第百三話 反省しない虹塚先輩の、危険なアフターケア
無事に監禁状態から脱出して、アリスたちとも再会を果たし、俺はひたすら安堵の息を吐いたのだった。
アリスの提案で、腹ごしらえとわれてしまった食器の買い出しのために、外出することになった。ここ数日、監禁されていたせいで、外と隔絶された生活を強いられていた俺は、しばらくぶりの外出に、心が浮きだっていた。
「戸締りはどうします?」
鍵が壊れたせいで、施錠できなくなった窓ガラスを指差しながら、アキが聞いてきたが、どうしようもあるまい。
「閉められるところは閉めていくが、窓ガラスはそのままでいいや。玄関の鎖と一緒に、後日どうにかするよ。どうせこの部屋に、泥棒が盗んで得するようなものはほとんど残っていないからな」
「そう言って、時間ばかりがダラダラと過ぎていくパターンですな」
「放っとけ」
アキといつもの調子で、互いを罵り合いながらの会話をしながら、部屋を後にする。おそらくここに戻ってくる頃までに、虹塚先輩はここを離れるだろう。優香は面倒くさいが、実家の前まで運ぶか。キャリーケースに入っているから、持ち運びには不自由しないところがいいね。
部屋を出る時に、アリスたちに気付かれないように、虹塚先輩に向かって、ガッツポーズをする。向こうが見てくれているかどうかは知らないが、今の内に出てくださいという俺なりの意思表示だったりするのだ。
外に出ると、当たり前のことだが、結構な数の人がいた。いつもは煩わしく感じるのに、久しぶりに見ると、それなりに懐かしく思ってしまう。
「それで何を食べる?」
「焼肉! 中華の満漢全席でも可!」
「お前には聞いていない。そんな余分な金も持ち合わせていない」
「ああ、そうか。貧乏でしたもんね。えっと~、この調子で、罵ればいいんでしたっけ?」
お前に罵られるとイライラすると、さっき言ったばかりだろ。口を滑らせた振りをして、嫌がらせをしてくるんじゃねえ。
「ここから少し歩くけど、天ぷらが美味しいお蕎麦屋さんを知っているから、そこに行こうか」
「そこにしよう」
そんなに高くかからない蕎麦をチョイスしてくれる辺りに、アリスの優しさを感じる。アキも、「蕎麦~!?」などと、唇を尖らせていないで、姉のこういうところを見習え。
俺たちが外出した後、虹塚先輩は目論見通り、ベッド下から這い出してきていた。軽い柔軟体操をして、凝りをほぐすと、先輩は部屋を見回した。
「改めて思うけど、我ながら派手にやってしまったものね……」
己の行為の爪痕を見て、罪悪感には駆られる……ことはなかった。そんなことで反省してくれるような性格ではなかったりするのだ。むしろ、自分の行いをうっとりと回想しているような感すらあった。
「こんなに派手にやっちゃったのは久しぶりね。家では、お母さんが食器類には触らせてくれないもの」
ここで新事実が発覚した。そして、出来れば、もうちょっと早く発覚して欲しかった。そうすれば、ここまでの被害を被らずに済んだだろうに。
「さて。楽しく遊んだ後は、お片付けをしなくちゃね」
自分が散らかした分は責任を持って片づける。当たり前のことだが、虹塚先輩が言うと、どうもずれて聞こえるんだよな。
携帯電話の淡い光を頼りに、未使用のゴミ袋を失敬すると、そこに割れた食器類を入れ始めた。そこでキャリーケースが、内側から強く蹴られたのだった。その場に居たのが俺だったら、ビックリして飛びのいたかもしれないが、虹塚先輩は、それにも動じない。
「あら……。しばらく寝ていてもらおうと、原液を使ったのに、もうお目覚めなの?」
眠らせたばかりの優香が、もう目覚めたことがお気に召さないらしい。ビックリはしていないが、イラッとはきているようだな。
キャリーケースが何度も乱雑に蹴られていることから、寝返りの類ではないのは明らかだ。
「どうしたものかしら。キャリーケースに入れておけば、向こうは何も出来ないでしょううけど、こんな音を立てられたら、不審に思った隣人から警察を呼ばれてしまうかも……」
この状況で警察が突入してきたら、真っ先に疑われるのは自分だ。それは不味い。だからといって、キャリーケースを開けたら、自由になった優香と揉み合いになるのは必至。キャリーケースを開けずに、外から衝撃を加えても、なかなか大人しくはならないだろう。
「どうしたものかしら」
虹塚先輩は、もう一度呟くと、自身の荷物をまさぐり始めた。しばらく手を動かし続けていたが、良い物を見つけたらしく、先輩の表情がパ~っと明るくなった。
「あら! とっておきのものがあったわ。これを使えば、万事解決!」
うふふふと愉快そうに微笑みながら、キャリーケースの中で抵抗を続けている優香の元へと近づく。
「どうせ、ここで大人しくなっても、日を改めて、また爽太君の前に顔を出すんでしょ? 性懲りもなく……。それなら、いっそこれを使っちゃいましょうか……」
虹塚先輩が見つけたのは、謎の液体の詰まった注射器だった。それを右手に持ち、もう片方の手で、キャリーケースを開けてしまった。
次の瞬間、待ちかねたように優香が飛び出してきた。彼女の眼は、獲物を狩る肉食動物のように獰猛な光を讃えていた。
解放された優香の魔の手は、いずれ俺やアリスにも及ぶだろうが、まず向かったのは、目前にいた虹塚先輩だった。
しかし、そんな危険な矛先を向けられているというのに、虹塚先輩は、相変わらず笑みを讃えていたのだった……。
再び俺とアリス、加えてアキに、場面は移る。
「ふむ……。最初はダイエット中だから、適当な理由を付けて、蕎麦にしたのかなって思ったけど、なかなか美味しい店だったじゃないですか」
「ていうか、ダイエット中なのか?」
「ダイエット中なのよ」
店から出てきた俺たちは、割れてしまった分の食器を買い直していた。百円ショップを巡ったおかげで、なかなかお洒落な新品の食器が袋一杯に見つかった。
「ちょっと遅い時間になっちゃったけど、割れてしまったのと交換しましょうか」
「え、今から?」
「当然よ。いつまでもあんな状態でいる訳にはいかないでしょ。少しでも早く整理整頓しないと」
明日やるつもりでいた俺は、内心げんなりしていたが、アリスに不平を言うと怖いので、曖昧な笑みで誤魔化した。アキはというと……、あの野郎……、面倒くさくなった途端に、どこかに雲隠れしやがった。
「前々から思っていたことだけど、爽太君って、整理整頓がなっていないわ。良い機会だから、徹底的にやるわよ。終わった後は、きれいになってビックリしちゃうから、心の準備を欠かさないでね」
徹底的……。ただでさえ面倒くさいのが、さらに億劫になってしまった。当然、俺はこき使われることになるんだろうな。
どうにかして、この場を切り上げられないかと、無駄な足掻きを考えていると、人混みの中に、優香を見つけた。
あれは……、優香!?
目を拭って、もう一度見てみるが、やはり優香だ。
キャリーケースに閉じ込めている筈の優香が、なぜこんなところを歩いているのだ。
「アリス……。ちょっと用事を思い出した。悪いが、先に戻っていてくれないか?」
「え? それなら、私も一緒に」
「すぐ終わるから。それに出来れば、一人の方がいい」
アリスは怪訝な顔をしていたが、一応承諾はしてくれた。アリスの姿が人の波に消えるのを確認してから、優香へと近づく。
「あれ、爽太君?」
こっちから声をかけるより先に、優香の方から笑いかけてきた。
俺に襲いかかってきた時の凶暴な一面は、微塵も感じられなかった。というか、俺を監禁されていたこと自体を丸々忘れているようだった。
「えっと……」
俺の顔を見るなり、掴みかかってくることも危惧していただけに、こうも邪気のない顔で見られると、却って反応に困ってしまう。
「どうしたの? そんな変な顔をして。爽太君はイケメンなんだから、もっと笑わなきゃ!」
「そ、そうだな。ハハハ……」
促されるままに笑いながらも、気は重かった。
おそらくヤンデレではない方の優香が出てきたのだろう。いや、というか、拘束した筈なのに、どうして自由になっているんだ?キャリーケースは内側から開かないようにしていた筈だぞ。
いろいろ嫌なことが頭をよぎったが、それ以上に心配なのは、こいつに付き添っていた虹塚先輩の安否だった……。