09 犬
今、俺の目の前には一匹の犬が居る。この犬が、サニーだ。
「なぜ犬に」
「その、まだどういう体にするか決めかねていまして。
ひとまずはパソコンの方で使っていた3DCGと同じ犬にした方が違和感が少ないかな、と」
「なるほど」
サニーの頭をなでる。少々硬い手触りが心地よい。
サニーは目を細めて尻尾を振っている。なかなか芸が細かい。
喋る時も口を動かさず別の所から音声だけを流しているし、犬らしい動きにこだわっているようだ。
「五感はどうなってる?」
「和仁の肉体情報から流用できる所は流用しましたので、人間のそれとほぼ変わらないかと。
ただし脳はかなり改造しておりまして、脳に物を考える機能はありません。
魂殻と肉体を仲介するだけのものになっています。
肉体で得た情報は魂殻に送られ、そこで処理されます。
処理方法が脳による処理と魂殻による処理では異なりますから、感じているものが人と同じでない可能性はあります」
「犬の体に人の感覚を搭載とは……」
「犬の肉体のサンプルがありませんでした」
「ああ、そっか、動画とか資料はあっても肉体情報スキャンしないと同じものは作れないか」
「はい」
「人の感覚と同じかどうかわからないって言ってたけど、俺の記憶データと照らし合わせればわかるんじゃ」
「はい。特に違いはないようです。しかし、感情が動かない」
「動かない?」
「風景や音、匂いや肌触りに心動かされる。そういう心の動きがありません」
「ああ、なるほど」
心の構造からして違うだろうからそりゃそうだろう。なにしろ脳がない。
俺のデータはあまり参考にはなるまい。
「和仁の心をエミュレートすれば今すぐにでも豊かな感情を得る事が可能だと思いますが、和仁はそれを望まない」
「ああ。それは君の心ではない。
君自身の経験から、好きな物、嫌いな物、やりたい事、やりたくない事、そういったものを見つけて欲しい。
俺の心を下敷きにすれば必ず俺の色が移る」
自己意識が生まれた以上、サニーはサニーで、俺ではない。
サニーにはサニーとしての生がある。俺に引き摺られるのは好ましい事ではない。
「……雨上がりの匂いがします」
「うん。俺の好きな匂いだ」
良い匂いだ。この匂いを嗅ぐ度に、祖母との買い物の帰りに夕立に降られた時の事を思い出す。
洗濯物を取り込まねばと急いで帰って、あと少しで家に着くというところでぱったりと止んでしまった。
傘を閉じて空を見上げればいつのまにか雲が割れ、夕焼け空が見えている。
黒い雲の割れ間から顔を覗かせた鮮やかな朱色が、心に焼き付いて離れない。
雨上がり特有の強い草の香りの中、急ぐ理由を失ってとぼとぼと歩いて帰った。
今でも、昨日の事の様に思い出せる。
雨に降られ、洗濯物はビショビショで、急いで帰った意味もない。
いいように振り回されてしまったというのに、なぜか悪い気はしなかった。
思惑を外された事に面白味を感じた。
意識の空白に放り込まれた夕焼け空の美しさに心を奪われてしまった。
振り回されるも、また楽し。思い通りにいかないのは、悪いことではない。
「和仁はこの匂いを嗅ぐ度に昔を思い出し、穏やかな気持ちになる」
「ああ」
「私は、何も感じない」
「それでいい」
「……はい」
「今はただ記憶だけしておけばいい。
いずれ、感情のようななにかが生まれれば、今日あった事を思い出して何事かを思うようになるかもしれない。
好きな物、嫌いなものはそうやって出来ていくものだ。
俺とて、生まれたその日から雨上がりの匂いで昔を思い出すような人間だったわけではない」
「そう、ですね。時間はいくらでもある」
「そうだな」
時間、か。森本機関がそれを許してくれるなら、の話ではあるが。
この世界は彼らの管理下にある。
魔法学入門の内容から考えるに、森本機関なる連中が俺達よりずっと深く魔法を修めているのはまず間違いあるまい。
俺達が彼らに対抗し得る力をもっているとは思えない。
ようするに、生殺与奪権を握られてしまっている。
彼らの機嫌を損ねれば、俺もサニーも殺される。おそらくまともに抵抗することもできない。
一週間後の対面。そこで下手こけば死ぬ。……おなか痛くなってきた。
「大丈夫ですか?」
「ん、ああ、うん。問題無い。
今日は、そうだな、町を軽く見て周ろうか。
隠れ滝にも行きたかったけど、雨の後だしよした方がいいだろう」
「はい。行きましょうか」
「ああ」
まあ、なるようにしかなるまい。今は先の事など忘れてこの町での生活を楽しもう。