第百七話 はまっていく数々のピースと、はめたくない最後のピース
昨日、アリスと間違えて、虹塚先輩にキスをしてしまった。それからというものの、先輩の様子が一変してしまう。
それまでは一定の距離を置いて、年上の女性として、俺をからかっていただけだったのが、露骨に迫ってくるようになったのだ。
俺が距離をとっても、いつの間にか横に立っているという状況で、マンツーマンでずっとディフェンスされているといえば、分かりやすいだろうか。
しかも、虹塚先輩は、俺とアリスが別れることになるとまで言い出した。さすがに趣味が悪いと、ムッとして反論しようとすると、さらに奇妙なことを続けてきたのだった。
「だって……、約束したじゃない」
約束が何なのかは知らないが、一方で心臓が止まりそうなほどの寒気を全身に感じた。
どういうことなのか説明してもらいたいが、虹塚先輩は、説明が終わったかのような、満ち足りた顔でニコニコと微笑んでいる。おかげで、俺だけがちんぷんかんぷんの状態だか、先輩が俺をからかっていたり、先輩の頭がおかしくなったりしているとは思わない。
俺が覚えていないだけで、今の約束という言葉は、俺と虹塚先輩の間にだけ分かる一種の合言葉になっている気がした。ただ、それが何なのかに、思い至ってはいけないことも、頭のどこかから警告として伝わってきていた。このまま思い出さなくても、いつかは思い知ることになるが、それでもその瞬間を少しでも遅らせたいという悪あがきのようなものに思えた。
「どうしたの? 約束なのよ、約束。あなたと私の二人で、しっかりと交わしたじゃないの」
俺の反応が薄いことに業を煮やした虹塚先輩が急かしてくる。だが、俺は固まったままだ。当然、先輩が望んでいるような反応は出来ない。
「あらあら……。この期に及んでまだとぼけるのかしら……と言いたいところだけど、その顔は、本当に分かっていないのね。自分の人生にも関わることだって言うのに、幸せな子……」
憐れむような視線を向けながら、俺の方へと一歩一歩近寄ってくる虹塚先輩。
「ひどいわ! 私がどれだけこうしたいのを耐えていたと思うの? なのに、あなたときたら、約束より先に他の女の元に行っちゃうし、約束のことまで忘れているなんて。この苦しみをどう表現しろというのよ!」
虹塚先輩の口調が変わり、厳しい口調で俺を非難し始めた。重要な約束が忘れられているのが、よほど我慢ならないらしいが、まだ思い当たる節が浮かんでこない。そもそも先輩と知り合ったのはつい最近で、全ての接点を思い出して整理することは、そんなに難しいことではない。約束事の類をしたことはなかったと言い切れるのだ。
とりあえず誤っておいた方がいいのだろうかと考えていると、虹塚先輩がまた笑顔に戻った。どうやら今の怒りは半分演技だったらしい。こうやって俺をからかって楽しむところは、虹塚先輩らしい。
「……なんて言いたいところだけど、仕方のないことかもしれないわね。約束した時の私は、正体を隠していたし、声もボイスチェンジャーで変えていたもの」
成る程……。それじゃ、どこの誰か分かる訳もないか。約束と言われても、ピンとこない訳だ、ハハハ! などと笑っている場合ではない。
俺の知り合いにボイスチェンジャーを使ってまで、正体を隠すやつなど、一人しかいない。困った許嫁の「X」だ。やつとなら、約束をした覚えはある。あまり面白い内容ではないがね。
だが、「X」は優香だったではないか。虹塚先輩は関係ない筈だ。……そうに違いない。
「虹塚先輩。どんな約束を交わしたのか、教えてもらっても構いませんか? 記憶を整理してみたんですが、やはり思い出せません」
また怒られるかもしれないと覚悟していたのだが、予想に反して、虹塚先輩は穏やかな表情のままだった。
「……答えを教えてあげたつもりなのよ? 爽太君ったら、焦らすのが上手ね。それとも、本当は思い当たる節があるんだけど、頭がそれを拒否しているだけじゃないのかしら?」
虹塚先輩の言葉は、穏やかで丁寧だが、否定させることを許さない迫力があった。
「ちょっと時間をあげるから、もう一度考えてみなさい。私が教えてあげてもいいけど、出来れば爽太君の口から、直接指摘してほしいのよね」
「……思い出せるか分かりませんよ。場合によっては、このままバックれる可能性だってあります」
全くの勘だが、約束の内容は、俺にとってあまりよろしくないものに思えた。虹塚先輩の、アリスと別れるという発言が、どうしても気になるのだ。内容次第では、思い出せない振りをして、先輩の前からやんわりと消えることだってアリだ。
「そんなことはしないわ。爽太君は、約束したことをしっかりと思い出して、私と交際を始めることになる。そう信じているもの」
「信じる……、ですか」
「ええ」
なんて晴れ晴れとした顔で頷いてくれるのだろうか。その一片の曇りもない真っ直ぐな感情を向けられるのが、どうも恐ろしい。
「さっきは早く思い出してほしくて、つい急かしちゃったけど、駄目みたいだから、そんなに焦らなくてもいいわ。私も用事を思いついたから、時間を置くことにしましょう。よく考えてみたら、思い出しても、気持ちを整理する時間が必要だものね。それじゃあ、私は、もうお暇するわね。爽太君の都合の良い時でいいから、改めて約束の件について話し合いましょう。結末は変わらないけどね」
気持ちを整理するという下りが嫌に引っかかった。あと、虹塚先輩の用事というのもだ。どうも、プリントを仕上げるとか、日直の仕事をするとか、そういう類の用事ではない気がする。
約束というのは、虹塚先輩にとっては重要だが、俺にとっては有害。このままこの人を見送ると、ろくなことにならないという気が、漠然とした。根拠はない。
「? 何かしら」
気が付いたら、用足しに向かおうとする虹塚先輩の腕を掴んでいた。
「それはこっちの台詞です。一体何をするつもりですか? 用事って、一体なんです?」
「もう! 爽太君は、女性に対して、デリカシーがないわよ。そういうことをずけずけと聞いちゃいけないわ」
いつもの調子で流そうとしてくるが、目の前の虹塚先輩は、いつもの彼女ではない。だから、悪い言い方をすれば、信用が出来なかった。
睨み合うとまではいかないが、じっと虹塚先輩を見据える。俺が本気なのは通じたかと思うが、彼女ははぐらかすことに終始した。
「用事の内容は、まだ内緒……。でも、私たち二人の将来にとって、有益なことよ」
その将来という単語が、俺の不安を掻き立てているんですよ。分かった上で、言ってますよね?
「だから、今は私のことを見逃してもらうわよ。少々力に訴えてでもね」
「え?」
声を出した時には、俺の体は宙を舞っていた。突然ぐいと体を引き寄せられたかと思うと、背負い投げの要領で放り投げられてしまったのだ。
「ごめんね。本当はこんな手荒なことはしたくないの。私だって、本望じゃないのよ」
床に叩きつけられて、放心状態の俺に向かって、虹塚先輩が諭すように話した。そして、彼女の気配が遠のいていく。
「虹塚先輩!」
起き上がって、周りを確認するが、虹塚先輩の姿は、もう見えなかった。移動するのが早過ぎる。というか、また気配を消したのかよ。忍者か、あの人は⁉︎
授業の開始を告げるベルが鳴っているが、そんなものに構っていられない。きっと虹塚先輩も、授業など無視して、用事とやらを遂行する気だろう。
昨日のキスが、何かのスイッチだったのは確かだ。アレを機に、虹塚先輩はおかしくなってしまった。
今の背負い投げと言い、おっとりという言葉が似合う虹塚先輩には、似つかわしくない言動の連続だ。あれじゃまるで……。
頭に浮かびそうになった悪い想像を全力で振り払う。そんな訳が……、あるか!
しかし、否定しようとしつつも、ある一つの回答が、だんだんと俺の中で明確化されていくのは避けようのないことだった。