雨雲の杖と水魔術
オアシスの中央。
水が湧き続ける噴水のある広場へ向かう。
——そこは、ミイナにとって覚えのある場所だった。
足を踏み入れた瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。
石造りの縁。
浅く張られた水面。
人の往来。
(……ここ)
ニイナと、待ち合わせをした場所。
あの日、約束を信じて立っていた噴水。
結局、ニイナは来なかった。
ミイナは無意識のうちに歩みを緩めていた。
「ミイナ?」
ペルシャの声に、はっと顔を上げる。
「……なんでも、ありません」
そう言ったものの、視線は噴水から離れなかった。
水面が揺れるたび、ニイナの顔が浮かぶ気がする。
一行がこの噴水にやってきたのは、ナディルの仕事のためだった。
「ナディルさん。ここで何をするの?」
ミイナはニイナの影を振り払うように頭を振ってから、そう尋ねた。
「水を貰うのです。ミイナさんは、雨降師のお仕事をご存知ですか?」
「ごめんなさい。名前も、初めて聞きました……」
「いいんですよ。知らないということは、罪ではありません」
そう言うと、ナディルは抱えていた杖を噴水へ向けて翳した。
身の丈ほどもある木製の杖。
その先端には、幾何学模様が幾重にも刻まれた、水晶玉のようなものが嵌め込まれている。
「これは“雨雲の杖”といって、水を吸収し、雨雲を作り出すことができる魔道具です」
ナディルは噴水に向かって、静かに杖を傾けた。
水晶玉が、わずかに光る。
水面が揺らめいた。
次の瞬間、噴水の水が浮かび上がり、まるで意思を持ったかのように一本の流れとなって、水晶玉へ吸い込まれていった。
「あっ……凄い!」
ミイナが思わず感嘆の声を上げる。
水晶玉の色は、透明から淡い青へと変わっていった。
ナディルはその色を確かめ、ほっと息をつく。
「この水を畑まで運び、増幅して雨雲を作り出すのが、私たち雨降師の仕事です。
もっとも、凄いのはこの杖であって、私ではないのですけれどね」
ナディルは、少し照れたように苦笑した。
「そんなことないと思いますけど……。そんなに凄い杖なんですか?」
「ええ。この雨雲の杖は、かつての勇者様の仲間――大魔術師ハイランド様の作です」
クシュん!
突然、モノがくしゃみをした。
ミイナは思わず、黒猫の方を見る。
「我が家の家宝なんです。この杖のおかげで、代々、雨降師として暮らしてこられました。
もっとも、ハイランド様ほどの魔術師であれば、杖など必要なかったのかもしれませんが」
どこか誇らしげに語るナディルを尻目に、モノがぼそりと呟く。
『いいや。あいつは水魔術はからっきしだったよ』
やっぱり、モノは凄い猫なのだと、ミイナは思った。
*
馬駱駝小屋へ戻るころには、夕方の光はすでに傾きはじめていた。
空の色は薄い橙から灰色へと移ろい、砂漠の輪郭が少しずつ柔らいでいく。
「出発前に、これを」
小屋の世話係が差し出してきたのは、革と布で作られた装具だった。
丸いレンズの嵌まったゴーグル。
口元から首元までを覆う、長い布――マスク代わりのマフラーだ。
「砂よけです。
走り出したら、口も目も開けていられませんよ」
ミイナは手に取ったそれを、じっと見つめた。
少し硬く、砂の匂いが染みついている。
「……本当に、そんなに速いんですか?」
「ええ。歩く砂漠と、走る砂漠は別物です。
それでも、石麦村までは七日ほどかかりますよ。砂漠は広いですからね」
ペルシャはそう言いながら、慣れた手つきでゴーグルを装着し、白い外套の上からマフラーを巻いた。
ミイナも見よう見まねでゴーグルをかける。
視界が少し狭まり、世界が遠くなったように感じた。
「……変じゃ、ないですか?」
「大丈夫です」
ペルシャは即答する。
「ちゃんと、似合っていますよ」
ミイナはほっとして、マフラーを口元まで引き上げた。
吐く息が布に当たり、少しだけ暖かい。
ナディルはというと、すでに完全装備だった。
慣れた動きでゴーグルを調整し、杖を背に固定している。
「初めて乗る方は、揺れますから。
こぶの間に、しっかり掴まってくださいね」
そう言って、バラクーダの側面を軽く叩いた。
バラクーダは低く喉を鳴らす。
昼間よりも、どこか落ち着いた声音だった。
モノはというと――
『猫用のゴーグルはあるのか?』
「もちろん、ありません。だからモノは私の服の中に――」
ペルシャが言い切る前に、モノが遮る。
『断る。ミイナ、コートの中に入れてくれ』
「え? うん。いいけど……」
その瞬間、ペルシャの表情が一変した。
「なんでニャ!?
婚約者の私を差し置いて! やっぱり、若い子の方がいいのかニャ!?」
『そういうところだ。過剰に触られそうで嫌だ。あと、その語尾やめろ』
「ひどいニャ!」
二人のやり取りを、ナディルは唖然とした様子で見ていた。
「え……ペルシャさん、人格変わってません……?
それに、猫が婚約者って……」
「し、初対面では猫を被る人なんです!
あと、婚約者にしたいくらい、あの猫を可愛がっているだけです!」
ミイナが慌ててフォローする。
「な、なるほど……そういうものですか……」
ナディルは困惑しつつも、どうにか納得したようだった。
*
全員が準備を終えると、世話係が合図を送る。
「行けるぞ!」
バラクーダが、ぐっと身を低くした。
巨大な体が、静かに力を溜める。
ミイナは、こぶの間に手をかける。
なめらかな革の感触が、指先に伝わってきた。
(……行くんだ)
オアシスの外。
見たことのない世界へ。
「出発します」
ペルシャの声が、短く響く。
次の瞬間――
バラクーダは、砂を蹴った。
世界が、後ろへ流れ出す。
風が唸り、砂が舞い上がる。
ゴーグルにも砂がかかり、視界が一気に白く染まった。
ミイナは必死に掴まりながら、思った。
(……本当に、旅が始まるんだ)
オアシスは、あっという間に遠ざかっていった。
水の匂いも、人の声も、すべて背後に置き去りにして。
バラクーダは、砂漠へと走り出した。
*
砂漠の旅では、移動の時間帯が決まっている。
日が昇り切る前の早朝と、日が傾く夕暮れ。
昼は砂が焼け、夜は冷え切るため、バラクーダといえども、その時間帯にしか移動できないのだった。
初日の移動は、夕暮れまでで切り上げられた。
バラクーダは合図ひとつで速度を落とし、やがて静かに足を止める。
辺りは、見渡す限りの砂と岩。
遠くに高い岩場があり、風を避けられそうな場所だった。
「今日は、ここまでにしましょう」
ナディルの言葉に、ペルシャが頷く。
バラクーダから降りると、砂は昼ほどの熱を持ってはいなかったが、それでもまだ温かい。
簡単な野営が整えられる。
風よけに布を張り、火は最小限。
水は節約し、食事も控えめだ。
ミイナは焚き火のそばに腰を下ろし、空を見上げていた。
昼間は白く霞んでいた空が、今は群青に沈み、星が一つ、また一つと浮かび上がっていく。
(……砂漠って、静かだ)
街とも、森とも違う静けさ。
生き物の音はなく、ただ風が吹き抜ける音だけが響いていた。
「眠れそうですか?」
隣に、ナディルが腰を下ろした。
手には、水袋と、例の杖。
「……ちょっと、不思議で」
ミイナは正直に答える。
「不思議?」
「私、旅してるんだなって。今まで、想像もできなかったから」
ナディルは少し目を瞬かせてから、穏やかに笑った。
「そうですね。旅はいいものです。
昨日までの自分とは、違う場所へ行ける気がしますから」
ミイナは意を決したように、ナディルへ向き直る。
「ナディルさん。私に、魔法を教えてくれませんか?」
「魔法……魔術のことですか?」
「はい。私、このまま何の役にも立てないのが、嫌なんです」
「そうですか……。ですが、魔術師になれるかどうかは、生まれつきの適性が重要になります。
言わば、血筋ですね」
「血筋……ですか?」
「はい。魔術を使える血筋のことを“竜血”と呼びます。
まずは、ミイナさんが魔術を使えるか、確かめてみましょう」
「はい! よろしくお願いします!」
ミイナは深々と頭を下げた。
「そんなに畏まらなくて大丈夫ですよ。
判定には、これを使います。私の師匠から頂いたもので、お守り代わりに持ち歩いているのです」
ナディルはローブのポケットから、拳大の水晶玉を取り出した。
「“空玉”といいます。これを、握ってください」
ミイナは言われるまま、右手で水晶玉を握り締める。
「あっ!」
二の腕から掌にかけて、何かが流れる感覚。
いや、吸い取られていく――そんな感覚だった。
「……出来ましたね」
ナディルが小さく呟く。
水晶玉を見ると、透明だった内部に、白い靄がかかったように見えていた。
「これは……?」
「大丈夫。才能はあります。
空玉は、強制的に魔力を吸い上げ、雲を作る魔道具です。主に、雨降師の才能判定に使われます。
最初は靄ですが、魔力量が上がれば雲になりますよ」
「よかった……!
……え? あの、ナディルさん、これは……?」
ミイナの手の中で、靄はみるみるうちに黒い雲へと変わり、水晶玉の中で、台風さながらの大雨を降らせ始めていた。
「ええ!?
凄い……! ミイナさん、魔力量が桁外れですね。驚きました……!
私も、最初から雨を降らせたりはしませんでしたよ」
「そ、そうなんですか……?」
「ええ。しかも、魔力量は使えば使うほど伸びていきます。
これから先が、楽しみですね」
ナディルは空を見上げる。
「もう遅いですし、初日はここまでにしましょう。
明日から、修練をしてみますか?」
「はい! よろしくお願いします!」
ミイナは、信じられない気持ちと、ほんの少しの誇らしさに、胸を高鳴らせていた。




