02 不自然
ここに来てから二週間が経った。いくつか解った事がある。
第一に、人が居ない。
隈なく探したとは言えないが、相当な範囲を見て回った。
しかし一度も人に会う事はなかった。
第二に、俺が意識的に手を加えたもの以外は何時の間にか元通りになっている。
後になってから気づく程度であるから、即座に元通りにというわけではないらしい。
戸棚から出したコップはそのままであるし、開け放った戸は開いたままだが、足跡が残っていなければおかしいところに足跡が無い。
遠回りするのが面倒になって草むらになっていた空き地を突っ切った際、靴裏に泥が付いたはずなのだ。感触もあった。
しかし、靴が全く汚れていない上に、空き地にも、そのあと歩き回った道路にも何の痕跡も無い。
意識して泥に足形をつけてみたところ、靴にこびりついた泥も泥についた足跡も一昼夜経ってもそのままであった。
第三に、前項と少し内容が被るが、どうやら俺が意識的に手を加えない限り何も変化しない。あるいは変化が小幅に留まる、または巻き戻る。
よく世話になった親戚の家に入った際、火にかけたままのヤカンを見つけた。まあそういう事もあろう、と深く考えず家をあとにして、一時間ほど経った頃、ふと吹きこぼれていないか気になった。
考えてみれば自分以外にあの家には人が居ないのだ。吹きこぼれるどころの話ではない。空焚きになっているかもしれない。火事になる恐れもある。
慌てて引き返してヤカンを確認してみると、機嫌よく口から蒸気を出していた。
ヤカンには中ほどまで飴色の液体が入っており、気分の落ち着く良いにおいがした。麦茶だ。
プクプクと泡は浮いているものの、まだ沸いたとは言えない。
一時間以上も火にかけていたとは思えない状態だった。
とりあえず火は止めた。
祖母の家に帰ってお茶を沸かしてみると、問題なく沸いた。
恐らくコンロのつまみをちょっと捻って火力を変えてやるなどすれば、あの麦茶も沸いたのではないか。
第四に、人以外の動植物はこれらの法則にしばられない。
青かったトマトが食べごろになり、庭にセミの死骸を見つけ、それを蟻が運んでいくのも見届けた。
彼らには、正常な時間が流れているように思える。
第五に、どうも環境が整備されている気配がある。
前項に気づき、いずれこの町が自然に飲まれるのではないかと危惧していた頃、近所の花壇の花が元気に咲いているのに気付いた。
夏の日差しにさらされ、水遣りをする人もなく、雑草なども生えるに任せている。そのはずであるのになぜ初日と同じく元気に咲いているのだろうか。
池は濁らず、埃は溜まらず、雑草が生い茂る事も無く、ここに来た当初の姿を保っている。
どうも、巻き戻る以外の形で、他の生物にも手を加える形で、環境に手が加えられているようだ。維持しようという意図が見える。
不自然な世界である。何者かの意思を感じる。
俺を、この世界に変化をもたらす事を許した人間として例外視している何者かの。
「まあ、そんなことはどうでも良いや」
この二週間、全くの孤独で不安も感じはしたが、気楽であった。
俺にストレスを与える他者が誰も居ないというのは心の重荷が取れたようで爽快であった。
基本的に、家族とごく一部の親しい人間以外の全ての他人がストレスでしかない、そういう人間である。
家族すら居ないという点を除けば、願っても無い状況だ。
自分が故郷と思い定めた土地を、誰憚ることなく見て回れる。
良い休暇になった。
誰が何を思ってこんな事をしているのかは解らないが、このまましばらく過ごすのも悪くはない。
誰に気兼ねする事もないのだ、人目を憚って出来なかった事でもなんでも、試したかった事はいくらでも試せばいい。
食料の問題は第五項で解決した。
冷蔵庫の中身が七日に一度補充されている。
死人だから腹は減らんだろうと高をくくっていたから、空腹を感じた時にはひどく狼狽えてしまった。
よくよく考えれば日本の神話でもヨモツヘグイだかなんだかという名前で黄泉の国に食事があるとの描写があったではないか。うかつだった。
ともあれ、なんとかなって良かった。
ゴミ箱に捨てたゴミは七日後の朝にはゴミ捨て場に移動しており、昼頃までには消えている。
一体どこに消えているのか。
ゴミ箱に入って待っていればあるいは脱出できるのかもしれない。
家族にも祖母にも会えないのは寂しいが、しばらくこの箱庭で暮らそう。
明日は電車やバスに乗ってみようか。
運転手の居ない乗り物は流石に怖くて乗っていなかったが、挑戦してみよう。
俺にはなんでもできるのだ。
俺の人生は既に終わっている。気を使う相手も居ない。
先々を考える必要がない。望むままに動けばいい。
夏休みだ。夏休みが俺のもとに帰ってきたのだ。