で仕方がないって顔だな。
最初は仕方なくしている部分もあったんだろうが、禁断の快感に目覚めてしまったんだな……。
虹塚先輩の優しい面を知っているので、ちょっぴり悲しくなるね。
「言っちゃなんですが、結構な数に上りますよ。一人一人記憶を消していたら、いつか虹塚先輩のしていることが、全校生徒の知るところになるでしょうね」
そうなれば、虹塚先輩は学校にいられなくなるだろう。正直、そんな姿は見たくもないので、出来ることなら手を引いてほしかったが、やはり突っぱねられた。
「私が狙うのは、アカリちゃんみたいに、爽太君のことが好きで、且つ一定以上の関係を築いている子だけよ。さすがに私だって、何人も襲っていたら危ないことくらい分かっているわ」
虹塚先輩と優香の最大の違いはここだろう。おそらく優香だったら、危険を顧みずに、俺に言い寄ってくる女子に対して、手当たり次第に記憶を消して回っていたに違いない。その行動が破滅しか生まないと知っても、彼女は止まらない。
だが、虹塚先輩は、彼女なりに慎重に動いている。もちろん、健全な人間から見れば、危なっかしいことをしていることに変わりはないが、優香に比べれば、よっぽど慎重派だ。
「優香からも記憶を奪ったんですか?」
「そうよ。昨日、爽太君たちが部屋から出ていった後、すぐに意識を取り戻して、ケースの中で暴れ出したの。強めの睡眠薬を投じてあげたっていうのにね」
行動もそうだが、ヤンデレ状態の優香は、あらゆることで常識外だな。アリスやアキを、早めにあの部屋から離したのは正解だったとつくづく思うよ。
「もう一度睡眠薬を嗅がせたところで、あの人格がある限り、爽太君の身には危険が及び続けると確信したわね」
その考えには、寸分の互いもなく同意する。今は大人しくしているが、ヤンデレ状態になったら、またひどい目に遭わされるに決まっている。向こうは、鍵を破壊してまで、侵入してくる女だからな。いつになれば安心できるのかと思うと、頭が痛くなるよ。
だが、俺は次の先輩の台詞で、別の意味で頭が痛くなることになる。
「だから、決めたの。爽太君の安全のために、あの女の凶暴な部分は、跡形もなく消えてもらおうって」
「……記憶喪失剤で?」
虹塚先輩は首を縦に振った。今回は笑っていなかった。優香のことを、あの女呼ばわりしているくらいなのだから、彼女のことを快く思っていないのだろう。俺を拉致監禁するくらいなのだから、他の女子よりもマークの目が厳しくなっているのかもしれない。もしくは、同族嫌悪……。
それよりも、人格を丸ごと消すことも可能なのか。その知識と技量を、もっと人の役に立つことに使えばいいのに、俺のためだけに費やしているのが悔やまれるな。
「もう優香から襲われる心配はないんですね」
「ええ。今夜からは安心して眠ることが出来るわ」
まだ不安だというのなら、毎晩添い寝するという申し出もあったが、そっちはやんわりと断らせていただいた。残念そうにはしていたものの、結婚すれば毎晩一緒に寝られるから大丈夫かと、前向きに考え直すところは尊敬に値する。
「爽太君は忘れているかもしれないけど、あの女に危険な目に遭わされるのは、今回が二度目なのよ?」
「二度目?」
「そうよ。海に行った時に、爽太君が私にプロポーズしてくれた後に、記憶を失ったって伝えたけど、それはみんなあの女の仕業なのよ」
「優香の……?」
「そうなのよ」
虹塚先輩は、俺が子供の頃に記憶を失った時のことを話し出そうとしていたが、それを遮った。
「ちょっと待ってください。今、俺の許嫁しか知らないことをサラッと言いましたよね……」
子供の頃に俺がプロポーズをしたのも、そのことについて海で話したのも、ただ一人だ。それを指摘すると、虹塚先輩は口元を手で抑えて、やってしまったという顔をした。
「あら、いけない! うっかり口が滑っちゃった。爽太君が気付いてくれるまで、黙っているつもりだったのに……」
「いや、これまでも、結構な数のネタバレを口走っちゃっていますよ。俺は小出しにしているだけかと思っていましたけど……」
何もここで、ドジを踏まなくても……。もうここまでくると、言い逃れも出来ないだろうな。
虹塚先輩……。あなたが、謎の許嫁「X」だったんですね……。