表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
106/188

第百五話 イタズラなキスの行方と、リクエスト

 帰宅すると、アリスが俺のベッドですやすやと気持ちよさそうに寝ていた。室内は真っ暗で、顔を確認した訳ではないが、状況的に今いるのはアリスで間違いないだろうと、安直に結論付けてしまった。


 そして、軽いドッキリのつもりで、アリスを早合点した女子に、唇を重ねてしまったのだ。


 結果から言うと、相手はアリスではなかった。それは、キスが終わった後、アリス本人からの電話で判明したのだった。


 ということは……、俺はアリスとは全然関係のない女子とキスしたことになるのか? つまり……、浮気? いやいや、間違えただけだ。本心でキスをした訳じゃない。


 心臓が次第に鼓動を速めていく中、寝ていた女子に動きが見られた。


 寝返りを打つかと思うようにゆったりとした動きだが、確実に起きている。いつから? 俺がキスした時点では、既に起きていたのか?


 こっちからキスをしておいて何だが、どのタイミングで起きていたのかが、この場合、非常に重要なことだった。


 冷や汗が過去最高速で流れる中、寝ていた女性が上半身をムクリと起こしたのだった。俺の心臓は、止まりそうになったり、かと思えば激しく脈打ったりと、地面へと乱暴に叩きつけられたスーパーボールのように規則性なく縦横無尽に暴れ回っていた。


「……爽太君?」


 眠そうな声を出して、目元をこすっているのは虹塚先輩だった。まだ帰っていなかったんですね……。


「お、おはようございます……」


 上ずった声で、夜なのに、朝の挨拶をする。直立不動で、斜め四十五度の敬礼をしたのが、我ながらかなり不自然だ。そんな俺の滑稽な姿を寝起きに見ながら、虹塚先輩はクスクスと含み笑いを漏らした。


 優雅にほほ笑む虹塚先輩とは対照的に、俺の頭は罪悪感で一杯だった。やってしまった。アリス以外の女子と……、よりによって、上級生とキスをしてしまった……。


「ああ、これ、爽太君のベッドよね。勝手に寝ちゃって、ごめんなさいね。横になってみたら、寝心地が良くて、ついね」


 俺の様子がおかしいのを、自分が他人のベッドで寝ているせいだと勘違いした虹塚先輩が、慌てた様子で立ち上がる。いや! そういうことじゃないんですよ。それは俺に対しても言えることだ。


 虹塚先輩に謝ってキスしたことを棚上げする訳ではないが、彼女の様子を見るが限り、気付いていないようだ。きっと目覚めたのは、俺がキスした後なのだ。都合が良いような気もするが、もし気付いていて、この落ち着きようだとしたら、虹塚先輩はたいした役者だよ。


 だったら、下手に謝って、地雷を踏むような真似をすることもあるまい。それよりも、本来すべき質問をさせてもらう。


「虹塚先輩。怪我はありませんか!」


「怪我?」


 とろんとした瞳で俺を見つめている。こっちが何故こんな質問をしているのか、分かっていないのだ。


「ここに来る途中に、キャリーケースの中に閉じ込めていた筈の優香が、元気に街を歩いているのを見つけたんですよ。だから、虹塚先輩が、彼女に危害を加えられていないのか心配していたんです」


「ああ、そのことね」


 俺の説明を聞いて、ようやく納得してくれたようだったが、出来れば、指摘されるまでもなく思い至ってほしい。


「いつの間にかね。キャリーケースの鍵が開いちゃっていたの。そこから彼女は出てきたのね」


「な……!? しっかり閉めた筈ですよ!」


「でも、開いていたのよ! 言っておきますけど、私は今回何もドジを踏んでいませんからね!」


 虹塚先輩を疑っている訳じゃないのに、何故か憤慨されてしまった。いくら先輩だって、優香を解放したら、危険なことくらい理解しているだろう。自分から開けたりしないことは、よく分かっていますよ。


 そうなると、やはり俺の閉め方が悪かったということになる。


 全く……! キャリーケースの閉め方は甘いわ、寝ているところにキスをするわ。命の恩人ともいうべき虹塚先輩に対して、どれだけ恩を仇で返せば気が済むのだろうか。


 最低という言葉が当てはまる俺は、虹塚先輩に向かって、深々と頭を下げた。この時点で、実は虹塚先輩が、わざと優香を解放したことは知らない。


「すいません……」


「爽太君が謝ることじゃないのよ。だから、頭を上げて頂戴」


 平身低頭謝る俺に、虹塚先輩は優しく声をかける。あれだけのことをされておいて、俺に笑顔を向けてくれるなんて……。


 大げさな表現かもしれないが、虹塚先輩が天使か女神に見えてしまった。


「それでね、出てきた彼女を見て、私もさすがに覚悟を決めたんだけど、すっかり毒気がなくなっちゃっていたのね。キョロキョロと室内を見回していたかと思ったら、そのまま出ていっちゃったの」


「そのまま出ていったんですか?」


「彼女に監禁された爽太君としては、いきなりこんなことを言われても、手離しで信用は出来ないわよね。でも、この室内を見て。爽太君が出ていった時と比べて、荒らされているかしら」


 携帯電話の明かりで照らされた室内を見ると、確かに部屋を出た時と変化がない。虹塚先輩が破壊の限りを尽くした後が、相変わらず目立っている。


「もう! それは放っておきなさい!」


 思ったことを正直に指摘すると、虹塚先輩は赤面しながら、俺の発言を止めてきた。その仕草は、ちょっと可愛かったりする。


「とにかく虹塚先輩の身に、何も起こらなくてホッとしました」


「私もよ。何といっても、自分の体ですもの」


 二人で顔を見合わせて笑いあいながら、互いの無事を讃えた。


「あ、せっかくだから、何か飲んでいきます? こんな状態ですけど、缶コーヒーを買い置き用に買ってきたんですよ」


「そう。それなら、一本いただこうかしら」


 いつも愛飲している甘めのものを勧めたのだが、無糖をリクエストされたので、鞄の中をまさぐって探した。その際に、道で拾った注射器まで零れ落ちてしまった。


「あっ……!?」


 慌てて拾おうとしたが、虹塚先輩の手がわずかに早かった。


「これは……」


「あ、こ、これはですね……」


 俺は必死に言い訳を考えるのに頭がいっぱいで、注射器を見つめる、虹塚先輩の鋭い視線に気付かないでいた。


「駄目よ……。注射器なんか健全な男子高校生が持っていちゃ……」


 俺が気付かない内に、鋭い視線は鳴りを潜めて、いつもの声色で、俺のことを優しく諭した。


「あの、これは俺のじゃなくて……」


「今回は見なかったことにしてあげるから、ね?」


「は、はい……」


 途中まで言いかけた言い訳も、いつもの調子で押し切られてしまう。まあ、責めるつもりもないみたいだから、いいかなと納得してしまう。


「……これには頭の中が真っ白になる液体が入っているんだから、爽太君は持っていちゃ駄目」


「え? 何か言いました?」


「いいえ。何も言っていないわよ」


 おかしいな。何か呟いていたような気がしたんだが。でも、虹塚先輩が何も言っていないというのなら、その通りなのかもしれないな。


 頭を捻る俺をよそに、コーヒーを飲み終えた虹塚先輩は、おもむろに立ち上がった。


「もうこんな時間だし、帰ることにするわね。遅くなるとお母さんにまた怒られちゃうもの」


 そういえば、ここには酒の配達の途中で立ち寄ったと言っていたっけ。成り行き上とはいえ、こんなに長居させてしまって、これまた申し訳ない。


「配達の話は嘘よ。本当は、天気が良いから、散歩していただけ。そうしたら、偶然鎖で封鎖された爽太君の家の近くを通ったの」


「そうだったんですか……」


「そうよ。お酒も何も持っていなかったでしょ。手ぶらで配送なんておかしいじゃない」


 言われてみれば。


「ああ、それからね。爽太君に一つリクエストがあるの」


「何でしょうか?」


 虹塚先輩に熱いまなざしで見つめられて、お願いするような口調で言われると、ドキッとしてしまうな。俺にはアリスがいるのに。


「出来るなら、次は起きている時に、熱いキスを頂戴ね」


 言われた瞬間、全身の毛穴が開いたような感覚に襲われた。ようやく落ち着いてきていたのが、今の一言で一気に吹き飛んでしまった。


「起きてた……」


 彼女と間違えて、先輩にキスしてしまったという失態を、改めて突き付けられた気がして、思わず脱力してしまった。


 もう何も言えずに、俺が口づけをした唇を愛おしそうに撫でながら、去っていく虹塚先輩の歩き去る姿を見ていることしか出来なかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ