働かなくても負けかなっておもう
夕暮れ退社の時間がやってきた。仕事をしない仕事を終えたオレは、帰りのチャイムと共に帰路についた。人間達のいくつかビルから出ても家路についていた。人間達は妖怪のオフィスが自分達のオフィス街に紛れ込んでいるというのに誰一人として気がつかない。彼らにとって自分達以外のの仕事場は存在しないのと同じなのかも知れない。
オフィスビルを出た直後、背中からそっと声をかけられる。
「あの先輩も、お仕事終わったところですか」
後輩の妖狐ちゃんだった。
彼女はやさしくそれでいて頑張り屋さんな新人。なんでも一生懸命仕事をこなしてくれる。入社研修時の忙しいこの時期に、仕事を定時でこなすということは、彼女も何か今日定時に帰りたい理由でもあったのだろうか。
それでも、どんなつらい時でも決して彼女は笑顔を絶やさないだろう、そんな芯の強さを持っていることも感じていた。
「あの、あたし一人暮らしでよく晩ご飯の油揚げ余っちゃって、その、それで良かったら……」
お裾分けしてくれるつもりらしい、やはりやさしい。だが、今日はどうしても片付けなければならないことがあった。
「すまない、今日はダメだ。ネット掲示板にコピペを貼り付けたりする予定があって忙しい」
「あ、あの良かったら、それ、お手伝いしましょうか」
一人で十分と断る。彼女のやさしい心に甘えるわけにはいかない。
それにしても気になることがあった。なんだか雪姐さん、最近心なしか元気なさげなんだよなぁ。今日の凍える視線だって、いつもなら摂氏マイナス二百度のところを百度しか感じなかったし。
「あっ、雪先輩だ。でも、どうしたんだろ?」
不意の一声についつい反応する。
「えっ、なになに、雪姐さんがどうしたのッ」
我に返って彼女の視線の先を探すが、時遅く、既に彼女の姿は見えなかった。妖狐ちゃんはこちらの反応にビクッとし、両腕を体の内側に曲げて、小さくなる。
「えと、あの、さっき雪先輩が知らない人達と路地裏のバーに入っていったように見えたんですけど」
「何、あやしい勧誘か何かか。許さン。オレが助けねば」
妖狐ちゃんが指したバーへと向かって走る。
「えっ、でも雪先輩が、そのプライベートなお付き合いをされている方かも、お邪魔なんじゃ」
妖狐ちゃんは余計なことを言ってしまった感で、尻込みしてしまった。
「オレ、ちょっと見てくるよ」
「あっ、私もいきますっ」
路地裏バーに入ると、雪先輩の姿はすぐに見つかった。奥の席で知らない奴らに囲まれ何か話をしている。幸い向こうにはまだ気づかれていない、オレは自然にさりげなく、上手い具合に雪先輩達の後ろが空いていたので、そこへ移動した。
付き合いのいい妖狐ちゃんもそれに続く。
「コカコーラ」
「ソフトクリームをお願いします」
それぞれ注文する。
イスの背は高く、ギリギリオレ達の背丈を向こうから隠してくれている。そのイスの背越しに淡々としたビジネス口調が伝わってくる。
「……考えてくれたかしら、首を縦に振ってくれれば今より数段上の待遇が待っているわよ」「そのことについては、何度もご返事をしたはずです」
きっぱりとした雪姐さんの声音。
「あら、まだ引き延ばす気。案外引っ張り上手なのね、業者を通してもラチがあかないから、アタシ自らが足を運んだっていうのに」
理解した。こいつは間違いなく他企業からの引き抜き、ヘッドハンティング。その現場。
妖怪会社においても引き抜きは珍しくない。鉄鼠部長も元々はヘッドハンティングで内に来たと聞いた。
ある重大プロジェクトのために呼ばれて、諸手で歓迎された。部長はそのプロジェクトの中心人物として、精力的に仕事をこなし見事大成功を納めたという。
そういう事例があるから、優秀な妖怪に声がかかるのも無理はない。
ところがその話はそれだけでは終わっておらず。いざその仕事が完成すると、会社はその席だけ残して、彼をやっかみ用済みにした。
結局、あとにも先にもその高い能力が生かされたのはそれっきり。彼は今でも能力以下の仕事しか与えられてはいない。
ヘッドハンティングの陰と陽。それを知らない雪姐さんではない。
それでもそれは彼女本人の問題だ。
オレ達がどうこういう問題じゃあない。雪姐さんがもし、転職したいならすればいい。
でも気持ちとしては、離れていって欲しくない。
祈るような気持ちで、彼女の返事を待った。
彼女はいつもの音を奏でるつららのような冷え冷えとツンとした声で。
「私、今の職場が好きですから」
よかった。オレは内心胸をなで下ろしていた。だってそうだろう。職場でのオレの心のかまくらが溶かされてしまうかも知れなかったんだから。