順番 :約7000文字 :SF :宇宙 :暴
「いやー、ほんと……はー……」
「……いや、何か言えよ」
宇宙船アステロ号。その食堂で、おれたちは一つのテーブルを囲んで座っていた。合成コーヒーの入った紙コップをそれぞれ手にし、かすかに震えが残る指先を温めながら、先ほどの危機を乗り越えたことを七人全員がようやく実感し始めていた。誰もが神経を解きほぐすように、深く息を吐いていた。
普段、軽口ばかり飛ばしているレイモンドでさえ、このように言葉を失うほどあれはまさしく絶体絶命だった――いや、いつものレイモンドのおふざけだ。わざとらしく何度もため息をつき、しまいには「はー!」と声を張り上げた。
ビルが呆れたように肩を小突くと、誰からともなく笑いが漏れ出し、たちまち室内に満ちた。
このお決まりのやり取りは平穏が戻ったことを確認するための儀式のようなものだ。皆がそれをわかっており、過剰なほど笑った。
その笑い声が静まりかけた頃だった。ドアが静かに開き、全員の視線が一斉にそちらへ吸い寄せられた。
アンドウだった。
「おお、アンドウ。お前もこっち来て座れよ」
レイモンドが真っ先に声をかけた。
「それともおっ立ってんのが好きか?」
どうやら完全に調子を取り戻したらしい。女性陣――ミラは呆れたように目を細めて苦笑し、ポーリーは「最低」と吐き捨て、ナッツを一粒摘まみ、レイモンドへ投げつけた。それが胸に当たると、レイモンドは銃で撃たれたように大げさに仰け反り、机に転がったナッツをひょいと摘まみ上げて口へ放り込んだ。
アンドウは入口から数歩進んだところで足を止めた。
何も言わず、ただおれたち一人ひとりの顔をゆっくりと見回すと、こめかみにそっと指を当てた。
数秒後、食料貯蔵室へ続くドアが閉まった。そのドアは普段から開けっ放しにしてあった。食堂との行き来が多く、そのたびに開閉するのが面倒だからだ。
どうやらアンドウが船内AIに指示を送ったらしい。細かいやつだ。この前もビルがトイレを流し忘れたことをみんなの前で指摘した。ビルは笑いながらアンドウの頭を軽く叩いたが、内心ではかなり苛立っていたに違いない。
「どうした、アンドウ」
船長は椅子に腰掛けたまま背筋を伸ばし、静かに問いかけた。
その一言を境に、空気が目に見えて変わった。皆の表情から笑みがゆっくりと消えていく。また何か起きたのか――誰も口に出さなかったが、全員が同じ考えに行き着いたのは、その強張った顔を見れば明らかだった。
レイモンドが立ち上がり、アンドウに近づいていった。
おれは心の中で小さく感謝した。隣に座っていたから聞こえたのだ。彼が自分の役目だとばかりに、ふっと小さく息を吐いたのが。彼のおふざけには苛立つことも少なくなかったが、こういった場面では助かる存在だ。
「ほらほら、お前も来いよ。嫌な知らせとかはナシだぜ。今ようやく――」
レイモンドが笑いながらアンドウの肩に手を置いた――その瞬間だった。ぶちっと湿った音がして、レイモンドの言葉が途切れた。
赤い雫が二人の間に落ちた。
最初は数滴だった。びた、びたと間を置いて落ちていた血は、ほどなくして雨のように滴り、床に小さな赤い水たまりを広げていった。
静まり返った食堂に、その湿った音がいやに響いた。
レイモンドがふらりと一歩後ろへ下がった――おそらく、それが最後の意志だったのだろう。脳が下した命令の残滓は、蝋燭の火を吹き消すようにふっと肉体から消え去り、次の瞬間、彼は膝から崩れ落ちた。
アンドウの手には、レイモンドの下顎が握られていた。ただ、それは『もぎ取られた』という前提がなければ顎だと分からなかっただろう。
肉は圧し潰されて原形を失い、裂けた皮膚が赤黒い布切れのように垂れ下がっていた。砕けた骨片が肉を突き破っていくつも露出し、白い歯列が靴のスパイクのように不気味な規則正しさで並んでいた。
その赤黒い肉塊は、熟れすぎた果実を握り潰したようでもあり、繭の中でドロドロに溶けた幼虫のようにも見えた。
床に倒れたレイモンドの顔のあたりから二度、ぴゅっ、ぴゅっと脈打つように血が噴き出した。何かジョークを言おうとしたのかもしれない。が、床を汚しただけに終わった。
ついさっきまで食堂を満たしていた笑い声は完全に消え失せ、もはや記憶から手繰り寄せることすらできなかった。いや、声を出すどころか、皆呼吸すら忘れていたのかもしれない。
アンドウは無表情でこちらをじっと見据え、その腕を横に振り払った。
レイモンドの下顎だったものが壁に叩きつけられた。鈍い音が響いた直後、歯が数本弾け飛んだ。白い歯はダイスを転がすような軽い音を立てながら床の上を転がり、やがてぴたりと止まった。
静かだった。あまりにも静かすぎた。
アンドウが一歩前へ踏み出した。その足がレイモンドの頭に乗り――おそらく意図したわけではない。ただそこにあっただけだ――湿った破裂音を響かせて押し潰した。尋常ではない圧力がかかっていたのだろう。砕けた頭蓋骨が内側から皮膚を押し上げ、ぼこりと不自然な膨らみをいくつも生んだ。その直後、頭皮が裂け、灰白色の脳がほとんど原形を保ったままぬるりと床に滑り出した。血と脳漿が混ざり合いながら床を這うようにゆっくりと広がり、生温かい臭気が室内を漂った。
「い、いやああああ!」
ミラが悲鳴を上げた。
頭の血管が切れてそのまま卒倒するんじゃないかと思うほどの絶叫だった。おれは咄嗟に立ち上がり、彼女を支えようとした――席が一番離れていたにもかかわらず――だが、駄目だった。足が激しく震え、膝ががくんと折れて椅子に縫い付けられたように動けなかった。
船長がそっとミラの背中に手を添えるのが見えた。
「おい、てめえ!」
ビルが怒鳴り声を上げ、勢いよく立ち上がった。その拍子にテーブルの紙コップがぐらりと傾いた。おれはなぜか反射的に腕を伸ばし、倒れかけたそれを支えた。
シンバは椅子に座ったまま両手を胸の前で固く組み、ぶつぶつと何かを呟き続けていた。たぶん神への祈りだろう。彼女は神の熱心なファンだった。ただ、ここから地球まで遠く離れていることを差し引いても、その祈りが通じるとは思えなかった。
「頭ぶっ壊れちまったのか!? ああ!?」
壊れたのはレイモンドの頭だ。あるいは、ビルのも。
ビルはアンドウに詰め寄り、その肩を乱暴に掴んだ。アンドウは上体をわずかに揺らしただけでその手を外し、流れるような動きでビルの頭を両手で掴んだ。
次の瞬間だった。
ぱき、ぱきき、と指を鳴らすような乾いた音が連続して鳴り、ビルがこちらを向いた。いや、正確にはアンドウがビルの首だけをこちらへ捻り向けたのだ。
首元の皮膚は不自然にたるみ、幾重にも皺が折り重なっていた。
思うに、それでもまだビルは生きていた。まぶたを限界まで開き、驚愕の眼でおれたちを見つめていたのだ。喉の奥からひゅう、ひゅうと壊れた笛の音のような呼吸音が細く漏れていた。
だが、それも束の間だった。
アンドウはビルの頭を包み込むように掴み直し、力を込めた。
ぐしゃり、と頭部はあっけなく潰れた。自動ドアが閉まるかのような平然とした動きであった。まあそうなるよな、と妙に納得したほどだった。
頭蓋がひしゃげたその勢いで左右の眼窩から眼球が押し出され、そのうちの一つが血を引きながら床を転がり、おれの足元で止まった。その瞳には、なお驚愕と恐怖が焼き付いているように見えた。
アンドウの指の隙間から脳がむにゅりと押し出され、まるでピンク色のナメクジがまとわりついているかのようだった。赤黒い脳漿が粘り気を帯びてとろりと垂れ落ち、指先から床へ向かって細い糸を引いていた。
やがてアンドウはゆっくりと手を開いた。支えを失ったビルの身体はその場に崩れ落ちた。押し潰されて陰茎のように細長く変形した頭部が床に落ちると、重く湿った音が響き、血とこびりついていた脳の破片が周囲に飛び散った。
アンドウの手のひらには、トマトの薄皮のようにビルの顔の皮膚の一部がべったりと貼りついていた。
「は、ひっ……!」
ポーリーが悲鳴とも嗚咽ともつかない声を漏らし、椅子から跳ね上がった。そのままドアへ――アンドウが入ってきたのとは反対側――駆け出した。
「なんで! なんで!」
だが開かなかった。ポーリーは叫びながら認証パネルに何度も手のひらを押し当てたが、ドアは沈黙したままだった。おそらく、先ほどアンドウが船内AIを介してロックしたのだ。
ポーリーは半狂乱になってドアを何度も叩き、次には細い隙間に両手の指をねじ込み、力任せにこじ開けようとした。
アンドウがゆっくりと――いや、普段どおりの速度で――ポーリーへ歩み寄る。
船長はアンドウが横を通る瞬間に立ち上がりかけたが、その身体は凍りついたように止まり、それ以上一歩も動かなかった。
アンドウがポーリーの背後に立った。それでも彼女は振り返らず、泣き叫びながらドアをこじ開けようとしていた。
その手へ、アンドウが自分の手を静かに重ねた。
「あああああああ!」
悲鳴以外、何も聞こえなかった。だが、ポーリーが振り返って両手を掲げたことで、何が起きたのかは一目で理解できた。両手の指の関節はことごとく押し潰され、指はそれぞれあらぬ方向へ折れ曲がり、萎れた観葉植物のように力なく垂れ下がっていた。
アンドウはポーリーの顔に手のひらを押し当てた。ポーリーは目を剥き、掠れた悲鳴を上げながらばたばたと両腕を振ってアンドウの身体を叩いた。必死に首を振り、その手から逃れようともがいたが、その動きは撫でられてはしゃぐ犬が顔を擦りつけているようにも見えた。
アンドウがぐっと腕に力を込めた。次の瞬間、ドア一面に放射状に鮮血が飛び散った。
横向きにドアに叩きつけられたポーリーは、前頭部だけが奇妙なほど綺麗に形を保っていた。しかし、その後ろ半分は完全に磨り潰され、砕けた頭蓋と血肉が赤黒い泥のように押し広げられ、髪の束がドアにべったりと貼りついていた。
顔には、アンドウの手に残っていたビルの褐色の皮膚片がそのまま貼りついていた。それは彼女が崩れ落ちるのと同じ速度でずるりずるりと頬を滑り落ち、最後には紅茶の茶葉のように血だまりの中へ静かに沈んでいった。
「サーマ! ドアのロックを解除しろ! 船長命令だ!」
青ざめたミラの肩を抱きながら、船長が天井に向かって声を張り上げた。
だがサーマ――この船のAIの愛称――は何も応答しなかった。
アンドウはゆっくりとこちらを振り返った。
シンバが椅子から転げ落ち、床を滑ってきゅっと高い音を立てた。逃げ出そうとしたが足が言うことを聞かなかったのだろう。
アンドウは静かに歩み寄り、無言で彼女の姿を見下ろした。
シンバは震えながら胸の前で両手を固く組んだ。
「神よ、天にまします神よ……かかか神よ、神よ神神神神かか神神神みみか、み、み、かみ、み、か、かか神神神神神神神神神神神み、み、み、みみみ、み、み、か、かみ、かみっかみっかみっかみっ」
救いを求めていたのか、それとも「これからそちらへ伺います」と挨拶していたのか。壊れた音声ファイルのように同じ言葉だけを繰り返し、一向に先に進まないため判別できなかった。
声は震え、歯がカチカチと細かく鳴り、組んだ両手も激しく震えていた。それでも祈りの形を崩すまいと力が入り、指が白くなっていた。
次の瞬間、アンドウがシンバの頭部を横から蹴り抜いた。短い衝撃音とともに首がへし折れ、顔が跳ねるように真横を向いた。左頬を差し出す必要はなさそうだった。
もしシンバが先に動いていなければ、ああなっていたのはきっとおれだった。
アンドウは静かに顔を上げた。そして――おれを見た。
おれか。おれの番なのか。
いや、待て。そうだ、待つんだ。動いた順に殺されていった。だから待て――何を? 他の二人が先に殺されるのを待つのか? 馬鹿な――。
おれは尻を浮かせ、震える足を引きずりながら椅子から椅子へと静かに移っていった。ミラの隣にたどり着くと、そっと彼女の肩に腕を回した。そして船長の手から奪い取るように、自分の胸へ引き寄せた。
ミラの身体には驚くほど抵抗がなかった。――船長の手の力を除けば――おそらく、その気力すら残っていなかったのだろう。ただ荷物のように、重力と作用する力の向きに身を任せていた。
口は半開きのまま閉じられず、目は開いているが、その瞳はただ目の前の光景を映しているだけで、何かを認識しているようには見えなかった。
おれはそっと顔を寄せ、彼女に口づけした。
ああ、紳士足らない行為だ。だが、死への旅路に出る前に一度だけ唇を潤すくらい、神は許してくださるだろう。先にシンバに会ったら聞いてみよう。
おれはそう思った。
「アンドウ、やめろ……! 船長命令だ! 今すぐ停止しろ!」
気づけば船長は立ち上がっていた。迫ってくるアンドウからじりじりと後ずさりしながら震える腕を前へ突き出し、必死に命令を繰り返している。
アンドウがその指を一本握った。その瞬間、船長は目を見開き、自分の指を凝視した。これから何が起こるかは自分でもわかっていたはずだ。だが、その目で確かめずにはいられなかったのだろう。
しかし、現実はその想像を容易く超えていた。
アンドウは船長の指を逆方向に折り曲げ、そのまま捻り上げた。関節からぶちりと裂け、指は骨ごと引きちぎられた。
船長は「あぎっ!」と短く濁った悲鳴を上げ、傷口をまじまじと見つめた。そのまましゃぶるのではないかと思うほど、目と口をあんぐりと開けていた。傷口から鮮血が幾筋も流れ、手首を伝い、肘から床へぽたぽたと滴り落ちた。
アンドウは空いた手で船長の顔を掴むと、引きちぎったその指を眼窩に押し込んだ。
船長の身体がびくっ、びくっと跳ねた。口はさらに大きく開かれ、喉の奥から泡立つような濁った音だけが漏れ続けた。
眼窩にねじ込まれた指は根元まで埋まり、その黒ずんだ断面は巨大な黒目のようにも見えた。押しつぶされた眼球から透明な硝子体液があふれ出し、血と混ざり合いながら頬を伝って落ちていった。
船長はゆっくりと膝を折り、やがて床にぺたんと座り込んだ。アンドウを上目遣いに見つめ、首振り人形のように首を左右に小さく揺らしていた。
アンドウはその後頭部へ拳を振り下ろした。
ぶぶぶぶっと湿った濁音が響き渡った。鼻孔から血が凄まじい勢いで噴き出し、一瞬赤い靄となって宙を舞った。
船長の身体は前へ崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
アンドウがくるりとこちらを向き直った。
おれはミラを抱き締めたまま、その姿がゆっくりと大きくなっていくのをただ見つめることしかできなかった。
「あ、あ……あ……」
おれは震える腕を持ち上げ、指を前へ伸ばした。
次はおれだ――。
アンドウがおれの伸ばした手を握った。その瞬間、おれの意識は暗闇に沈んだ。
◇ ◇ ◇
「……あ、え」
気がつくと、アンドウの姿はなかった。
耳鳴りがしている――いや、違う。脳が細かく揺さぶられているような感覚があったが、吐き気も痛みもない。
ここは――。おれは周囲を見回した。隣にミラが座っていた。座席に身体を斜めに預け、まだ意識を失っているらしい。乱れた髪が頬に張りつき、胸がかすかに上下していた。
おれは自分の手に視線を落とした。指は無事だった。
どうやらおれも気絶していたらしい。そして、おれたちはなぜか脱出用の小型ポッドの中にいた。開けたままの扉の向こう――船内ではけたたましい警告音が鳴り響き、赤色灯が一定の間隔で明滅していた。獣の唸り声のような金属が軋む鈍い音まで聞こえてきた。
いったいどうなっている――。
そう思ったそのときだった。ぬらりと黒い影がポッドの入口に滑り込んできた。
アンドウだった。
喉がひくつき、おれは反射的に背中を座席に押しつけた。呼吸が止まり、隣のミラの手を思わず握り締めた。
アンドウがポッドの中へ顔を突き出した。
『先の隕石群との衝突により、宇宙船に致命的な損傷が確認されました。稼働可能な脱出ポッドは一基のみでした。そのため、極秘緊急プログラムを実行しました』
「ご、極秘……?」
震える声で問い返すと、アンドウは無表情のまま頷いた。
『はい。搭乗可能人数に達するまで、私の判断で乗員を間引かせていただきました』
「ま、間引きぃ? な、な、なんで……」
『安全用ベルトを着用してください』
おれは唾を飲み込んだ。
「なんで、おれたちだったんだ……?」
ミラの肩を抱き寄せながら、おれは震える声で訊ねた。
『私の観察によれば、二人は相思相愛です。互いに協力することで生存率が最も高くなると判断しました。他の乗員の役割は私が代替可能ですが、愛情は数値化できませんから』
アンドウはおれたち二人の間に腰を下ろすと、ミラに安全ベルトを丁寧に装着し始めた。
やがてベルトを締め終えると、こちらに顔を向け、微笑んだ。
『申し訳ございません。計算ミスです。重量オーバーでした』
「あ、あ、あ、あ……」
顔から血の気が引き、おれは声にならない音を漏らした。足ががくがくと震え、膝がぶつかって小さく鳴った。震えが腰まで伝わり、込み上げた尿意は堪える間もなく決壊した。股間がじわりと熱を帯び、温かな液体が脚を伝い流れ落ちていった。
アンドウは数秒間おれを静かに見つめ、それから口を開いた。
『ジョークです』
アンドウ――アンドロイドはそう言うと十字を切り、おれにも安全ベルトを装着し始めた。




