第百四話 終幕へのカウントダウンは、キスにて始まる
夕食を食べ終えて、廃墟と化している自室を掃除しようとアリスだけが張り切っている状態で、帰路についていた。
アリスは、かなりその気になっているが、生憎俺は面倒くさくて仕方がない。早めに掃除を切り上げて、アリスとまったりしたいと考えを巡らせていると、キャリーケースに押し込んでいた筈の優香が歩いているのを目撃してしまう。
そんな馬鹿なと、目をこすって、もう一度見返したが、あの胸にかかっている三つ編み。パッチリと開いた大きな眼。全体的に痩せ気味なのに、胸元だけ膨らんだアンバランスだが、異性の注目を浴びるスタイル。間違いない。歩いているのは、優香だ。
さっきまでその優香に拘束されていた身としては、早急にその場を立ち去るべきなのに、アリスを先に帰らせて、話しかけてみることにした。どうしてそこまで興味を持ってしまったのかは、俺にもよく分からない。
話しかけてみると、優香は、ここ数日俺にしたことは全く覚えていないようだった。この子は多重人格気味なところがあるので、俺を拘束していた時とは別の人格が出てきたんだろうと片づけることにした。
「なんかね! すご~く気持ちが良いの! 悪い夢から覚めたみたいな気分!」
「へえ、そりゃ良かった……」
ミュージカルのように両手を広げて、スキップを思わせる軽い足取りで、自分の開放感を演出して見せた。
俺は圧倒されつつも、苦笑いで誤魔化した。悪い夢から覚めた気分か……。それ、むしろ俺に対して当てはまるわ。
うん、間違いない。俺を監禁していた時のことなど、すっかり忘れている。あれだけのことをしておいて忘れるんじゃねえよという気持ちもない訳ではないが、監禁していた方の優香と遭遇するのを考えたら、仕方ないかと納得してしまう。
「さっきから難しい顔をして、私のことを見ているね。何か言いたいことでもあるの?」
「いや……、何でもない」
おっと! あまり女子の顔をじろじろ見るものじゃないな。ここは笑顔で誤魔化そう。優香は、そんな俺を不思議そうに見ていたが、またニッコリと目を細めた。しかし、その笑顔は、瞬時に凍り付くことになる。
突然、優香の携帯電話が鳴ったのだ。すると、そこまで驚くことないだろうと言いたくなるくらい大袈裟に、優香が飛びのいたのだった。
「わわわ! またお母さんから電話だ」
冷や汗を流しながら、携帯電話の画面を見て固まる優香。俺に申し訳さ相に一礼してから、電話に出ると、一心不乱に謝り通している。
何だ? 母親からの電話がそんなに怖いのか? とは思ったものの、電話の内容はすぐに分かった。ずっと家に帰っていなかったので、その件で説教をされているのだ。ヤンデレの方の優香なら、売り言葉に買い言葉で言い返すのだろうが、普段の優香に、そんな気概はなく、ずっと謝り通しだった。
「今、家に向かっているから。もう少しで帰るから。寄り道なんてしていないよ。嘘じゃないって!」
俺を監禁していた時とは、百八十度変わった優香の様子を見て、何となく噴き出しそうになってしまったが、どうにか堪えた。
電話の後、「信じてくれるか分からないんだけと……」という前振り付きで、優香の説明が始まった。俺からすれば、さっきまで俺を監禁していた少女の心変わりが、もっとも信用出来ない事柄に該当するのだが、敢えて口にせずに、優香の話に耳を傾けた。
「何かね。ここ数日、家出をしていたみたいなの。でも、私にはその間の記憶がないから困っているのよね」
「それは記憶喪失的なことなの?」
俺の質問に、優香は力なく頷いた。ついさっき道端で記憶が戻ったらしく、携帯で時間を確認したら、数日時間が経っていて驚いているとのこと。慌てて親に連絡を取ると説教が始まってしまい、かなり疲弊しているらしい。そりゃあ、あれだけ家を空けていれば、まともな親なら怒るよな。
「しかも、知らない内に親からの着信拒否設定にしていたみたいで、どうしてそんなことをするんだって怒られて。でも、記憶が抜け落ちているから、上手く説明出来なくて。そうしたら、また怒られて……」
「へえ……」
あっちの優香が、俺の監禁中に、母親からの電話に出るとも思えないからな。着信拒否にしたのは、あいつで間違いないだろう。
「怖いこともあるんだな。病院で一度診てもらった方が良いんじゃないのか?」
「爽太君、信じてくれるんだ……」
「まあね」
ここ数日、お前と一緒にいたんだ。信じない訳もないだろう。もちろん、今の優香に話すことはしないがね。あと、病院に行ったところで、医者にどうにか出来るとも思えないから、俺のアドバイスはすぐに忘れてくれていいぞ。
「あ、また電話……」
また母親からの電話らしい。さっきかけてきたばかりなのに……。ずっと音信不通だった娘が心配なのは分かるが、ずっと通話状態にしていた方が早いのではないだろうかと思ってしまう。
「え、えっとね……。ごめんなさい! お母さんがうるさいし、私、もう帰らなくちゃ!」
「ああ、そういうことなら、仕方がないね。もっと話していたかったけど、日を改めて話そうか」
「ええ!」
嘘だ。本音を確認するまでもなく、もう会いたくない相手だ。ただ自分の気持ちをストレートに伝えると角が立つから、社交辞令で誤魔化しているだけのことだ。
俺からそんなひどいことを考えられているとも知らずに、優香は笑顔で手を振りながら走り去っていった。彼女と会うのはこれを最後にしようと思っていると、優香が何かを落とした。優香はそれに気付かずに、足早に去っていく。
「お~い! 優香……」
優香を呼び止めようと声を出したが、途中で思いとどまる。野暮だとは自覚しているが、何を落としたのかが気になったからだ。
落し物に気付くことなく去っていく優香の後ろ姿を眺めながら、心の中で詫びつつも、落し物を拾い上げる。
「注射器……?」
優香が落としていったのは、空の注射器だった。さっき使ったばかりらしく、針の先端がまだ濡れている。何の液体かは不明。匂いはしなかったし、舐めて確かめるほど、俺は間抜けではない。
「毒……、じゃないよな」
今声を出せば、まだ優香を呼び止めることは可能だったが、それは止めた。せっかく穏便に済もうとしているのに、敢えて地雷を踏みに行くこともあるまい。注射器をポケットに入れると、俺は歩き出した。
途中で何気なくメールを確認すると、アリスからの着信が一件入っていた。確認すると、『早く二人きりになりたいから、とっとと帰ってくるように!』と書かれていた。うむ、抱きしめたくなるようなことを言ってくれるね、俺の彼女は。
そういうことなら、俺も急がないとね。自然と足が軽くなり、知らない内に鼻歌まで口ずさみながら、帰路を急いでいた。
帰宅した俺は、自室のドアのところで立ち止まる。いつもの癖で、思わず玄関から入りそうになってしまったというのもあるが、今は鎖のかかっている自室のドアをまじまじと見たかったというのもあった。
改めて目にしたが、やはり不気味だ。鎖がかかっていることを、あらかじめ知ってこれなのだから、何も知らない隣人たちの目には、さぞかし不気味に映ったことだろう。
「部屋の中よりも、まず玄関ドアか」
近所づきあいなど皆無に等しいが、それでもあらぬ誤解を持たれるのは良い気がしない。
窓ガラスへと回って、「ただ今」と言いながら、部屋に入る。今更なことだが、自分の家なのに、泥棒みたいな侵入をしているよな。こんなことを彼女にやらせていると思うと、何か申し訳なくなる。
もう一度、「ただ今」と呼びかけたが、先に戻っている筈のアリスからの返事はなかった。それどころか物音もしない。
それだけなら、不安になることもないが、さっき拘束していた筈の優香が、外を歩いていたのを見ている。そのため、ちょっとだけ心臓がチクリとした。
だが、その不安は杞憂だと、すぐに思い知る。ベッドで横になっている女子の姿を見つけたからだ。
「寝ているよ……」
先に部屋の掃除を始めているとか言っておきながら、すやすやと寝息を立てるなんて、まだまだお子様だな。アリスを起こさないように、クスリと笑いをこぼしつつ、顔をそっと近付けた。
お姫様を起こすのに言葉は必要ない。キスで十分……。不意打ちの様な気もしたが、自分の彼女なんだし構わないだろうと、そっと唇を重ねた。自分でも馬鹿なことをしているという自覚はあったが、さっきのアリスからのメールで、気持ちが盛り上がっていたのかもしれない。
寝ている彼女にそっとキスをするのも良いものかもしれないな。好きな子にイタズラをするのに似た快感があるね。
だが、何だろう。互いの唇を重ねた時の感触……。いつもと違うような……。
少し不審に思ったが、気のせいだろうと考え直し、もう一度押し付けるようにキスをした。しばらくの間、彼女と繋がっているのを感じた後で、唇を離す。
その時、雰囲気をぶち壊すかのように、呼び出し音がした。慌てて、電話を取ると、アリスからの着信だった。って、え……? アリスはここにいるじゃないか。
『あ、爽太君。私!』
「アリス?」
『ごめんね。そっちに行く途中、お母さんとばったり遭っちゃって、そのまま買い物に付き合わされることになっちゃった。そっちに行けそうにないから、片付けは明日以降でいいよね』
「いや、そう言うことじゃなくて……」
俺が声を出そうとすると、電話の向こうで母親と思われる女性が、アリスを呼ぶ声が聞こえた。アリスはその女性に向かってすぐ行くと声を張り上げた後、俺にもう一度謝って、一方的に電話を切ってしまった。
通話の終わった携帯電話を耳に当てながら、俺はしばらく呆然と立ち尽くした。アリスはここに来ていない? じゃあ、今俺は誰にキスをしたんだ……? 拘束していた筈の優香が、元気に外を歩いていたことといい、さっきから不可解なことばかり起こり過ぎだろ。